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*王国再編成 [#q1441924]

**権威あれども屈する者無く、権力あれども基盤無し [#lcbc7b5a]

王国継承法の改革を力で持って成し遂げようとしたMihály王でしたが、922年、志半ばにして急逝してしまいます。
後を継いだのは長男のGáspár
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   ぱっと見の能力は酷いが、後に「嫉妬」「大食」が消えて「勤勉」「残酷」がつく。イベントの上昇も含めだいぶマシに
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分轄相続の悪弊で、彼に残された領地はPest1伯領のみ。
さらに悪いことに、先王時代に結成された対抗同盟が、この時とばかりに勢いを強めています。
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強力な敵に、貧弱な地盤。
Gáspárの玉座は、始まりからその維持すら危ぶまれる程の危機に瀕したものになりました。

そんなGáspárでしたが、しかし、彼には前王Mihályにはなかった二つの武器がありました。
一つは先代が強化に腐心した王の権威。
もう一つは、Gáspár自身の持つなんとも言えない人懐こさでした。

**統一に向けて [#lcbc7b5a]

Gáspárはただちに動きました。
対抗同盟に属する諸侯の中でも比較的王に好意的な者達と個別に会い、王への忠誠を確認していきます。
これにはGáspár自身のもつ人懐こさだけでなく、即位を祝す下賜金(という名目の買収)も大いに役立ちました。
Gáspárはこのような場合の金の使い方についてよくわきまえていました。
こうして対抗同盟は少しずつ崩されていきます。Gáspárは先代とは異なり、外交で事を収める方法を選んだのです。
この方法は直轄領を著しく失っていたGáspárにとって打つことの出来る最善手だったのですが、時間がかかる上に効果が見えにくいという欠点があります。
しかし、彼はやり遂げました。7年後の929年に挙行した戴冠式(及びトーナメント)には三公爵を始めとする主だった封建領主達が勢揃いします。
Gáspárは国内の統一に成功したのです。
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**神の欲せらるるままに[#lcbc7b5a]

Gáspárが戴冠式を挙行する一年前、928年のことです。時の教皇FerixⅣは、エルサレムへの十字軍を宣言しました。
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丁度この時エルサレム周辺はシーア派のスルタンによって支配されており、宗教的に孤立した状況にありました。((周囲はみんなスンニ派))
「聖地を奪還するは今!」
とは言え前回の十字軍とは違い、第二次十字軍は敵地への侵攻戦。
宗教騎士団の献身ぶりは確かなものでしたが、それだけではいささかの不安が残ります。
そんな訳で、教皇はヨーロッパ中の王侯貴族たちに十字軍への参集を呼び掛けます。
Gáspárのもとにも出兵を促す書状が届いていました。しかし、現状は予断を許す状況ではいまだありません。
Gáspárはこの場での決断を避けることにしました。

そして、明けて929年。
戴冠式の挙行を持って、国内の統一は成りました。
その戴冠式の最中、GáspárはEsztergom司教(王国内の聖職者序列第一位)を前にして次のような宣誓を行ったのです。
「皆も知っている通り、尊敬すべき四騎士団を中心とした神の軍が、今、海を渡り我らの聖なる都を取り戻すために異教徒どもと聖なる戦を進めている。此度戴冠と
 いう形で神の恩寵をいただいた私としては、これに報いるために聖なる戦へとこの身を投じ、乳と蜜の流れる土地カナンを再びキリストのものとする一助となりたい。
 諸侯たちよ、忠勇無比たる騎士たちよ、真の信仰を持つ者たちよ、我が旗のもとに集え!神の欲せらるるままに!」
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鉄は熱いうちに打て、といいます。宣誓がもたらした熱狂を、Gáspárはすぐさま利用しました。
全諸侯を動員した遠征軍を組織、わずかな廷臣だけを残してエルサレムを目指します。
ビザンチン領を通過し、930年、ついにエルサレムに到着しました。
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といっても、イスラム側の軍は既に先乗りしていた騎士団の連中に一掃されていたので、Gáspárの役目は都市の包囲と
イスラム側の援軍への警戒といったものでした。キリスト側の勝利は、この時点でほぼ確定的といっていいものでした。
しかしその頃、ハンガリー本国では大変な事態が発生していたのです。
**牧師たちの十字軍[#lcbc7b5a]
『経済的な重圧と十字軍によって引き起こされた宗教的熱狂が原因となって、多くの小作農に不満が蓄積されていた。
“ハンガリーの主”と自称することで知られる風変わりな老齢の修道士は、協会の体制を批判し“牧師の十字軍”を民衆に説教した。
彼はすでに大量の支持者を集めることが出来、これは言わば牧師の軍だが、彼らは国中で聖職者を攻撃しユダヤ人を殺してまわている。
言うまでもないことだが、教会は面白くはない。現在大衆は首都に進軍して、王に支援を要求するかどうかの議論をしている
―この事態がどこで終結するのか、誰がわかるだろうか?』
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   犯罪者共の首は柱に吊るされるのがお似合いだ。



Nitraを中心に沸き起こった暴動には、3万もの民衆が集まりました。Gáspárはただちに帰国を決定します。
帰路の途上で、十字軍成功の報が届きました。エルサレム一帯の管理は戦功著しかったホスピタル騎士団に一任される、とのことです。

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半年後、帰国したGáspárはRózsahegyで暴徒とぶつかります。

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兵数が多いとはいえ、装備もろくに整ってない民衆相手に戦いを生業とする騎士たちが負けるわけにはいきません。この後二度の追撃戦で暴動は完全に鎮圧されました。

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** 再編の完了[#lcbc7b5a]
十字軍遠征にも((後乗り、しかもすぐに帰国したが))成功し、暴動をも鎮圧したことでGáspárの国内での基盤は確固たるものとなりました。
もはや国内で彼に立ち向かうものはいません。
万全の態勢で、Gáspárは王権の拡大に関する法を諸侯の会議にかけました。

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満場一致でこれは可決。
父Mihályの死後まで尾を引いた王権の拡大を、Gáspárは誰も文句のつけようのない形で決着させることが出来ました。

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ここまでくれば、後は一息です。

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932年8月、親子3代にまたがった継承法問題は、王権の拡大というおまけ付きで解決することとなりました。
ハンガリーはこの後、王の長子がその財産の全てを受け継ぐこととなるのです。


** 力を![#lcbc7b5a]

相続による散逸の心配もなくなり、内外を問わず問題の無くなった今が中央集権化を進めるチャンスです。
三公爵の一つ、ペスト公の領地を召し上げ、首都周辺を王の直轄地にします。
手に入れた土地は順次投資を行い、豊かなものにしていきます。後代への贈り物です。

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金の匂いを嗅ぎつけたのか、Pestにもユダヤ人が多く見られるようになってきました。


**その後[#lcbc7b5a]

その後のGáspárの統治は穏やかなもので終始しました。


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Árpádの大征服行より数えて80年余り。少しづつ同化が始まっています。

またカトリック信仰も根付き、初のハンガリー人教皇も誕生しました。

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一方、隣国のビザンチンでは内乱の末にMakedon朝最後の女帝Kyraが退位、幽閉され新たにMaleinos朝が興りました。
しかし女帝派の諸侯もまだ残っており、内乱は暫く続くと思われます。

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また、エルサレムのキリスト勢力による支配も長くは続きませんでした。
スンニ派のジハードによって再び聖地一帯はイスラムに帰しました。

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955年11月11日、Gáspárは軽い昼食を取った直後に猛烈な腹痛に襲われ、意識を失います。
夜になって意識は取り戻したものの、もはや死は明らかでした。
Gáspárは長子のIstvánを枕元に認めると、にこりと微笑んだといいます。
12日未明、再び意識を失ったGáspárは、そのまま黄泉路へと旅立ちました。
享年55歳。
権威もなく、権力もない若干18歳での即位から王国をまとめあげ、祖父の代からの悲願であった継承法の改革を成し遂げた
Gáspárの人生は、勤勉な政治家と呼ぶにふさわしいものでありました。

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ハンガリー王Gáspárは55歳でキリストに召された。激しいストレスが原因であった。王István万歳!

Istvánの治世へと続く  [[穏やかな日々>AAR/ユサールの馬蹄記/穏やかな日々]]

TIME:"2014-07-06 (日) 05:06:30"

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