[[AAR/バべンベルグ家興亡史/王ローター1世の治世・前半]] *八代目 バイエルン王ローター1世(前半) [#pc12c1f7] *八代目 バイエルン王ローター1世(後半) [#pc12c1f7] **ボヘミア王国の状況と婚姻政策 [#q0ec44c3] > 1272年12月。弟のスロヴェニア公爵ルップレヒトを宰相に任じる。 &ref(評議会_1272.jpg); &size(12){''宰相をスロヴェニア公爵ルップレヒトに、家令は新参のラオフ''}; > 1274年7月。ローターの甥であるクロアチア王レオポルト1世が32才で戦死。本来は、 バベンベルグ家の嫡流でありバイエルン王レオポルト3世となっていたとしても おかしくなかった甥の死を知り、 ローターは喪に服した。 > 1275年9月。家令ラオフからローターにボヘミア王家の相続問題について進言があった。 ボヘミア王家とは領土を接していることもあり、常日頃から交流があるが、ここ数年、 王の交代が相次いでいた。61年という長きにわたり王位にいたヴラティスラヴ2世以後、 20年の間で既に6度の王位継承が行われていた。現王インドリヒ1世はヴラティスラヴ2世の 五男であり、その即位は偶然に満ちたものであった。 &ref(ボヘミア王経歴.jpg); &ref(プレミスリド家.jpg); > そして、ヴラティスラヴ2世はローターの姪にあたるベルヒテ・フォン・バベンベルグと 婿養子婚をしていたことがあり、その一人息子コンラト・フォン・バベンベルグが 現王インドリヒ1世の後継者に指名されていたのだ。 ボヘミア王の称号は1080年のヴラティスラヴ1世以降、200年近くにわたり、プレミスリド家が 継承してきたが、バベンベルグの家名を持つ者が王となるチャンスが産まれていた。 そして、コンラトはウィーンの宮廷にいた。 &ref(コンラト.jpg); > 1275年11月。ローターの息子は後継者たるジグフリートと双子の弟で父と同名のローターがいたが、 将来の兄弟間の争いを避けるために、婿養子として他家に入れるつもりでいた。 そこで、白羽の矢が立ったのが、妹ハイケを婚姻させたビザンツ帝国の皇帝一族であるドゥカス家であった。 ビザンツ帝国の皇帝は、15才の女帝フィリッパであったが、ハイケを通じて話を進めてみると、 婿養子婚であれば応じるとの回答であった。 &ref(ローター婚約.jpg); > キリスト教世界において、最も高貴な血であるビザンツ皇帝の配偶者にバベンベルグ家の 血統が加わることは、極めて栄誉なことであり、ウィーンの宮廷は祝賀ムードに包まれた。 &ref(ローター.jpg); &size(12){''冴えない''}; &ref(フィリッパ.jpg); &size(12){''天才。ローターとは釣り合わないことこの上ない''}; > 1276年1月。ローターの長男ジグフリートがバデン州カル男爵の娘バルバラと婚約。 バルバラは傍流ではあるが名門ティロル家の出身である。ローターの母はクロアチア貴族 であったが、ローターは息子の妻にはこれまでの慣習どおりドイツ貴族を選んだ。 > 1276年6月。ジグフリートは成人し、ローターはザグレブ伯の称号を与えた。ザグレブは クロアチアの要衝であり、ローター自身も即位するまではザグレブ伯であった。 ザグレブ伯の地位は言わばバイエルン王国の後継者であることを示す称号であった。 **第二次内戦 [#cb897991] > 1276年10月。現クロアチア王ルトベルト1世の母ミルヤナのジグフリート暗殺の陰謀が発覚する。 そして、この陰謀に、何とローターの弟、スロヴェニア公爵ルップレヒトも参加していた。 この背景には先代のバイエルン王レオポルト1世の頃からの因縁があった。 レオポルトは自身の長男レオポルトの妻シルヴィヤをクロアチア王にするために シルヴィヤの弟である当時のクロアチア王ドラガンの妻が妊娠したことが発覚すると ドラガンを暗殺し、シルヴィヤをクロアチア国王に即位させたという陰謀を行った。 ドラガンの死後、その妻から生まれたのがミルヤナだあった。つまり、ミルヤナにとっては バベンベルグ家は自分が生まれる直前に父を殺した憎き敵であった。 &ref(トリピミロヴィッチ家.jpg); > この陰謀はバベンベルグ家内でも秘中の秘であったが、ミルヤナはこれをルップレヒトに話した。 ルップレヒトの母はローターと同じクロアチア貴族のルツィヤであるが、クロアチア貴族の中で 育ったためにローターとは異なり、クロアチア貴族となっていた。ルップレヒトはローターが直々に 陰謀を断念するよう説得したが、これに応じなかった。ルップレヒトは既にバベンベルグ家 の一員としての責任よりもクロアチア貴族としての誇りによって動いていたのだ。 &ref(暗殺.jpg); > ローターはやむなくルップレヒトの捕縛を命じたが、ルップレヒトはこれを脱した。 そして、当然の如く反乱を起こした。 &ref(反乱.jpg); > 1277年2月。王国軍と反乱軍の戦いは、カルロヴァクの戦いで王国軍が決定的な勝利を収める ことにより徐々に終息に向かっていった。しかし、今度はローターの妻であるヴェグリア伯アグネス までもが反乱軍に参戦した。しかし、この背景としては、ローターはヴェグリア伯の称号をジグフリートに 相続させるためにアグネス暗殺の陰謀を謀っており、この事実が1月に発覚してしまったことが 遠因であった。 &ref(参戦.jpg); > 1278年10月。内戦は終結。ローターはルップレヒトを投獄した。翌月、ローターはアグネスとの離婚を 教皇に願い出て、許された。ローターは自分自身が後妻の子として前妻の子と相続争いをした 経緯から、相続紛争の火種を防ぐために、以後婚姻することはなかった。 &ref(離婚.jpg); **大ハンガリーの成立と二つの内戦 [#j947ed71] > 1282年11月。ローターは評議会を刷新した。 宰相には、ケルンテン公爵を相続したアンドレアス2世。21才。 元帥には、ゲプハルト・フォン・レンツブルグが妻がウルツブルク伯となったことにより、王国を離れた ため、その後任となったロラン・ラポトネン。25才。ロランは、エルンスト2世の時代にパッソー伯として、 また、ウィーンの宮廷にあっては宰相として仕えたジグフリートの末裔であり、それから160年に わたりバベンベルグ家に仕えている家系の出身である。 家令と密偵頭は変わらず、30才のラオフと42才のダチョニィ。 宮廷司祭はザルツブルグ司教オルドゥルフで、エスターライヒで流行しつつあるワルドー派撲滅の ために熱心に布教を行っていた。 &ref(評議会_1282.jpg); > 1283年4月。ローターは密偵頭であるダチョニィのこれまでの功績に報いるため、ストゥピング男爵に封じた。 > 1285年1月。ハンガリー王グルムがポーランド王国を相続し、ここにハンガリー王国とポーランド王国は 一人の国王の元に統一された。元々、前ハンガリー女王カミラがポーランド王国の王子と結婚したことにより この二人の間の子が二王国を継承することは予定されていたが、ついに現実のものとなった。 これにより、ハンガリー王の称号はアルパド家からイルヴィング家へと移ることとなった。 &ref(周辺状況_1287.jpg); > 1285年11月。ヴェグリア州に潜入していた密偵頭ダチョニィが殺害された。ローターの即位直後から 密偵頭として数々の陰謀に関わってきたダチョニィの死はこれまでの報いを受けたものとも言えた。 > 同月。ウィーンの宮廷に皇帝の使者が現れ、ローターを狩猟長に任じるとの皇帝の意思を伝えた。 バベンベルグ家は良くも悪くも辺境の王として遇されており、帝国内部の政争には不干渉を貫いて きた。ローターは使者を丁重に遇したが、狩猟長の称号自体は嬉しくもなんともなかった。 > 1286年2月。クライン伯マルクヴァルトがケルンテン公爵アンドレアスを退位させるための戦争を 起こした。1年後の1288年3月にはクライン伯が王子ジグフリートや上ブルゴーニュ公爵ルドルフら、 他の貴族の賛同を得たクライン伯が勝利することとなり、ケルンテン公爵の称号はアンドレアスから 二女のベルタに承継されることとなった。 ベルタは当時生まれたばかりの赤子であり、相続順位からすれば内戦がなければ相続する可能性は ほとんどなかった。しかし、この赤子が後に帝国を揺るがす存在になろうとはこの時点では誰も 予想していなかった。 &ref(ベルタ.jpg); &size(12){''天才。''}; > なお、27才の若さにしてケルンテン公爵の座を追われることとなったアンドレアスはガスタイン男爵 の称号は残り、引き続き宰相としてウィーンの宮廷で王国の采配を振るった。 また、この内戦の最中の1287年8月には、投獄されていたローターの弟ルップレヒトが獄死した。 > 1290年7月。ボヘミア王国の後継者であったコンラトが45才で自然死により死亡した。 > 1292年12月。ボヘミア王インドリヒ1世が73才で死亡し、その後をコンラトの長男インドリヒが 3才にして即位した。インドリヒは既に母親も1年前に亡くしており、ウィーンの宮廷から乳母に抱かれて プラハへと旅立っていった。 > 1293年9月、当然の如くインドリヒの退位を求める内戦がボヘミア王国内で発生した。ローターは 参戦の要望を断ったが、長男ジグフリートほか数名の貴族はインドリヒを助けるべく加勢した。 &ref(加勢.jpg); > 1294年7月。ローターの元妻ヴェグリア伯アグネスが過酷なストレスにより死亡、61才であった。 これにより、王子ジグフリートがヴェグリア伯の称号を相続した。そして、クロアチア王国の 領土は5州となりクロアチア国王の称号が簒奪可能となった。 > 1296年6月。ボヘミア王国の内戦はインドリヒ2世が反乱を鎮圧し勝利した。これでひとまずは ボヘミア王国バベンベルグ朝は存続することとなった。 **晩年 [#df7e775f] > 1297年4月。王子ジグフリートの長男シモンがサヴォイエ公爵領の後継者であるオルデンブルグ家の フリードリカと結婚した。この結婚にローターは一切関わっていなかったが、非常に良縁であった。 &ref(シモン.jpg); > 1297年6月。約20年にわたりジグフリートの暗殺を陰謀を企て続けていたクロアチア王女のミルヤナが ついにこの陰謀を断念した。なぜ、断念したのか、ミルヤナの真意は分からなかったが、 ローターとしては一つ肩の荷が下りた心地であった。 > 1299年5月。王子ジグフリートの長男シモンの妻フリードリカがサヴォイエ公爵を相続した。 シモンはフリードリカと共にジュネーヴの宮廷に旅立って行った。 > 1300年1月。ローターはザグレブ伯とヴェグリア伯であった王子ジグフリートをぺクス公爵に封じた。 > 1301年3月。チロル公爵ウルリヒの父であるフェララ公爵が死亡し、ウルリヒはフェララ公爵領を 相続した。バイエルン王国の版図はイタリアにも拡がった。 &ref(周辺状況_1301.jpg); > 1301年7月。家令のラオフが肺炎で死亡した。50才であった。ローターは評議会を刷新した。 &ref(評議会_1301.jpg); > 宰相と元帥は変わらず。 ラオフの後の家令にはブルゴーニュ公爵の次男でエッツォネン家のベレンガルを招聘した。40才。 祖母はバベンベルグ家の出身である。 ダチョニィの後の密偵頭は、ローターの父レオポルト1世の頃からバベンベルグ家に仕える フィウム家のジグハルト。48才。 宮廷司祭はラヴァント司祭のルイトポルト。 > 1303年12月。ローターは感染創により死去した。享年66才。その治世は46年に及んだ。 これまでのバベンベルグ家の歴史においては、長い治世の後を継いだ当主の治世は短かったが ローターは63年に及んだレオポルト1世の後を追ったがその治世は長く、版図は拡がり、王国の 礎を築いた。そして、バイエルン王国は長男ジグフリートへと託された。 &ref(死去.jpg); ~続く~ **あとがき [#w271a280] 地味ですが長い治世。ある程度、領土が大きくなってくると 維持していくことが目的になっていくのかなと思います。 これまでは長男の名前はレオポルトでしたが、レオポルトが 出なくなったのは何でなんだろう。今後もいろんな名前が出てきます。 TIME:"2014-11-07 (金) 23:21:29"