[[AAR/バべンベルグ家興亡史/王シモン1世の治世]]

*十一代目 バイエルン王シモン2世 [#se51766c]

**スタート時の状況 [#oa4dd8e2]

&ref(王朝図_1329.jpg);
&size(12){''前王シモン1世は3人の子、4人の孫、いずれも男子。''};

|相続した王位|バイエルン、クロアチア|
|相続した公爵位|オーストリア、(サヴォイエ)|
|相続した伯爵位|エスターライヒ、シュタイアーマルク、ケンプテン、ザグレブ、(ヴァレー、ジュネーヴ)|
|相続した男爵位|ステイル、(トノン)|
&size(12){''()内の称号は元々有していたもの''};

> 1330年10月。先王シモン1世の孫であるシモン2世は15才でバイエルン・クロアチア王に即位した。
父シモンは、21才の時に暗殺されており、4才にしてサヴォイエ公爵の称号を得ていた。
&ref(シモン2世.jpg);
&size(12){''16才時の画像。不信心な司祭。双子、同性愛、野心的、勤勉。父は王にならずに死去しており、祖父はローマ皇帝''};

**内戦下の即位 [#p464b908]

> シモン2世は即位すると、生まれて初めてウィーンの地を踏んだ。バベンベルグ家の歴史で孫が継ぐことも、ウィーン生まれでない者が継ぐことも初めてのことであった。
即位直前に発生した内戦の最中、シモンがまず行ったのは、婚姻だった。シモンは、バベンベルグ家に連なるボヘミア王女ドブロミラと婚約した。
また、双子の弟ノーベルトは皇帝の子でホルシュタイン公爵の娘であるルドルフ・フォン・ルーゼッヒと婚約した。
> 1334年3月。即位から3年半後、ようやく内戦は終結した。
> しかし、その直後、12月にザルツブルグ司教が単独で蜂起。すぐに鎮圧する。同時に、帝国に対し反乱を起こしていたフランコニア公爵に対し、1313年に相続により失われたケルンテン州を求めて、宣戦布告。これに対し、クロアチア公爵ドロテアは、フランコニア公爵の側に立ち参戦した。シモン2世は、先の内戦に続いて反乱を起こしたドロテアを許さず、1335年5月、密かに暗殺した。

&ref(ドロテア暗殺.jpg);

> 1335年11月。シモンとドブロミアとの間に長女アデリンドが生まれた。男子の出産が待たれたが、1337年5月、ドブロミアは25才という若さで死亡した。自然死であった。
> 1338年5月。フランコニア公爵との戦争に勝利し、25年ぶりにケルンテン州を回復した。

**王国の状況 [#z7647b69]

> 即位から約10年で、シモン2世は、ようやく王国内に平和を取り戻した。

&ref(周辺状況_1338.jpg);
&size(12){''ハンガリーにも領土を拡げている''};
&ref(クロアチア_1338.jpg);
&size(12){''クロアチア王国の領土''};

> バイエルン・クロアチア王国の版図は、東西南北に拡がり、帝国の中心を貫いている。州の数は、実に49州に及び、6人の公爵がいた。

・上ブルゴーニュ公爵ラインハルト1世(15才)
> バベンベルグ家。モラヴィア公爵の称号も持ち、バヴァリア公爵の後継者。王国一の大貴族でこれまでの大きな四度の内戦の内、二度、反乱軍に加わっている。

・チロル公爵マルクヴァルト1世(29才)
> ティロル家。フェララ公爵、バデン公爵の称号も持つ。1269年に皇帝からチロル公爵領(当時はラインフェルデン家)を譲り受けて以来の家臣。これまで反乱に与したことはない。

・ケルンテン女公爵ベルテ1世(51才)
> バベンベルグ家。ローマ皇帝ピーターの妻。遡れば、レオポルト5世の御世に反乱を起こした弟カルロマンの末裔。反乱により0才でケルンテン公爵の座に付き、夫のエッツォネン家による帝位簒奪の黒幕となる。ベルテが亡くなればケルンテン公爵領は王国から離れる。

・ペスト公爵エギノルフ1世(30才)
> アルパド家。トランシルヴァニア公爵の称号も持ち、ハンガリーの5つの州を有する。ハンガリー王であったアルパド家の分裂により、ストゥピング男爵の地位から一夜にしてハンガリーの大貴族に成り上がった一代の梟雄。娘はクロアチア公爵グートルン1世。

・クロアチア女公爵グートルン1世(10才)
> アルパド家。ダルマティア公爵の称号も持つ。母ドロテアは、バイエルン王レオポルト1世の長男でローター1世の異母兄であるレオポルトの娘。母ドロテアは反乱後、暗殺されている。

・スロヴェニア公爵ルップレヒト3世(5才)
> バベンベルグ家。クロアチア貴族。反乱の家系で当主3人が全員が反乱を起こし、内2人が獄死している。

・その他伯爵
> セーケシュフェヘールバール伯・ヴァシュ伯のステファン・フォン・バベンベルグ、サヴォイエ伯のエベルハルト・フォン・ブルノーペン、センジ伯のグレゴリイ・トリピミロヴィッチ(クロアチア貴族)、ヴェグリア伯のエギノルフ・フォン・バベンベルグがいる。

&ref(評議会_1339.jpg);

・ルドルフ・フォン・ラポトネン
> 宰相。1124年以来バベンベルグ家に仕え、評議会メンバーを何人も輩出してきたラポトネン家の末裔。かつてはパッソー伯であったが、今は領土を持たない貴族。

・フィリップ・フォン・バベンベルグ
> 元帥。シモンの叔父。ステイル男爵。

・ルドルフ・フォン・ワイマール
> 家令。ジグフリート1世の御世に招聘されて以来、約10年にわたり家令を務めている。

・グントラム・フォン・チュルディム
> 密偵頭。ルドルフ・フォン・ワイマールと同じくジグフリート1世の御世から密偵頭を務める。ドロテア暗殺の立役者。

**三王国の王(トリプルクラウン) [#b830064e]

> 1338年5月。ドブロミアが亡くなってから1年。シモンはグレーターポーランド公爵の娘、サリアン家のエマと再婚した。エマも同性愛者であり、言わば形だけの偽装結婚であった。
> 1338年6月。皇帝から、給士に任命される。
> 1341年11月。2年前にハンガリー王が死去ししたことに乗じ、ハンガリー女王に対しソプロン州とフェイエール州を要求して宣戦布告。時のハンガリー女王アグネスはまだ若干14才で、母親はシモン1世の妹ソフィーの娘だった。そして、1344年2月、戦争に勝利し、それから1年後、シモンはハンガリー女王からハンガリー王の称号を簒奪した。これにより、シモンは、バイエルン・クロアチア・ハンガリーの三王国の王となり、30才にしてトリプルクラウンを頭上に乗せた。

&ref(ハンガリー王簒奪.jpg);

> その後も、シモンとペスト公爵エギノルフ1世は順調にハンガリーの領土を編入し、バイエルン王国、引いては帝国の領土を東方へと拡げて行った。
> 1351年11月。シモンの長女であり後継者のアデリンドが成人し、前クライン伯ルップレヒトの弟で9才年上のオルドゥルフ・フォン・バベンベルグと婿養子婚を行った。

&ref(オルドゥルフ.jpg);
&size(12){''天才持ち''};

> オルドゥルフが、アデリンドの婿として迎え入れられたのは、王国内のバベンベルグ家の家名を持つ男子の中で最も優秀であったからである。シモンは、後妻との間に娘を一人もうけたものの、同性愛であることから、今後、子をもうけるつもりはなく、アデリンドを後継者とする心づもりであった。その配偶者は三王国の共同統治者となることが予定されており、シモンの眼鏡にかなったのがオルドゥルフであった。

> 1353年8月。シモンは皇帝から宮廷司祭に任じられた。帝国の評議会入りするのはバベンベルグ家の歴史上初のこととなった。
> 1356年1月。アデリンドとオルドゥルフとの間に長男アンドレアスが生まれた。
> 1358年5月。皇帝ピーターが死に、ベルテからケルンテン公爵の称号を継いでいた長男のレオポルトが後を継いだ。これにより、ケルンテン公爵領が王国から失われることとなった。
> 1358年10月。プレスブルグを巡り、ポーランド王国に宣戦布告。1360年9月、戦争に勝利した。ハンガリー王の称号簒奪から13年、これでハンガリー王国のほぼ全土を手中に収めた。

&ref(ハンガリー_1358.jpg);
&size(12){''ハンガリー王国の領土''};

**独立戦争 [#oa0a4050]

> 1363年6月。かねてよりトゥルーズ公爵が企てていた皇帝レオポルト暗殺の陰謀が成功した。その後は、息子のラムベルトが継いだが、諸侯は反乱で応じた。

&ref(皇帝暗殺.jpg);

> 1368年1月。評議会を刷新した。この時の評議会メンバーは全てバベンベルグ家の貴族で、かつ宮廷司祭を除く4人が公爵で占められ、かつてないほどの強固な体制となった。しかし、シモン2世に対する挑戦者はいなかったが、貴族間の抗争は激しく、特にバヴァリア公爵は広い領土を持つだけに度重なる内乱に悩まされていたが、その全ての内乱を鎮圧していた。王国一の大貴族が自らの内乱の鎮圧に奔走せざるを得なかったことこそが、シモン2世の地位の安泰につながったとも言えた。

&ref(評議会_1364.jpg);
&size(12){''密偵頭はアデリンドの婿であるオルドゥルフ''};

> 1369年6月。皇帝即位以来、反乱が燎原の火のように広がっていた帝国の様子をじっと窺っていたシモンは、ついに三王国も立ち上がることを決意し、皇帝に対し、独立を宣言した。王国軍は連勝に連勝を重ね、1372年4月、皇帝と和睦し、独立を勝ち取った。三王国の独立により、帝国は、ドイツとイタリアの領土が完全に分断され、かつての領土の半分以下となった。

&ref(独立戦争.jpg);
&size(12){''帝国は反乱祭り''};

> 1372年5月。新たに即位したウィゲリチェ家のマインハルト1世は、独立されたことの意趣返しか、バベンベルグ家が数百年にわたり保持してきたオーストリア公爵の称号を簒奪した。
> 1372年5月。新たに即位したウィゲリチェ家のマインハルト1世は、独立されたことの意趣返しか、バベンベルグ家が400年にわたり保持してきたオーストリア公爵の称号を簒奪した。
> 1374年5月。反乱の鎮圧に赴いたシモンは、乱戦に巻き込まれ、脳天に一撃を食らってしまい寝たきりになってしまった。摂政には、婿であるエステルゴム公爵オルドゥルフが就任した。
> 1375年1月。シモンは回復せず、長期昏睡により死亡した。享年59才であった。トリプルクラウンは、長女アデリンドに引き継がれ、バベンベルグ家の歴史上、初めての女性当主が誕生することなった。

&ref(継承.jpg);
&size(12){''44年の治世''};

~続く~

**あとがき [#c8df54dc]
ついに、独立。そして、ハンガリー王国を簒奪して三王国の王になりました。
ブルゴーニュ王国も創設出来ましたが、アデリンドのために取っておきました。
皇帝になろうかとも思いましたが、内乱で苦労すると思い、独立の方向に。
残り3人です。

TIME:"2015-10-08 (木) 22:22:32"

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