[[AAR/バべンベルグ家興亡史/王オルドゥルフ1世の治世]]

*十四代目 バイエルン王ブルノ1世 [#f7f4c320]

**内戦下の即位 [#k9ef4fa5]

&ref(王朝図_1411.jpg);
&size(12){''前王オルドゥルフは子は2人。叔父3人はいずれも反乱に参加''};

|相続した王位|バイエルン、クロアチア、ハンガリー、ブルゴーニュ|
|相続した公爵位|オーストリア、スロヴェニア、ボスニア|
|相続した伯爵位|エスターライヒ、シュタイアーマルク、ケルンテン、ズノーモ、ザグレブ、ウソラ|
|相続した男爵位|ボニャド|
&size(12){''4つの王冠に6州の直轄地''};

> 1411年12月。先王オルドゥルフ1世の早逝に伴い、ブルノは、18才の若さで四王国の王に即位した。妻は、ケルンテン女公爵であるルーゼッヒ家のハイケ。かつては、皇帝も輩出した名家で、これまでもバベンベルグ家とは様々な形で縁戚関係を結んでいる。

&ref(ブルノ1世.jpg);
&size(12){''魅力的な交渉人、公正、親切、慈善、勤勉。能力・特性はこれまでの当主の中でもナンバーワン。''};

> 父オルドゥルフは、内戦の最中戦死したが、オルドゥルフの弟エギノルフもまた、内戦の最中、戦死していることが判明した。しかも、死んだのはオルドゥルフよりも2年も前であり、ブルノの従兄弟である11才のルドルフがエステルゴム公爵を継いでいた。

> 1413年8月、内戦はブルノ1世の勝利に終わった。ブルノ1世は、四王国最大の貴族であるバヴァリア女公爵と叔父らの反乱を鎮圧し、最初の危機を乗り越えた。

**四王国の状況 [#re5fd131]

> 四王国は、王自身が2つの公爵位を持つほか(ボスニア公爵は奪われた)、8人の公爵と4人の伯爵が家臣となっている(1413年当時)。

***バベンベルグ家 [#p4a8bcd6]
> 王の外戚であり、藩屏。
・バヴァリア公爵イルザ1世(42才)
上ブルゴーニュ公爵、モラヴィア公爵も兼ねる。古くは、250年前、五代目のレオポルト4世がレンツブルグ家の上ブルゴーニュ公爵エルメンガルトと婚姻してからその領土を併合した。その後、紆余曲折を経て、レオポルト4世の三女イルザの末裔にあたる。婚姻や戦争によりバヴァリア公爵の称号も得てからは、長きにわたり、王国において家臣筆頭の家柄である。これまでも度々反乱を起こしており、イルザもまた前回の内戦の首謀者である。領土の広さで言えば、王の直轄地をしのぐ。夫はペスト公爵の弟。
・ぺクス公爵フィリップ1世(25才)
王国宰相。250年前からぺクス公爵を代々継いでおり、遡れば、バベンベルグ家の創成期を築いたアマデウス・フォン・メルクの末裔でチエムガウ家の血も引いている。妻は、ブルノの実の母で、オルドゥルフと離婚後に結婚した。
・エステルゴム公爵ルドルフ1世(14才)
反乱を起こした叔父エギノルフの息子でブルノの従兄弟。家臣には、叔父のアンドレアスがいる。アンドレアスは、兄エギノルフと同じく天才。

***アルパド家 [#c1c2a58b]
> クロアチア・ハンガリーにおけるバベンベルグ家の盟友。ペスト公爵家、クロアチア公爵家のどちらもエギノルフ・アルパドの末裔。
&ref(アルパド家.jpg);
&size(12){''エギノルフ・アルパドを祖とする。''};

・ペスト公爵レオポルト1世(29才)
その他ニトリア、トランシルヴァニア、テメスの公爵号を持つ。1259年から、ローター1世の密偵頭であったストゥピング男爵ダチョニィ・アルパドの孫であるエギノルフがハンガリーの公爵号を相続し、一夜にしてハンガリーの大貴族となった。エギノルフの長男であるルイトポルトの末裔で、バベンベルグ家に忠誠を誓い、反乱の際には、ハンガリー兵を率いて王国軍の主力となって来た。妻は前ぺクス公爵の娘でバベンベルグ家に連なっている。
・クロアチア公爵オットー2世(28才)
ダルマティア公爵を兼ねる。エギノルフ・アルパドの長女グートルンの末裔。母はモデナ公爵の叔母で遡れば、ローター1世の弟で反乱を起こしたスロヴェニア公爵ルップレヒト1世に辿り着く。モデナ公爵テオドリヒ1世とは従兄弟になる。

&ref(従兄弟.jpg);
&size(12){''クロアチア公爵とモデナ公爵は従兄弟。'};

***その他の家臣 [#p77c2399]
・チロル公爵マルクヴァルト2世(63才)
ティロル家。フェララ公爵も兼ねる。ブルノの母の兄。約150年前、ローター1世の代に、ローマ皇帝からの家臣譲渡によりバベンベルグ家の家臣となる。
・モデナ公爵テオドリヒ1世(32才)
スタデン家。約50年前、シモン1世の代より家臣となっている。母はクロアチア公爵オットーの叔母でバベンベルグ家で遡れば、ローター1世の弟で反乱を起こしたスロヴェニア公爵ルップレヒト1世。
・サヴォイエ公爵エルバール2世(34才)
ブルノ―ペン家。約30年前、アデリンド1世の代にサヴォイエ伯であったブルノーペン家にサヴォイエ公爵の称号を与えた。妻はバベンベルグ家のドロテアでバヴァリア女公爵の従兄弟にあたる。

***評議会 [#i6c1984f]
&ref(評議会_1413.jpg);
&size(12){''変わったのは宰相のみ''};

> 評議会メンバーは、宰相は、ぺクス公爵フィリップ。元帥は、先代から元帥の座にあるラインハルト・チャヴァネーナ、家令は、祖父アンドレアスの弟であるエリヒ。密偵頭は、30年にわたり密偵頭を務めるレンツブルク家のラムベルト。しかし、14年1月にラムベルトは死去し、エルンスト・フォン・ガンダースハイムが後任となった。

**第八次内戦 [#z8802d4f]

> 1413年12月。エステルゴム公爵ルドルフが反乱を起こした。しかし、先年、反乱を起こしたバヴァリア公爵は、ブルノと休戦協定を結んでおり、反乱は小規模なものにとどまった。

> 1414年4月。ローマ帝国が、ブラウエン州を狙って宣戦布告を行った。四王国は、先代、先々代の頃には、ケルンテン、ズノーモを奪い、二連勝していた。ウィーンの宮廷は、当然主戦論に傾いていた。しかし、ブルノは冷静に現状を分析していた。即位からまだ間もなく、エステルゴム公爵の反乱もまだ続いており、それ以外にも面従腹背の家臣も多いと考えていたのだ。

&ref(国の規模_1413.jpg);
&size(12){''バイエルン64458、ローマ帝国125343。ローマ帝国の軍の規模は四王国の2倍''};

> 1415年5月。ブルノは皇帝に使者を送り、降伏した。ブルノにとっては、1州を失う不利益よりも、帝国と10年間休戦し、時間を得ることの方が重要だった。バベンベルグ家が戦争に負けたのは、1206年、ハンガリー王国軍にウィーンを陥落させられた時以来、二度目のことだったが、ブルノは意に介さなかった。

> さらに、帝国による四王国への干渉は続いた。ブルノの妻ハイケは、封建制の社会においては、皇帝の家臣であった。そこに付け込まれ、何とハイケは、16才になると同時に皇帝に逮捕され、牢獄に入れられてしまったのだ。これは、ブルノとハイケの間に子を産ませないためであり、ケルンテン公爵領を四王国に取られないための工作であった。これはブルノにとっても誤算であった。

> 時の皇帝は、バベンベルグ家のディトリヒ、33才。初代バイエルン王レオポルト1世とツェーリング家のエマとの間の四女ハイルヴィヴァの末裔である。四王国の王であるブルノは、レオポルト1世とクロアチア貴族スーピック家ルツィヤとの間の子であるローターの末裔である。ヨーロッパはバベンベルグ家の家族間の戦争だった。

&ref(皇帝.jpg);
&size(12){''妻は、前ケルンテン公爵ピーターの妻であり未亡人となっていたワイマール家のハイケ。逮捕されたハイケの母親である''};

> 1417年2月、エステルゴム公爵ルドルフが不審の事故死を遂げ、反乱は終結した。まだ17才だった。ブルノが、後任のエステルゴム公爵の称号を与えたのは、叔父にあたるプレスブルク泊アンドレアス。オルドゥルフ、エギノルフ亡き後、母アマリアの血を継ぐ最後の天才だった。ルドルフを殺したのは、アンドレアスであるとの噂が実しやかに流れており、ブルノは、反乱終結の立役者であるアンドレアスに報いたのだった。

> 1419年2月。ブルノの妻ハイケが皇帝の牢獄で死去した。まだ19才であり、成人直後に投獄されたため、一度もブルノと一緒に暮らすことはなかった。ケルンテン公爵の称号は、ハイケの祖父の姉であるルーゼッヒ家のベネディクタが継いだ。ブルノは、深く悲しんだが、喪に服す間もなく、ルネン家のシビルを妻に迎えた。シビルの父は、ベネディクタの息子であり、長女であるシビルがいつの日かケルンテン公爵の地位を継ぐ可能性があったからだった。

&ref(妻死去.jpg);
&size(12){''ケルンテン公爵領を取り戻す夢は遠のいた…''};

**帝国内乱 [#g87b2904]

> 1419年8月。フランコニア女公爵ゲルヒルト2世を旗頭として、帝国で内乱が勃発した。ゲルヒルトもまたバベンベルグ家であり、皇帝とは共にフランコニア公爵ピーターを祖とし、同族である。皇帝の家系は、ピーターの三男であるトスカーナ女公爵と結婚したエルバールをその祖としており、フランコニア公爵を代々継ぐ嫡流の家系はゲルヒルトの方である。ブルノもゲルヒルトの求めに応じ、参戦した。帝国の力を削ぐという目的もさることながら、妻ハイケを獄死させたことに対する復讐の念があることも否定できなかった。

&ref(帝国内戦.jpg);
&ref(内戦_1419.jpg);

> 1421年1月。内乱は、反乱軍の優勢のままに進んでいたが、フィレンツェ市長が、皇帝を暗殺した。その背景は明らかにされぬまま、皇帝の座は、ホーヘンスタウフェン家のツリンギア公爵ディトリヒが選ばれた。

&ref(皇帝暗殺.jpg);
&size(12){''ライバルのあっけない死''};

> 1426年8月。エステルゴム公爵アンドレアスが39才で四肢切断により死去した。いずれも優秀な能力を持ったアマリアの三兄弟は、バベンベルグ家を隆盛に導くと言われたが、皆志半ばのまま40代を迎えずして亡くなった。

> 1427年4月。8年続いた帝国の内乱は、決着は着かず、痛み分けに終わった。

**五つ目の王冠 [#qb37893a]

> 1430年2月。バベンベルグ家最大の貴族であるバヴァリア公爵イルザ1世が58才で死去した。自然死であった。後を継いだトーマスは、バヴァリア公爵の他、上ブルゴーニュ公爵、コルン公爵、モラヴィア公爵、ブラバント公爵、スポルト公爵と実に6つの公爵号を有することとなった。

> 1430年6月。アデリンド1世の御世に、宰相として招聘されたウィゲリチェ家のオルドゥルフはウソラ州のプラガジ男爵に封じられ、その息子、ルップレヒトは密偵頭を務め、ウソラ伯、さらにはボスニア公爵とその地位を高めて行った。そのルップレヒトが遠縁のバルセロナ公爵号の相続人に指名され、バルセロナ公爵号を継ぐこととなった。バベンベルグ家としては、初めてのイベリア半島の領土となった。

&ref(王国図_1430.jpg);

> 1432年1月。バヴァリア公爵トーマスは、前皇帝ディトリヒの息子であるヴェロナ公爵アルヌルフが起こした帝国内乱に乗じて、ブルノ州を巡り、単独で帝国に宣戦布告した。ブルノも援軍を出して参戦し、1434年10月に、見事勝利した。王国最大の貴族であるとはいえ、一国の家臣に帝国が敗れたことは周辺諸国にも衝撃を与えた。帝国の弱体化は最早隠しようもなかった。

> 1436年3月。バヴァリア公爵トーマスは、今度はブレダ州を巡り、帝国に宣戦布告した。ブルノの即位から16年が経ち、その治世は安定し、動員兵力は、内乱に苦しむ神聖ローマ帝国、ビザンツ帝国よりも上回っていた。

&ref(国の規模_1436.jpg);
&size(12){''バイエルン129941、ローマ帝国66881。王国軍は帝国の軍の2倍''};

> 1436年6月。今度は、四王国が、帝国に対し、ボヘミアをめぐり、宣戦を布告した。ブルノが望むのは、五つ目の王冠だった。

> 1437年。ブルノの妻の父であるケルンテン公爵オットーが60才で死去し、妻シビルがついにケルンテン公爵の地位を継いだ。

&ref(ケルンテン公爵.jpg);
&size(12){''前妻ハイケの死から約30年、ケルンテン公爵領を妻が相続した''};

> 1439年2月。ブルノの長男オルドゥルフは、グレーターポーランド公爵とアルサス公爵の娘であるニエデルベイエルン家のウルリケと婚姻した。ウルリケ自身は、後継者ではないが、天才であり、ブルノはその才能に惚れ込み、長男の嫁に迎えた。また、オルドゥルフの姉トルーデは、ガリシア王に嫁いだ。

> 1439年10月。ボヘミアをめぐる戦争に、ブルノはわずか3年で勝利した。そして、ブルノはボヘミア王国を復活させ、バイエルン、クロアチア、ハンガリー、ブルゴーニュに続き、五つ目の王冠を頭に戴いた。

&ref(ボヘミア王国.jpg);
&ref(周辺図_1439.jpg);
&size(12){''ボヘミア奪取''};

**その後 [#o39a1f58]

> 1440年。評議会を刷新した。宰相は、チロル公爵でティロル家のルップレヒト1世。元帥は、30年にわたり元帥の地位にあり、ヴェロナ伯に封じられたラインハルト・チャヴァネーナ。密偵頭は、バルセロナ公爵でウィゲリチェ家のルップレヒト、家令は、その息子のステファンである。

&ref(評議会_1440.jpg);

> 1442年2月。妻シビルが46才で闘病の末に死去した。それにより、ケルンテン公爵の称号は、長男オルドゥルフに継承され、ついにケルンテン公爵領が五王国に回復されることとなった。ケルンテン女公爵ベルタからローマ皇帝への相続により失ってから、実に105年ぶりのことであった。

&ref(王国図_1442.jpg);

> 1443年1月。五王国は、トレヴィーソ中央都市に狙いを定め、初めてヴェネツィアに対し宣戦を布告した。1444年11月には戦争は終結し、勝利した。市長には、ブルノの次男ルドルフを指名した。五王国の威勢はこの上なく高まり、今や向かうところ敵なしであった。

> 1445年5月。ブルノはイルヴィング家のポーランド王の一人娘コンスタンシアと婚約し、49年に婚姻した。

> 1450年3月。長男オルドゥルフが長男ブルノを設けた。五王国の王冠を将来的に継ぐべき男子の誕生にウィーンの宮廷は沸き返った。「公正王」ブルノの治世とバベンベルグ家の繁栄はこれからも長く続くであろう……。

&ref(スコア①.jpg);
&ref(スコア②.jpg);

~終了~

**あとがき [#j67e2db1]

何とか終わりましたー。
楽しく読んで頂ければ幸いです。

TIME:"2016-02-08 (月) 23:54:14"

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