[[AAR/ヘカトンケイルの門番]]

*ステファン2世の治世 ・後編 [#b4abfc7f]


**内治と外交の時代 [#e88d04a8]

エピロス継承戦争が終結した1218年からアテネ継承戦争が勃発する1234年までの16年間、セルビアが自発的に始めた戦争はない。
この時代、ステファン2世の主な関心は内政の充実にあり、家令ラヨシュ主導の経済開発により王家は安定した税収を確保出来るようになっていた。

1227年2月19日
ニカイア皇帝テオドロスが崩御。長男マタイオスが帝位を継承した。

1227年2月24日
ステファンの三女ジョバラとシチリア王太子テオドリヒの婚約が成立した。
シチリア王フリードリヒはステファンの義弟であり、この婚約は両家の絆を更に深めるものとなるはずであった。

1229年3月17日
セルビア宮廷に1人の若者が現れた。
若者の名はアルタシール。アルメニア人である。
アルタシールはアナトリア半島の小都市コリクスの出身で、父はアルメニア王に仕える小領主だった。
1214年、ルーム・セルジューク朝の攻勢でアルメニアが滅亡すると故郷を逐われた父子はニカイア帝国に仕え正教に改宗する。
1227年に父の死で家督を継いだアルダシールはマタイオス帝と対立して帝国を出奔。
各地を転々とするうち、セルビア大臣ブラズにその才を見出されステファンにお目見えする事になった。
同日、ブラズはアルタシールを後任に推薦し引退。20才の若き大臣が誕生する運びとなったのである。

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 大臣アルタシール 極めて有能な外交官である

アルタシールは各地を転々としてきた経歴からギリシャやアナトリアの習俗や歴史に詳しく、それが後年彼の地の請求権獲得に大いに役立つ事になる。

123年1月4日
クロアチア王スチェパンが崩御。長男クリンが王位を継承した。

1231年2月7日
女王マリヤの強力な支配体制に不満をもつブルガリア諸侯はモエシア公ボリルを旗頭に仰ぎ女王打倒の兵を挙げた。
セルビア王妃でもあるマリヤは夫に反乱鎮圧への協力を要請。
王はそれを受諾した。

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 嫁からの救援要請 

王は元帥ストラツィミールに6000の兵を与えブルガリアへ派遣。
反乱軍を大いに破った。

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 セヴランの戦い

1231年3月17日
今度は義弟であるシチリア王フリードリヒが援軍を要請してきた。
相手は神聖ローマ皇帝フィリップ。フリードリヒの叔父である。
しかも、戦を仕掛けたのはフリードリヒの方であった。

>「派兵などもっての外です!今のセルビアに帝国と戦う力などありません!」

大臣アルタシールに云われるまでもない。
エピロスで助けてもらった義弟を見捨てるのは情として忍びないが、王国を破滅させるわけにはいかないのだ。

1232年1月23日
王太子ステファンとハンガリー女王ジョルジの結婚が成立した。
二人に子が生まれれば、いずれはセルビア・ブルガリア・ハンガリーを統合する大君主となるであろう。

1232年2月10日
モエシア公ボリルの降伏をもってブルガリアの内乱は収束した。
マリヤ女王は最大の危機を乗り切ったのである。

1232年7月9日
シチリア王フリードリヒが戦死した。
過ぎた野心が身を滅ぼした典型といってもよいが、開戦からわずか1年で首謀者が戦死した事はシチリア王国にとってはむしろ救いであったのかもしれない。
王位を継承した長男テオドリヒが最初に行った事は帝国との和平交渉だったのである。

1232年10月10日
前大臣サラノ男爵ブラズが死去。58歳であった。

1232年10月19日
元帥クラグイェヴァツ男爵ストラツィミールが59歳で死去。
後任には同じく平民出身のコンスタンティンが任命された。

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 元帥コンスタンティン 有能な人材が推挙されるイベントで宮廷に出現した自動生成キャラ

10日の間に2人の側近が他界した事はセルビア宮廷の世代交代を象徴する出来事であった。

1232年12月25日
ラテン皇帝ボードゥアン1世が61歳で崩御。長男のロテールが帝位を継承した。
後世ギリシャ人ロテールと呼ばれる人物である。

1234年3月21日
三女ジョバラとシチリア王テオドリヒの結婚が成立。
シチリアと再度同盟関係になった事で、セルビアは3つの王国と同盟関係を樹立した事になる。

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 四王国同盟 ブルガリア女王は嫁、ハンガリー女王は息子の嫁、シチリア王は娘婿である。もう1人の娘婿スラヴォニア公は元クロアチアの王子


**アテネ継承戦争 [#s67e8f57]

1204年にコンスタンティノープルを陥落させた十字軍勢力は旧東ローマ帝国領の征服を試みたがうまくいかず、ギリシャやアナトリアの多くの地域では旧支配層による独立勢力が形勢されていた。
アテネ公国もその1つであり、多くの文人を輩出した事でも知られるコニアテス家が独立国家を樹立して今に至っている。

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 アテネ公国

ギリシャ征服の野望を抱くステファンはアテネ公位への請求権を持つソマス・コニアテスを宮廷に招き攻撃の機会を伺っていた。
1232年にはソマスの為に城塞を建設し、ルボニク男爵に叙す事で封建主従関係を結ぶ事までしている。

1234年5月25日
アテネ公ティベリオスが23歳で急逝。長女のガリファリアが公位を継承した。
ガリファリアは生後2ヶ月の乳児であり公国の統治などできるはずがなかった。

1234年5月31日
セルビア王ステファン2世はソマスのアテネ公位を主張し、ガリファリアに宣戦を布告した。
この戦争ではセルビアと同盟関係にある全ての王国が参戦を表明したため、アテネは4人の王と戦争をする絶望的な事態に陥ってしまった。

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 セルビア・ブルガリア・ハンガリー・シチリア連合軍VSアテネ まるで集団リンチである

危機にあってアテネの貴族たちは結束し2年に渡って抵抗を続けたが、やはり圧倒的な兵力差を覆すことは出来なかった。

1236年6月29日
アテネ公ガリファリアは退位し、ソマスがセルビア宗主権下のアテネ公に就任した。
しかし、これで終わりではなかったのである。

1236年10月26日
ステファンは突如としてソマスの逮捕を命じた。
謀反を目論んだというのがその理由だが、そんなものはでっち上げである。
捕縛の手を逃れたソマスは暴君打倒の兵を上げた。

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 狡兎死して走狗烹らる

反乱はあっけなく鎮圧され、公位を剥奪されたソマスは男爵領への逼塞を余儀なくされた。
こうしてアテネはステファンのものになったのである。

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 アテネ征服後のセルビア王国


**アドリア海の女王 [#fb51c5f8]

最も高貴な共和国ヴェネツィア、通称ヴェネツィア共和国は歴史上最も長く存続した共和制国家である。
アドリア海の女王と謳われ繁栄を謳歌したこの共和国の歴史は7世紀に遡るが、元はといえば異民族の略奪から身を守る為に漁村の住民たちが結成した相互扶助組織にすぎない。
この小さな漁村が都市へと発展し、更には東地中海の制海権を掌握するまでに成長した背景には東ローマ帝国の存在があった。
ヴェネツィアは名目上は帝国領でありその政治的庇護を受けることが出来たのに加え、バシレイオス2世から免税特権を与えられたことにより東地中海の商圏を急速に拡大したのである。
その結果、ヴェネツィアは旧宗主国である帝国を経済的に支配するまでになった。
勿論、帝国はそれをよく思わずヴェネツィアの排除を試んだため両国関係は急速に悪化し、これが第四回十字軍が暴走した遠因の一つとなったのである。
交易で栄えた古代の都市国家がそうであったように、ヴェネツィアもまた地中海沿岸に多くの植民地を築いていた。
そしてそれが、国家の一円支配を望む王侯たちとの衝突を生む事になる。
セルビアにとってもヴェネツィアの存在は目の上のコブである。
王都のあるドゥブロヴニク州はアドリア海を代表する経済先進地域の一つだが、その最大都市ラグーサはヴェネツィア領である。
またセルビア本土とエピロス・アテネの間にあるディラキオン州もヴェネツィア領であった。
セルビア王国とヴェネツィア共和国は対決する運命にあったのである。

1238年11月7日
セルビア王ステファンはデュラキオン公領の請求権を主張し、その宗主国であるヴェネツィア共和国に宣戦を布告した。

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 デュラキオン

セルビア王国の国力はヴェネツィア共和国の半分にも満たない。
常識的に考えて勝ち目など無いはずである。
しかし、ステファンには勝算があった。
ヴェネツィアは神聖ローマ帝国と交戦状態にあったのである。

元帥コンスタンティン率いるセルビア軍はドゥブロヴニク州内の都市ラグーサを急襲。これを陥落せしめた。
また同盟国ブルガリアも参戦してデュラキオンを包囲。これを陥落させている。

このように緒戦はセルビア優位に進んだのであるが、開戦3年目を迎える頃には戦線は膠着状態に陥っていた。
ラグーサやデュラキオンを落としヴェネツィアの植民地を制圧したまではよかったのだが、それ以上の侵攻が出来なかったのである。

>「ヴェネツィアは2万を超える傭兵を雇用しております。我が軍にそれを打ち破る力はありません」

ヴェネツィア本土への攻撃を躊躇する元帥はこう釈明した。
こうした、両軍の睨み合いは以後3年続くことになる。

1242年9月20日
神聖ローマ帝国とヴェネツィア共和国に和平が成立した。
こうなったらセルビアに勝機はない。

1243年2月26日
セルビア軍は反攻に転じたヴェネツィア軍に大敗。
これ以上の戦争継続は不可能な状態に陥った。

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 サラノの敗戦

1243年3月21日
サラノでの敗戦の報告を受けたステファンは白紙和平を決断。
ヴェネツィア元首アンドレアもそれを受諾し、6年続いたデュラキオン戦争は何も得ることなく終結した。

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 無意味な6年間であった


**家族問題 [#zdfe650d]

1239年3月20日
ニカイア皇帝マタイオスが33歳で崩御。3歳の長女メリッサが帝位を継承した。

1239年3月29日
教皇ニコラス3世はアナトリア十字軍を宣言。
イングランド王をはじめカトリック諸王がこぞって参戦したこの十字軍でアナトリアは大混乱に陥る。
正教徒のセルビアは直接の関わりを持たないが、近隣地域の不安定化は有難い話ではない。

1240年2月23日
ステファンの兄であるゼタ伯ヴカンが逝去した。67歳であった。
元はドゥクリャ公だったが、王国統一を目指すステファンによって剥奪されゼタ伯に降格されていた。
ヴカンは穏やかな性格で、政治的には対立したステファンもその人柄は愛し、また尊敬もしていたのである。
ヴカンには3人の息子がいたが、三男ステファンは若くして僧籍に入り今はセルビア総主教になっている。
長男ジョルジェは亡父の所領を相続しゼタ伯になった。
問題は次男の処遇である。
次男ヴラディンは幼少より叔父ステファンと親しく、長じてからも廷臣として宮廷内で暮らしていた。
三兄弟で彼だけが所領を持たないのは可哀想だし、かといって与えられる土地が余っているわけでもない。
ならば取るべき手段は一つしかない。
戦争で奪えばよいのである。

1240年3月3日
ステファンの末子ニコラが成人した。
いずれこの子にも領地を与えなくてはならないだろう。
しかしそれにはアテがあった。嫡子ステファンはセルビアに加えてブルガリアも相続するのだ。
ブルガリアに適当な土地を充てがえば良い。

1243年6月20日
ステファンは元アテネ女公ガリファリアをアテネ公に叙した。
結局もとの鞘に収まった形だが、今のアテネ公国はセルビア王の封臣である。

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 アテネ女公ガリファリア

1245年3月3日
家令ゼムン市長ラヨシュが64歳で死去した。
後任の家令にはディオクレア市長ヴコマンが任命されたが、彼は60歳と高齢であり後継者候補の選定が急務であろう。


**マケドニア征服戦争 [#pbeb283e]

>「陛下がマケドニアの正統な支配者であることを証明する文書が発見されました」

大臣アルタシールが恭しく提示したその古文書には確かにネマニッチ家の正統性を証明する文言が記されていた。
具体的には、アドリアノポリス、フィリッポポリス、カルキディケ、テッサロニキの4州の請求権を獲得したのである。
その根拠はネマニッチ家がアレクサンドロス大王の後裔であるなどという荒唐無稽なものだったが、誰もそれを証明する方法がない以上、決着は武力をもってつけるしかない。

そのころラテン帝国は危機的な状況にあった。
皇帝ロテール1世は変わり者で何事もギリシャ風を好み、皇帝の称号も従来のアンプルール(仏語)からバシレイオスに変えるなどし、国内のフランス系貴族たちの反感を買っていた。
また、それに乗じたニカイア帝国も帝都奪還を目指してラテン帝国に対し攻勢を強めており、この国は建国40年にして最大の危機を迎えていたのである。

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 ギリシャ化したラテン皇帝ロテール

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 ラテン・ニカイア戦争

1244年11月7日
セルビア王ステファンはアドリアノポリス、フィリッポポリス、カルキディケ、テッサロニキの4州の正統な支配権を主張。
ラテン帝国に宣戦を布告した。

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 マケドニア征服戦争 この4州を奪えばラテン帝国は小国に転落する

ラテン帝国はニカイア帝国との戦いで手一杯であり、セルビア軍は無人の野を行軍するかのように占領地を広げていった。
またブルガリアはこの戦いにも律儀に参戦し、セルビア軍を大いに助けてくれたのである。

事態の深刻さを悟った皇帝ロテールは自ら兵を率いて侵略者を撃退せんとしたが、彼のもとに残っていた兵は2000人にも満たなかった。

1245年4月29日
正教の聖地アトス山の麓で行われた決戦でラテン皇帝ロタール率いる帝国軍は壊滅した。

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 アトス山の戦い


**ヘカトンケイルの門番 [#e7491def]

アトス半島の先端にある標高2033mのこの山には大小40を超える修道院があり、正教の一大中心地となっている。
開山は9世紀とされるが、当初は隠修士の庵がわずかに存在するだけのささやかな共同体でしかなかった。
アトス山発展の礎を築いたのは10世紀の聖アサナシオスで、この聖人が建設したメギスティ・ラヴラ修道院を皮切りに次々と修道院が建設されていった。
歴代の皇帝や貴族たちから寄進を受けた修道院群は11世紀には大荘園領主として権勢を振るうに至るが、第四回十字軍でラテン帝国が建国されるとその大半が没収されてしまう。
修道院群は名目上ラテン皇帝の封臣となり、40年に渡ってその政治的圧力に苦しむことになったのである。

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 アトスの聖アサナシオス

1245年5月20日
アトス山の戦いでラテン帝国軍を壊滅させたステファンはこの聖山を訪問した。
古より正教の教えを守り禁欲的な修道生活を送ってきたこの共同体は40年に及ぶカトリック支配にも屈せず正統信仰を守り続けてきた。
彼らを称賛したい気持ちもあったし、彼らにセルビア正教を認めさせるという政治的野心もあったのである。
しかし、彼らの反応はステファンの予想を大きく裏切るものであった。

>「異端者に没収された荘園は全て余が取り戻して差し上げる。また、ラテン帝国打倒のあかつきにはコンスタンチノープルも聖山に寄進させていただく」

ステファンの提案に修道士たちは困惑の表情を浮かべる。
歓迎されるものと思い込んでいたステファンは少し不満を覚えた。
そこに、聖山の代表者を名乗る壮年の修道士が現れた。

>「私達は現世の富など求めておりません」

レオンと名乗るこの男は共同体の代表で、若いながらも全ての修道士たちから厚い尊敬を受けているふうであった。

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 アトス山修道院共同体代表レオン この人物との出会いがセルビアの方向を決定づける

>「40年前、聖山は墮落の極みにありました。世俗の富に溺れ、自らを市井の民草と峻別する傲慢さに溺れていました。キリストの清貧とは最も遠い場所にいたのです」
>「聖山への寄進は善意からきたものだ。神を畏れ修道士の徳を敬うからこそ、皇帝たちは寄進を続けたのであろう。恥じ入る必要などあるまい」
>「俗塵に踏み込み民を導く司牧(司祭や司教のこと)なら生きるために富が必要な時もあるでしょう。しかし我々は俗世を離れ祈りと瞑想に生涯を捧げる身です。富は必要ありません」
>「異端者が奪った土地は元は聖山のものだ」
>「この点に関しては、むしろ異端者に感謝しております。我々は世俗の事に関わるつもりは毛頭ありません。陛下には、祈りと瞑想の邪魔をしないようお願い申し上げるのみです」

取り付く島もない、とはこの事だった。
彼らは世捨て人なのだ。
この世に害を為す存在ではないが、積極的に益を為すわけでもない。
荘園領主として農奴を搾取する一方で社会奉仕にも積極的に取り組むカトリックの修道士とは、その性質が全く違う。
彼ら(アトス山)の在り方はステファンの価値観と合致するものではなかったが、その潔さには共感が持てる。
実践方法に違いはあれど、彼らの神への献身には一切の私欲がないのである。

>「あなた方と同じく、余は余が信じる道を歩む。ゆえに余はこの聖山の守護者になろう」
>「陛下、思いつきでモノを申すべきではありません。それに、我々はそんな事を望んではおりませぬ」
>「あなた方の望みなど関係ない。余はあなた方を守り、そして無視する。あなた方に便宜を図ることなど一切ないが、あなた方の瞑想の邪魔もさせない」

なおも抗議の声を上げる修道士たちに背を向け、ステファンは下山した。
ステファンは本営に従軍する貴族・聖職者たちを集め、こう宣言した。

>「余と余の後継者はアトス山の門番になる。セルビア王国があるかぎり、誰も聖山の静謐を侵すことはないであろう」

この宣言以降、セルビアはアトス山の守護者となった。


**新領土 [#w215c55f]

1246年に入り、ラテン帝国の状況は悪化の一途を辿っていた。

1246年7月10日
アナトリア解放を目指した十字軍は強大なルーム・セルジューク朝の前に壊滅し、第五回十字軍は無残な失敗に終わった。
十字軍の失敗で西欧諸国の支援が期待できなくなったラテン帝国は更に追い詰められていく。

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 四面楚歌のラテン帝国

1247年10月17日
ラテン皇帝ロテール1世が暗殺された。38歳の若さであった。
帝国の斜陽は必ずしもロテールの責任というわけでも無かったが、ギリシャ文化に耽溺し貴族層の反感を買う事が衰退を早める結果に繋がったことは否定できない。
ロテールを暗殺したのは国内の貴族たちだったが、その軽挙がこの国を更に追い詰めていくことになる。
帝位を継承したロテール2世は13歳であり、摂政ブラッシェルナエ男爵アンドレが政権を担うことになったのだが、アンドレには帝国を支えるだけの実力も人望もなかったのである。

1249年10月10日
抵抗力を喪失したラテン帝国は降伏し、マケドニアの4州はセルビア王国に属する事になった。

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 衰運のラテン帝国 

1249年10月15日
ステファン2世は新領土の封建を行った。

アドリアノープル公には勲功第一等の大臣アルタシールを封じた。
異邦人のアルタシールに大邦を与えることには反対意見も多かったが王は押し切った。
王が人事の全権を握ることを内外に示すためにも、この抜擢は必要なものであったのだ。

テッサロニキは教会領とし、テッサロニキ主教ゼノンを大主教に昇格させ公爵級の封土と権限を付与した。
公爵級の大主教はセルビア史上初めての事である。

また、甥のヴラディンをカルキディケ伯に叙しアトス山守護の責任者とした。

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 アドリアノープル公アルタシール セルビアの大臣であり顧問団の主席として王を補佐する立場である

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 テッサロニキ大主教ゼノン セルビア史上最初の大主教にしては微妙な能力

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 マケドニア征服後のセルビア王国 やっぱりヴェネツィアが邪魔

一連の戦争でセルビアはバルカンの大国となった。
そしてこれが、ステファンの最後の仕事になったのである。


**崩御 [#p2def14b]

1249年11月19日
ラテン皇帝ロテール2世が暗殺され、弟のボードゥアン2世が帝位を継承した。
ボードゥアンは8歳であり、ブラッシェルナエ男爵アンドレが引き続き摂政として統治する事になった。
二代続けて皇帝が暗殺された事はこの国が崩壊過程にある事を如実に示していた。

1250年1月3日
ブルガリア女王マリヤが57歳で崩御。
王太子ステファンが王位を継承した。

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 嫁の死 これでブルガリア併合が確定した

妻の死に気落ちしたステファンはこのころから病気がちになっていた。
後継者は成人しており王国の将来に心配は無い。
心配事があるとすれば末子ニコラの殊遇くらいか・・・
心配事があるとすれば末子ニコラの処遇くらいか・・・

1250年5月15日
自らの死期を悟ったステファンは王城に一族・家臣・聖職者を集め、5つの約束事を命じた。

1 王国は長子相続を原則とする事。
2 次子以下は諸侯となり宗家を支える事。
3 正教信仰を守る事。
4 アトス山は治外法権とし、いかなる世俗権力の介入も認めない事。
5 併合した国・地域は対等に扱う事。ただし異教・異端は排除する。

これは建国王の遺詔としてセルビア王国の国是となった。


1250年5月20日
ステファン2世は崩御した。
享年74
ブルガリア王ステファンが王位を継承し、ここに2つの王国は統合される事になった。

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**あとがき [#p40a13b5]

今のところ順調に推移しています。
やはり勢力を拡大していく上で婚姻乗っ取りは絶大な威力を発揮しますね。
ブルガリアの乗っ取りでは暗殺に手を出しましたが、ハンガリーの方は完全に偶然の産物です。
まあ、このゲームは大国になる事よりもそれを維持する方が難しいんですが。
複数のプレイを平行していますので次の更新は少し時間がかかると思いますが、気長にお待ちいただけたら幸いです。

TIME:"2015-01-12 (月) 09:49:10"

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