[[AAR/バべンベルグ家興亡史/王レオポルト1世の治世・後半]]

*八代目 バイエルン王ローター1世(前半) [#k1e1f3a1]

**スタート時の状況 [#nc054ede]

&ref(周辺状況_1257.jpg);
&size(12){''帝国は南フランスをほぼ浸食''};
&ref(王国_1257.jpg);
&size(12){''建国時から比較すると2州減少''};
&size(12){''王国創設時から比較すると2州減少''};
&ref(王朝図_1257.jpg);
&size(12){''レオポルト1世は三人の女性との間に三男八女を残し、孫が19人、ひ孫が3人。''};

|相続した王位|バイエルン|
|相続した公爵位|オーストリア、(スロヴェニア)|
|相続した伯爵位|エスターライヒ、シュタイアーマルク、ケンプテン、(ザグレブ)|
&size(12){''()内の称号は元々有していたもの''};

> 1257年6月。ローター1世は20才でバイエルン王に即位した。さらに、オーストリア公爵を相続し、元々母から相続したスロヴェニア公爵を有していた。
 妻は、ヴェグリア伯の後継者でバベンベルグ家の出身。

&ref(ローター1世.jpg);
&size(12){''真面目な聖職者、嘘つき、忍耐持ち。能力はバベンベルグ家の伝統でぱっとせず。''};

**家臣達 [#r9af9e3d]

&ref(ケルンテン公爵.jpg);

> ケルンテン女公爵ウテ1世(バベンベルグ家)。領土は、ケルンテン州、クライン州、イストリア州、アキレア司教領。
 ローターの異母兄クロアチア王レオポルトの子。夫はフランコニア公爵の息子のゲルラヒ・フォン・バベンベルグ。

&ref(ぺクス公爵.jpg);

> ぺクス公爵オルドゥルフ2世(バベンベルグ家)。領土は、ヴァシュ州、セーケシュフェへールバール州、クレムス男爵領。
 オーストリア公爵アダルベルト1世の長男リッポルトの末裔。

&ref(上ブルゴーニュ公爵.jpg);

> 上ブルゴーニュ公爵ゲプハルト2世(レンツブルグ家)。領土は、アールガウ州、ニュシャテル州、ブルゴーニュ州、
シュウィッツ州、ブラウエン州、ベルン州。
 本人は、レオポルト4世の妻エルメンガルトの兄の末裔。妻は、レオポルト4世の娘イルザの末裔のメクレンブルク公爵の娘
グートルン・フォン・バベンベルグと婿養子婚。

> その他は、ローターの弟であるヴァラジン伯ルップレヒト(バベンベルグ家)、ローターの母ルツィヤの旧臣から
サダル伯リュトミスル(スーピック家)、クリジェヴィッツィ伯ドミタール(スーピック家)、ガスタイン男爵ウィドゥキント(バベンベルグ家)、
ステイル男爵エギノルフ(ルドウィンゲル)、各司教領の司教及び市長達。
> 公爵以下の直臣は、ローターの弟であるヴァラジン伯ルップレヒト(バベンベルグ家)、ローターの母ルツィヤの旧臣から
サダル伯リュトミスル(スーピック家)、クリジェヴィッツィ伯ドミタール(スーピック家)、ローターの異母弟の
ガスタイン男爵ウィドゥキント(バベンベルグ家)、バベンベルグ家の旧臣ルドヴィンゲル家の末裔ステイル男爵エギノルフ(ルドウィンゲル)、
その他、各司教領の司教及び市長達。

> 1257年6月。ローター1世は20才でバイエルン王に即位した。さらに、オーストリア公爵を相続し、元々母から相続したスロヴェニア公爵を有していた。
 妻は、ヴェグリア伯の後継者でバベンベルグ家の出身。

&ref(ローター1世.jpg);
&size(12){''真面目な聖職者、嘘つき、忍耐持ち。能力はバベンベルグ家の伝統でぱっとせず。''};

> 1257年12月。ヴァラジン伯であり、ローターの弟ルップレヒトが成人すると、スロヴェニア公爵の称号を求めてきたので、
ローターはこれに応じる。
 これでバイエルン王国で公爵号を有する家臣は4人となった。
 これでバイエルン王国で公爵位を有する家臣は4人となった。

&ref(ルップレヒト.jpg);

> 1257年12月。ローターは即位したことを祝して饗宴を開くことを王国内に宣言した。しかし、1258年1月、ザルツブルグ司教が反乱を起こし、
饗宴は中止せざるを得ず、直ちに鎮圧軍を組織し、ザルツブルグに派遣した。

> 1258年2月。ぺクス公爵オルドゥルフ2世が不審の事故死により死去し、長男のオルドゥルフが相続した。

&ref(ぺクス相続.jpg);

> 1258年3月。上ブルゴーニュ公爵ゲプハルト2世が17才で暗殺される。命じたのは、上ブルゴーニュ公爵領の密偵頭であるフリブール市長ゲルハルドであった。
 0才のルドルフがルドルフ5世として就位し、摂政には暗殺の黒幕であるフリブール市長が就任した。

&ref(上ブルゴーニュ相続.jpg);
&ref(ルドルフ5世.jpg);

> そして、ゲプハルト2世は婿養子婚であったため、上ブルゴーニュ公爵の称号はバベンベルグ家のものとなった。
 レンツブルク家との盟約については、エルメンガルトの死から既に50年以上が経っていることもあり、気に留める者は少なかった。
 オルドゥルフ2世とゲプハルト2世の死により、バイエルン王国の現存する四公爵のうち、2人がローターが即位後代替わりすることとなった。
 レンツブルク家に代々上ブルゴーニュ公爵を相続させるとの盟約については、エルメンガルトの死から
既に50年以上が経っていることもあり、気に留める者は少なかった。
 
> オルドゥルフ2世とゲプハルト2世の死により、バイエルン王国の現存する四公爵のうち、2人がローターが即位後代替わりすることとなった。
 しかし、この二人の不慮の死は、これから起きる内戦の前触れであった。

> 1259年8月、ザルツブルグの反乱を鎮圧。司教マーティンを追放する。反乱終結を機にローターは評議会を刷新する。

&ref(評議会_1259.jpg);

> 宰相は、先代から務めるインドリヒ・プレミスリド、39才。
 元帥も、先代から務めるゲプハルト・フォン・レンツブルク、39才。
 家令は、ローター即位後に招聘したバルデヴィン・フォン・ウディーネ、31才。
 密偵頭には、ハンガリー王国から招聘したハンガリー貴族のダチョニィ・コンラドフィ・アルパド、19才。
 アルパド家は代々ハンガリー王を輩出してきた家系であるが、ダチョニィはニトリア公爵の家系であった。
 宮廷司祭には、反乱を起こしたザルツブルク司教の後を継いだオルドゥルフ、37才。

**第一次内戦 [#ffd7565c]

> 1258年11月。ぺクス公爵オルドゥルフ3世がローター1世を退位させるための戦争を起こした。さらに、ぺクス公爵の反乱に
> 1258年11月。ぺクス公爵オルドゥルフ3世がローター1世を退位させるための戦争を起こした。さらに、この反乱に
上ブルゴーニュ公爵とケルンテン公爵も呼応するとの報が入ると、ウィーンの宮廷に激震が走った。
 4公爵のうち3公爵が反乱を起こしたことにより、王国の半分が叛旗を翻したことになり、王国は東のぺクス公爵、
南のケルンテン公爵、西の上ブルゴーニュ公爵に囲まれることとなった。
南のケルンテン公爵、北と西の上ブルゴーニュ公爵に囲まれることとなった。

&ref(ぺクス反乱.jpg);

> 宰相インドリヒはこの危機に早馬を走らせ、遠方の同盟者に援軍要請すると共に、スイス傭兵を雇い、応戦する。
 
&ref(内戦.jpg);
&size(12){''濃い赤い領土が反乱領土''};
&size(12){''反乱領土に包囲されている状況''};

> 宰相インドリヒはこの危機に早馬を走らせ、遠方の同盟者に援軍要請するも、即位間もないローターの元に
援軍は来なかった。やむなく、直属軍を招集すると共にスイス傭兵を雇い、応戦する。

> 1260年6月。戦争の最中、ローターと妻アグネスとの間に双子が生まれ、長男ジグフリートと次男ローターが産まれた。

> 1260年7月。先代の上ブルゴーニュ公爵ゲプハルト2世の母マルガリータが死去。これにより、上ブルゴーニュ公ルドルフ5世は
これまでの領土に加え、フラデツ州とオロムウク州を相続する。

&ref(上ブルゴーニュ領土.jpg);
&size(12){''右端の領土はボヘミア王国から編入''};

> 1262年8月。劣勢の反乱軍にフランコニア公爵軍も参戦。これをスイス傭兵ベルトラン率いる王国軍が迎撃、ガスタインの戦いで撃ち破る。
 反乱軍は壊滅し、ぺクス公爵の領土を占領していく。
 反乱軍は壊滅し、王国軍主力は、ぺクス公爵の領土を占領していく。

&ref(ガスタインの戦い.jpg);

> 1264年5月。5年半に及ぶ内戦は、王国軍の勝利で終える。反乱の首謀者であるオルドゥルフ3世からぺクス公爵の称号を剥奪したが、
上ブルゴーニュ公爵とケルンテン公爵は不問に付した。この2公爵から称号を奪おうとすれば、更なる内戦のおそれがあり、
ウィーンの評議会は安全策を取らざるを得なかったのだ。
> 1264年5月。5年半に及ぶ内戦は、王国軍の勝利で終える。ローターは内戦の首謀者であるオルドゥルフ3世から
ぺクス公爵の称号を剥奪したが、上ブルゴーニュ公爵とケルンテン公爵は不問に付した。
 この2公爵から称号を奪おうとすれば、更なる内戦のおそれがあり、ウィーンの評議会は融和策を取らざるを得なかったのだ。

**陰謀の季節 [#y341f1e6]

> 1266年10月。評議会は、クロアチア貴族のリュデヴィト・トリピミロヴィッチをウィーンの宮廷に迎えた。
 リュデヴィトはクロアチア王国の家臣でセンジ伯セペスラヴの弟であり、後継者であった。リュデヴィトと宰相インドリヒ、
密偵頭のダチョニィは密約を結んだ。
 それは、リュデヴィトがセンジ伯となった暁には、バイエルン王国の家臣となり、クロアチア王国から帝国に寝返ることであった。
 それから間もなく、センジ伯はダチョニィの手の者に暗殺された。

&ref(セペスラヴ暗殺.jpg);

> しかし、リュデヴィトはセンジ伯となったリュデヴィトは約束を反故にし、クロアチア王国に残留し続け、ダチョニィの陰謀は失敗に終わった。
> しかし、リュデヴィトはセンジ伯となった途端、約束を反故にし、クロアチア王国に残留し続け、ダチョニィの陰謀は失敗に終わった。

&ref(リュデヴィト拒否.jpg);

> 1268年9月。ダチョニィは更なる陰謀を謀る。それは、ローターの妻アグネスの父であるヴェグリア伯の暗殺であった。
 ローターは即位後、ヴェグリア伯の暗殺の陰謀を企てていたが、協力者が集まらず、断念していた。
 ダチョニィは直接暗殺者を送り込むことを進言すると、ローターはそれを容れた。そして、ダチョニィの放った暗殺者は
見事役目を果たし、アグネスが後を継いでヴェグリア伯となった。

&ref(ゴッドフリート暗殺.jpg);

> 1269年8月。ケルンテン公爵ウテの夫のフランコニア公爵ゲルラヒから、11才の長男ピーターがフランコニア公爵の称号を簒奪。
 ピーターはケルンテン公爵の後継者であることから、ウテが死んだ場合、ケルンテン公爵領はフランコニア公爵領に編入されることになる。
 ローターはケルンテン公爵領がフランコニア公爵領となるのを防ぐために、まずはウテを投獄し、ケルンテン公爵の称号を剥奪した。
 ウテは先年、王国簒奪の陰謀を企んでおり、投獄の口実は十分だった。

&ref(ウテ投獄.jpg);

**領土拡大 [#mb064375]

> 1269年9月。家令バルデヴィンが41才で死去。南フランスから18才のラオフ・ダルボンを招聘し、家令とする。

> 1269年11月。父レオポルトの末娘ハイケをビザンツ皇帝家のドゥカス家の王子ゲラシモスと婚姻させる。
> 1269年11月。父レオポルトの末娘でローターの異母妹のハイケをビザンツ皇帝家のドゥカス家の王子ゲラシモスと婚姻させる。

> 1269年12月。ローターは皇帝ルドルフに謁見した。ローマ皇帝がエンツォネン家からビルン家になってからは両者の関係は小康状態であった。
 ローターは、バイエルン王国の王であることを皇帝に改めて主張し、バイエルン王国の慣習的領土であるチロル公爵を
王国の家臣にするよう迫った。ローターは期待はしていなかったが、意外にもルドルフは即答でローターの願いを了承した。
王国の家臣にするよう迫った。ローターは期待はしていなかったが、意外にも皇帝は即答でローターの主張を容れた。

&ref(家臣譲渡.jpg);
&ref(チロル公爵領.jpg);

> ラインフェルデン家のチロル公爵ギセラ1世がバイエルン王国の家臣となることにより、バイエルン王国の東西の領土はつながり
帝国内の領土を横断するほどに拡大した。

&ref(王国領土_1269.jpg);

> 1270年12月。イストリア伯であるアンドレアス・フォン・バベンベルグがローターがウテから剥奪したケルンテン公爵の称号を求めて来た。
 アンドレアスはレオポルト5世の弟カルロマンの末裔である。ローターは元々ケルンテン公爵の称号を持ち続けるつもりはなかったが、
宰相インドリヒと密偵頭ダチョニィに諮った。ダチョニィは是非応じるべきと答えたのでローターはアンドレアスの求めに応じることとし、
ケルンテン公爵に封じた。
 この時、ダチョニィの真の思惑は、未だケルンテン伯の称号を有するウテからケルンテン伯の称号をアンドレアスの手で
剥奪してもらえれば、ローターの手を汚さずに済むというものであった。
 ケルンテン公爵の称号譲渡後、ウテは一旦は釈放されたが、アンドレアスはすぐに自らの居城に投獄した。

&ref(ウテ再投獄.jpg);

> 1272年3月。反乱を起こし投獄されていた元ぺクス公爵オルドゥルフ3世が獄死し、セーケシュフェヘールバール州は
弟にあたるヴァシュ伯ゲオルクに相続された。

~続く~

**あとがき [#r32dfd38]
絶対的な権威法の下では戦争できないので動けず。
王国の維持に力を注ぐことに。
あとがきで書くことすらあまりなく。
そして、いつの間にかバベンベルグ家が帝国内に増殖中。

TIME:"2014-09-13 (土) 16:44:49"

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