[[AAR/フレイヤの末裔]] **序幕「&ruby(チェコ){光の国};」 [#h256cc68] '''「我が君、今はや夜は深く暮れ、風の勢いぞますます強し 我が心くじけ、なすすべなくして、もはや進むことかなわじ」''' '''「余の小姓よ、余の足跡を見失うな、こころ雄々しく余の後に続け されば、荒れ狂う冬の吹雪が冷やす、そなたの血もいささか暖まらん」''' '''――クリスマスキャロル『ウェンセスラスはよい王様』''' '''――クリスマスキャロル『ウェンセスラスはよい王様』'''((Wikipedia日本版にある大意をそのままコピーさせていただきましたが、訳者が書いてなかったのでわかりません; 誰か御存知の方おりましたら教えて下さい…)) プラハに冬が来る度に、私はカウニックで過ごした日々を思い出す。 それは、私が自分が何者であるかも知らないで過ごした、幼い日々の事だった。 &ref(Zavis.png);「カウニックに、雪は降っているのか?」 「いいえ、この十数年は暖冬が続いております。南部は特に」と臣が答える。 &ref(Zavis.png);「そうだろうな」 「季節は廻る」と人は言うが、まるで同じ天候で繰り返される一年などない。 &ref(Zavis.png);(私の知るカウニックの冬は、雪景色だった) 私の運命が変わったのも、雪の日だった。降られ、凍えるのも構わず、わけもわからない私に拝跪する貴族達。それを怒鳴り付ける母。 '''「何を今更になって! 宮廷から私を追い出したのは貴方達ではないですか!!」''' '''「それはウラジミールから御子を守られる為の事……我らは今こそ、戴くべき方を御迎えに上がったのです」''' 箱に一杯の金銀とザルツブルク伯宮への復帰を条件に、母は私を差し出した。私はプラハへ、貴族の道具になる為に。 暫くは呪いの日々だった。貴族達は私を過剰に持て囃し、褒めそやしたりはするのに、私には何の決定権も与えず、母に会わせてくれる事もなかった。顔も知らない父親がどれ程優れた王だったかだとか、腹違いの兄がどれ程愚かな男だとか、そんな事は全部私にはどうでも良い事だった。 味方はいなかった。私は、ウラジミールを倒す為の道具でしかなく、彼らが私に求めるのは賢王の血筋だけなのだ。 しかし、今は彼ら貴族に、母に、ウラジミールに、父なる賢王・スヴァトプルクに、感謝している。彼らは、運命の本質を私に教えてくれたのだ。 運命は、ほんの小さな切っ掛けで、ある日、ある瞬間にも、突然に急変する。 歯も生え揃わない様な子供がある人間の血を引いているというだけで、一つの王朝が滅び、国体を改める事さえあるのだ。 &ref(Kriemhild.png);「陛下……準備が済みました」 &ref(Zavis.png);「我が妻よ、何を深刻な顔をしている? それは喜ばしい報せではないのか」 &ref(Kriemhild.png);「……」 &ref(Zavis.png);「我々は、歴史を変えるのだ。カロリングを重責より解き、より強きカソリックの盾を、ノルドに抗する帝国を!」 &ref(Zavis.png);「この、&ruby(チェコ){光の国};から始めるのだから!!」 &ref(Kriemhild.png);「はい、陛下……」 クルティウス曰くの「歴史は繰り返す」など、戯言だ。全く同様に繰り返される歴史などない。 父はきっと、その為に私を選んだのだから。 *番外編『ドイツ継承戦争』 [#hfd02bda] さて、フローニ朝とスカンジナヴィア帝国の隆盛を中心に、北欧史を紹介し続けていた本稿であるが、今回はその南東……つまり中欧に目を向けてみたいと思う。 本編の『盟主シグルド』の稿で、オステルヒルドによるイアン・デ・ギードの暗殺について少し触れたのを覚えているだろうか? その事件そのものはスカンジナヴィア史にとっては取るに足らない話ではあった。しかし、その背景を調べて行く内に、非常に興味深い歴史的事件……東フランクとボヘミアによる「ドイツ継承戦争」と繋がっていた事が解り、それについて紹介したく思ったからだ。 そしてその中心には、中世盛期という激動の時代を激動足らしめた人物の一人、「東フランクに止めを差した男」ザーヴィシュの暗躍があった。 **「中欧の魔王」ザーヴィシュと、その妻・クリームヒルト。 [#jd4f2554] 改めて、中世中欧最大の野心家、11世紀のボヘミア王・ザーヴィシュと、その妻・クリームヒルトについて紹介しよう。 &ref(ザーヴィシュ.png); 1045年時点のザーヴィシュ王とボヘミア王国。国内では慈悲深い名君と呼ばれ、ドイツでは「中欧の魔王」として大いに恨まれている。 以前にも紹介したが、ザーヴィシュ王は10世紀後半のモイミル朝ボヘミアの"賢王"スヴァトプルクの庶子であったが、スヴァトプルクは993年、つまり彼が3歳の頃に崩御し、嫡出追認はなかった。ボヘミア王位は長子・ウラジミール(論争王)が15歳で継承したが、ウラジミールは気まぐれ且つ偏執的な気性で家臣に慕われず、貴族達はモラヴィア公領南部の街・カウニックで幼いザーヴィシュに忠誠を誓い、反乱を起こしたのである(この事件を「カウニックの誓約」という)。 そして995年にウラジミールは廃位され(とはいえドマジュリツェ伯としての地位は安堵された)、ザーヴィシュは若干5歳でプラハ城の玉座に就き、カウニック朝を拓く。貴族達の目論見はつまる所、暗君を廃するついでに幼王を傀儡として自由を享受する事であったが、ザーヴィシュは異母兄よりも賢王の遺伝子を強く受け継いでいたのか、めきめきとその才覚と野心を伸ばし、成人する頃には名君の貫禄を備えるに到り、家臣達から真の忠誠を誓約されたのである。 そのザーヴィシュの最初の妻・クリームヒルトは、10世紀後半のカロリング朝東フランクの"大女王"マリアの長女であった。 &ref(クリームヒルト.png); ボヘミア王妃・クリームヒルト・カロリング。東フランクを裏切った悪女とも、従順な性格をザーヴィシュに利用された悲劇の女性とも言われている。 これは元々、異教徒達と強く隣接する二国の連携を深める目的で行われた婚姻であったが……この二人が結び付いた事で、東フランクの歴史は大きく捻じ曲がる事になる。ザーヴィシュは深く静かに陰謀を張り巡らせ、我が子に東フランク王位を継がせようと画策したのである。 **相次ぐ不審死と、ボヘミア・カルパチア同盟の成立。 [#h842f48f] 1006年にはマリア大女王が38歳で不審死。 1022年にはマリアの長男・ヘリベルト王が24歳の若さで不審死。 東フランク王位は幼いオステルヒルド王女が継承したが、上記のどちらの事件も犯人は見付かっていない。 一方のボヘミアでは…… 1013年頃にザーヴィシュとクリームヒルトの間に、念願の長男・オンドレイが誕生。 1016年には次男・ヤン、1023年には三男・イェジェクが生まれている。 &ref(オンドレイ.png); 1045年時点のオンドレイ王子。多少気まぐれな所はあったが、父に似て慈悲深く社交的な人物だとボヘミアでは評価されていた。 マリア大女王の孫である事から、彼と彼の兄弟は何れも東フランク王位に請求権を有している。 証拠は今以って見付かっていないが、二代続いての不審死はザーヴィシュとクリームヒルトによるものであると信じられた。何と言っても、ザーヴィシュは事ある毎に「幼い女の王」を頂く東フランクを憂う様な風で「我が子、オンドレイならば妻の故国に安寧を与えられもしように」と発言しており、それはつまり、ザーヴィシュがドイツ(東フランク)王位に野心を抱いている、と考えられたからである。 しかしザーヴィシュは慎重だった。ボヘミアが東フランクに対して国力では一枚劣る事を理解しており、同盟者を探していた。そして、息子達に絶好の縁談を成立させる事に成功する。その同盟相手とは…… &ref(サラモン.png); 1045年時点のカルパチア皇帝・サラモンとカルパチア帝国。余りにも複雑な人物像から狂人とも神君とも呼ばれ、当時の中欧秩序の中心にいた人物である。 過去に喪失されたクマニア領の一部をハザール人から再獲得した功績から「勝利帝」と呼ばれる。尚、若年期にはテングリ信仰であったという説がある。 アールパード朝カルパチア帝国(ハンガリー王)・サラモン勝利帝である。 &ref(中欧.png); 当時の中欧は上資料の通り北にボヘミア、南にブルガリア、その間にハンガリー(カルパチア)の三国が並ぶ形で概ね安定していたが、ハンガリーの国力は(皇帝を自称するだけあり)一つ飛び抜けて強大で、その最大動員力は13000名を超えると言われていた(参考までに、ボヘミアは約5500名、ブルガリアは約7600名、東フランクは約6000名だったという)。 ハンガリーは直ぐ南をブルガリアやビザンツといった正教国に隣接していた事もあって、中欧のカソリック同士の結び付きを強くするこの同盟を歓迎し、1032年頃に三女・ヘドウィグと五女・イローナをそれぞれオンドレイとヤンに嫁がせている。因みにザーヴィシュの三男・イェジェクは聖ヨハネ騎士団へ入団し、生涯未婚を貫いた。 **ドイツ継承戦争と、無策女王の「無策」。 [#kf77f6cf] &ref(Zavis.png);「ドイツの若き女王よ、今、カソリックは危機にある。北方の悪鬼共は古代の闇より蘇って大陸に跳梁し、略奪を欲しい侭にしている」 &ref(Zavis.png);「殊に、国境を隣する我らの地にあってはその防壁として成さねばならぬ使命がある。しかし、汝にその度量はあるまい」 &ref(Zavis.png);「我が息子・オンドレイにその任を委ねよ。チェコとドイツの合一を以って大陸の盾と成し、奴輩めを塞き止めるのだ」 &ref(Osterhild.png);「卑劣なりザーヴィシュ! 我が祖母を、父を殺し、汝が簒奪を謀った事は全ての&ruby(ドイティスク){民};が知っておる!!」 &ref(Osterhild.png);「滅びよ悪漢! 野心の口実にカソリックの守護者を騙るその舌を、聖ヨハネの剣が切り落とすだろう!」 1036年、スカンジナヴィア帝国はブリテン島への大聖戦を開始。当分はノルド人がドイツへ介入する事は無いと確信し、ザーヴィシュは満を持してオンドレイの請求権を行使した。長く入念な準備を済ませての、「ドイツ継承戦争」の始まりである。 &ref(ドイツとボヘミア.png); 年の為、1045年時点の東フランク(ドイツ)とボヘミア、カルパチアの位置関係を載せておく。 クロターレ2世公正王の時代の後で、中フランク分割戦争が始まる前なので、バイエルンは中フランクと同君連合にある。 この戦いはボヘミア・ハンガリー同盟による圧勝……かと思いきや、非常に長期化する。いや、前半戦においては東フランク側が優勢ですらあった。そうというのも…… &ref(ロテール.png); この頃の聖ヨハネ騎士団団長が、ブルゴーニュ公・ベルナール2世の次男、ロテール……つまりカロリング家の者だった為である。 ロテールはカロリングの威光を守る為、東フランク軍に助勢。勇猛な聖堂騎士達は次々に侵略者達を打ち破っていった。 しかし、それも長くは続かなかった。ロテールは開戦当時既に49歳、戦士としてはかなり高齢で、萎れ掛かった身体に鞭打って指揮を執っていた。そして、1041年についに倒れ、聖ヨハネ騎士団と東フランクの同盟は途切れたのである。 とはいえ既に有利を得ている東フランク、騎士団の助けなどなくとも何とかこのまま押し切れる、と考えていた所に、更なる凶報が届く。 &ref(イェジェク.png); 次の団長に選ばれたのは、こともあろうにザーヴィシュの三男・イェジェクだったのである。この団長選挙にもザーヴィシュの策謀があったのは間違いないだろう(ところで同時期に、カラトラバ騎士団でも団長の不審死と、スカンジナヴィア帝国と戦うモルガン朝の団長選出が起こっている。信仰に燃えて立ち上がった修道騎士も、君主達の陰謀からは逃れられないという、歴史の非情さを感じさせる事件である)。 イェジェクは団員に「カソリックの盾」となるべき強い国がノルドとの境界に必要であるという事、その為にボヘミアとドイツが合体する必要がある事を説いて戦いの正義を巧みにボヘミア側へ誘導し、聖ヨハネ騎士団はボヘミア側に寝返る形になったのである。 こうなると、東フランクには勝ち目は無い。心強い味方であった騎士団がそのまま最悪の強敵となって、形勢は完全に逆転し、1045年はいよいよドイツ本土の占領が進み始めた頃…… ……前置きが長くなって申し訳ないが、オステルヒルドが、イアン・デ・ギードを暗殺し、夫・マーツィンをケント王位につけたのである。 東フランクは「誰でも良いから援軍が欲しい」という状況で、それはノルドに侵略されるケント王国も同じだったのだ。 &ref(Osterhild.png);(私は同盟者が欲しい、ケント王国も同盟者が欲しい……だったら、これは利害の一致だわ!) ……という、全くの軽率、且つ浅慮な動機で、イアン・デ・ギードは殺害されたのである。"無策女王"の名に相応しい無策ぶりである。 当然、この同盟は全く機能しなかった……当たり前である。マーツィンのケント王国も、オステルヒルドの東フランク王国も、どちらも強大な敵軍に直面している状況で、お互いに援軍を出す余裕など全く無かったのだから。 結局この「ドイツ継承戦争」は1049年、13年にも及んだ戦いの末にボヘミアの勝利に終わり、オステルヒルドの王位はオンドレイに剥奪される。カロリング家が廃された事でフランク族に由来したいた国号も「ドイツ王国」と改められた。いずれザーヴィシュが崩御すればボヘミア王位も彼のものとなり、ボヘミア=ドイツ連合王国が成立する……という予定であったが、事はそう上手くいかなかった。 **オンドレイの廃位と、ウダルリッヒ朝の成立。 [#rea87f13] &ref(ドイツ王位.png); マリア大女王とヘリベルト王を殺した(と思われる)ボヘミア人に対してドイツ諸侯が忠誠を誓う事は無く、直ぐ様廃位を要求する大派閥が形成されたのである。 ……かと言って、あの"無策女王"を復位させるわけに行かない。そうなれば今度は次男・ヤンが請求権を行使して来るのは目に見えているし、何より彼女の"無策"ぶりにドイツの未来を委ねる事は有り得なかった。そこで、彼らが擁立したのが…… &ref(ヴィクトル.png); ブライスガウ伯の長男・ヴィクトル・ウダルリッヒだった。 オンドレイは僅か半年で廃位され、当時既に''71歳''という高齢で彼は戴冠し、ウダルリッヒ朝を拓いたのである。 さてこのウダルリッヒなる人物の素性であるが、驚くべき事に、彼は''7代前''の東フランク王・カルルマン2世公正王の''孫''である。 &ref(時、超え過ぎ.png); カルルマン公正王は治世期間半世紀に及んだ名君で記憶される人物で、それが東フランクの黄金時代だったとも考えられていた。彼には継嗣である長男・シモンの他に二人の娘があり、次女のブリュンヒルデがブライスガウ伯・ルドガーに嫁いだ事でヴィクトルが生まれたのである。 女系とはいえ、カルルマン公正王の「孫」であればその威光も一入であると考えられ、ヴィクトルが選ばれたのである。 それにしても、シモン王以降、ヘリベルト王までは全員が戦死か不審死で天寿を全うしていないとは言え、何ともアクロバティックな戴冠もあったものである((ちょっと家系図をためつすがめつしてみたのですが、どうやらマジで彼が最も「血筋が近い」人だったみたいです……東フランク王位、地獄過ぎる……。))。 因みにヴィクトルは1053年に大往生を遂げ、彼の姪・トルーデが継承する。僅か3年の治世、既に老境にあって実権は貴族達が握ってもいたのだが、(多分に政治的な意図があったとはいえ)多くの文献はこの老君を名君と称えている。 一方のザーヴィシュは1062年まで生きるが、ヴィクトルが崩御した頃には彼も北海戦争に巻き込まれており、トルーデ相手に再戦する余裕は無かった。ボヘミア王位を継いだアンドレイも国内では名君と慕われたが、ドイツ王国との関係回復は最期まで叶わなかった。 こうして、ザーヴィシュの野望とドイツの継承問題は、「東カロリングの断絶」という形で決着したのであるが……歴史の流れが少し変わっていれば、ボヘミア・ドイツ・ハンガリーの三国がカウニック朝のカルパチア皇帝を頂く未来もあったかも知れないと思うと、封建世界のダイナミズムを感じない訳にはいかない事件だと、筆者には思われてならない((AIの挙動だけでこれだけ有機的な事件が起こる場合がある、という事に感動して思わず番外編を書きました。紫蘇のプレイ内容そのものとはあんまり関係ないパートでしたが、お楽しみいただければ幸いです。))。 TIME:"2015-03-30 (月) 03:31:03"