[[AAR/ファーティマ朝シリア王国AAR]] *学者たるアザム [#qbac8c83] スルタン・アザムはスンニーでありながら、シーイーの信仰をよく保護し あまねく万民にその手をよく差し伸べた。 しかしスンニーであったが故に、スルタンは神に愛されなかった。 -Ibn al-Juwayni- **西暦936年 [#z7155cd1] #ref(azam2q.png,wrap); ファーティマ朝初代スルタン・ラマダンが崩御。 3代スルタンとなったのは、ラマダンの孫アザムであった。 スンニ派という汚点を除けば、歴代スルタンで最も有能な人物だったという。 (Diplomacy=17、Martial=19、Stewardship=12、Intrigue=11、Learning=11) 異名の由来である逸話として、以下のような話が伝わっている。 スルタンアザムはウラマー(イスラム法学者)を度々集め、法と教えについて講義させたが、 ウラマー達は講義の中でアザムの学識の高さに感じ入り、講義に参加したウラマー達を通じ いつしか人々に「学者たるアザム」と呼ばれるようになったという。 **西暦937年 [#i855de4f] 先代スルタンの死に伴い、アラビア皇帝との争いは有耶無耶になってしまった。 スルタンアザムは父の非礼を詫び、皇帝と臣従の誓紙を交わし、皇帝もこれを承認した。 しかし、アザムはこれを自身がシリアを完全に掌握するまでのものと考えていた。 **西暦943年 [#k957854e] スルタンアザムは家臣達の前で皇帝と交わした臣従の誓紙を破り捨てると、 皇帝ムザファッディーンに対し、メディナ太守領を要求し宣戦を布告。 第二次シリア造反の始まりであった。 これに激怒した皇帝ムザファッディーンはバグダッドとメッカからの2つの軍を発すると共に トゥールーン朝にも働き掛け、三方からシリア王国を包囲せんとした。 #ref(tulunq.png,wrap); ''トゥールーン朝開祖アフマド'' 史実では、奴隷軍人(マムルーク)の出身で、 アッバース朝から派遣されエジプト総督の地位につくと、巧みにエジプトの支配を進め、 アッバース朝の宗主権の下ながら事実上の独立政権を築いた。 この世界においてもエジプトを根拠地として、度々中東・アフリカにまで進出。 この時期にメディナをアッバース朝から奪い最盛期を迎えていた。 #ref(MAANq.png,wrap); 三方より敵来るの報に対し、アザムは速攻を仕掛けた。 全軍で南下し、アラビア帝国のメッカ方面軍をラフハーの戦いで撃破。 バグダッドの軍と合流すべく北に敗走した帝国軍を追撃し、アル・ハバリヤにて全滅させた。 その頃、バグダッドから進軍したアラビア帝国軍は首都ダマスカスに至り、攻城を開始していたが、 アザムはこれを捨ておき、ダマスカスを目指しマーンにて進軍中だったトゥールーン朝スルタンの軍を補足し、 これも撃破した。 この時点で戦争の勝敗は事実上決した。ダマスカスを包囲していた皇帝の軍は、 トゥールーン朝とメッカの軍が敗れた事を知ると、包囲を解き一度バグダッドに戻り体制を整えようとしたが、 ファーティマ朝の散発的な攻撃を受け、軍の集結が出来ずに敗退を重ねていった。 **西暦945年 [#a23b426e] アラビア皇帝ムザファッディーンはシリアのスルタンアザムの要求を認め、両者は和睦した。 家臣に膝を屈し、アラビア帝国は内外にその弱体ぶりを晒す事となった。 これ以降、アッバース朝アラビア帝国は斜陽の道を歩んでいく事になる。 **西暦946年 [#d4a4ee23] スルタンアザムの主君であるアラビア皇帝ムザファッディーンが、 アラビアを遠く離れたインドのボパールの地で、プラティハラ朝再興を目指す反乱軍との戦いで没した。 「えらく遠いところで死んだものだな」 アザムはそう呟き、苦笑したという。 **西暦958年 [#ma7cc872] アザムはエルサレム、アラビア太守領に勢力を拡張させていたが、 アラビア皇帝ムッタズ3世から、これを咎められると再び両者は対立。 もはや帝国に従っても利益は無いと考えたアザムは、また皇帝との誓書を家臣の前で破り捨てると シリア王国の独立を宣言した。 実力行使に出られては斜陽のアッバース朝に止める術は無く、2年後の西暦960年にシリア王国は独立を達成する。 **西暦968年 [#adcca47a] この頃、アザムはシナイ半島の領有を巡りトゥールーン朝との戦争を行っていたが、エルサレムから凶報が訪れる。 カトリック教会の長・教皇マルチネス2世がエルサレム奪還の十字軍を宣言し、フランク人が大挙して押し寄せているという。 しかし、この報告を受けたアザムはトゥールーン朝との戦いを優先させ、 エルサレムの諸侯には防備を固めるよう命令を出すのみであった。 この判断が仇となり、エルサレムを目指すフランク人達は続々と上陸に成功していき、 トゥールーン朝との和睦が成立した頃には、エルサレムには総勢6万ものフランク人の軍勢がひしめき、 もはや奪還は不可能な状態となっていた。 **西暦971年 [#gaf75709] シリア王国はエルサレム地方全土を失い、その地には異教徒であるホスピタル騎士団という勢力が根を張る事になった。 ここからエルサレムを巡るキリスト教徒との戦いが始まる事となるが、 敗戦まもない今のシリア王国には、その力は無く国力の回復に努めざるを得なかった。 スルタンアザムは呆然とし、完全に覇気を失ってしまった。 晩年はムゥタズィラ学派に傾倒し、国政の場には殆ど出る事は無くなったという。 ムゥタズィラという言葉には「退いた人」という意味があるが、 アザムはエルサレムの失陥と共に、"退いた人"となってしまったのだろう。 **西暦980年 [#raa7f6c9] ファーティマ朝初代スルタン"学者たるアザム"は、6月12日に病により崩御した。 ファーティマ朝3代目スルタン"学者たるアザム"は、6月12日に病により崩御した。 シリア王国歴代スルタンの中で唯一のスンニ派であり、晩年のエルサレム失陥から 批判の声は耐える事のない人物だが、その輝かしい前半生は間違いなく今日のシリアを 築いた土壌となったと断言できよう。 そして同年、アザムの三男であるシーア派教徒タリブがダマスカスにてスルタンに即位した。 シリア王国第3代スルタン"[[普通なタリブ>AAR/ファーティマ朝シリア王国AAR/普通なタリブ]]"の時代が始まろうとしていた。 シリア王国第4代スルタン"[[普通なタリブ>AAR/ファーティマ朝シリア王国AAR/普通なタリブ]]"の時代が始まろうとしていた。 TIME:"2016-03-02 (水) 11:21:30"