[[AAR/バべンベルグ家興亡史]]

*二代目 オーストリア公レオポルト2世 [#y2d327a2]

**スタート時の状況 [#efff32bb]
&ref(レオポルト2世.jpg);
&size(12){''父と同じく信仰心薄い。不屈の軍人、好色、気まぐれ、冷笑的、疑心暗鬼、大食持ち''};

レオポルトは父の死後、レオポルト2世としてオーストリア公爵となった。当時35才。軍事には多少優れているが、
好色かつ冷笑的で教会からの評判は極めて悪く、いつ破門されてもおかしくない状況であった。

&ref(バベンベルグ家王朝図_1087年.jpg);
&size(12){''当時のバベンベルグ家の王朝図。エルンストは最終的に四男三女を設け、孫の数は7人''};

> 1086年2月19日。エルンストの死から半年後、ケルンテン公爵家との戦争は、ケルンテン公爵家が
シュタイアーマルク伯領の領有権をオーストリア公爵家に譲渡する形で終結した。

&ref(シュタイアーマルクをめぐる戦争.jpg);

> シュタイアーマルク伯であるチエムガウ家はバベンベルグ家の家臣となった。

&ref(オタカル・フォン・チエムガウ.jpg);

> チエムガウ家はバベンベルグ家が辺境伯としてエスターライヒに封じられる以前から、同地を支配する貴族であり、
当主オタカルは熟練の戦術家として帝国内に名を馳せていた。
 オタカルはウィーンの宮廷を訪れ、レオポルトに臣従の誓いをした後、その日のうちにシュタイアーマルク伯領に戻り、
生きている間、再びウィーンの宮廷を訪れることはなかった。
 これが、バベンベルグ家とチエムガウ家の今後長く続く冷戦の始まりであった。

**再び、雌伏の時 [#i9f8f5a2]

&ref(オットー・フォン・メルク.jpg);

> 1087年。メルク家の一員であり、かつてはバベンベルグ家の家令を務めていたこともあったエベルハルト・フォン・メルクの
忘れ形見オットーが成人。
 外交能力に優れており、すぐに宰相として評議会の一員に列せられた。エルンストは妹のゼルヒルダをオットーの元に嫁がせた。

&ref(評議会_1087年.jpg);
&size(12){''20年前とは見違えた!''};

> 評議会のメンバーは以下の5人。
 宰相は上で述べた16才のオットー・フォン・メルク。
 元帥は、31才の若き将星ベレンガル・ルドウィンゲル。
 家令は、先代からの相談役でありレオポルトとは同い年で主従の枠を超えた友人でもある37才のアマデウス・フォン・メルク。
 密偵頭は先代から評議会の一員である重鎮、53才のエックベルト・フォン・ウィーン53歳。
 そして、レオポルトの宗教問題を解決すべく新たに宮廷司祭に任じられたのはメルク司祭である46才のフリードリヒ・フォン・メルク。
フリードリヒは就任早々ローマに派遣され、教皇との関係改善に当たることとなった。
> 名門ルドヴィンゲル家のベレンガル以外は、メルク家、ウィーン家といった地元の下級貴族ではあるが、各々能力に優れ、
レオポルトは彼らを頼もしく思っていた。

> しかし、これら優秀な評議会を持ちながらも、レオポルトは、慎重だった。バベンベルグ家の力を冷静に見定め、
大諸侯に囲まれている中で、そう簡単に勢力を伸ばせるとは考えていなかった。
 レオポルトは父に倣い、雌伏の時を経て、立ち上がる時期を計っていた。

> 1087年6月29日。かねてより婚約していたケルンテン公爵の家臣であるバデン女伯爵、ツェーリング家のベネディクタと
レオポルトの弟であるノーベルとが婚姻した。

&ref(ノーベルト結婚.jpg);

> '''「戦争によらずしてバベンベルグ家の家格を伸ばすには政略結婚しかありませんぞ」'''

 相談役であるアマデウス・フォン・メルクの言葉に深く頷くレオポルトであった。

&ref(二人の娘.jpg);

> バヴァリア公爵であるノルドハイム家のハインリヒ3世には妻であるボヘミア王の長女との間に2人の娘がおり、
レオポルトは長男エルンストと長女ジュディとの婚約を持ちかけたが、ハインリヒ3世の回答は、「次女のインゲならば」とのことであった。
 もし、ジュディとの結婚が成れば、2人の間の子供はバヴァリア公爵家とオーストリア公爵家の双方の家名を継ぐことが出来る。
 しかし、ハインリヒ3世とすれば、これを許せば、両家はバベンベルグ家の名の元に統合されることとなるから簡単に応じられるものではなかった。

&ref(バヴァリア公爵領.jpg);
&size(12){''オーストリア公爵領が2州なのに対し、バヴァリア公爵領は7州''};

> 交渉に訪れたバベンベルグ家宰相オットーは、「まだ子供たちも若いことですし、もうしばらく様子を見ましょう」と、
>答えて、ミュンヘンの宮廷を後にした。

> 1088年バヴァリア公爵家はケンプテンを巡りポロメニア公爵家と、ケルンテン公爵家はケルンテンを巡りフェララ公爵家と戦争。

&ref(隣国の戦争.jpg);
&size(12){''我々は見守るのみ''};

**そして、雌伏のまま・・・ [#ndf3dc7d]

> 1088年5月2日。ローマから嬉しい知らせが届いた。
ローマに遣わされていた宮廷司祭フリードリヒから教皇との関係改善が進んでいるとの連絡であった。

&ref(フリードリヒからの知らせ.jpg);

> このように教皇との関係は改善しながらも、当時、レオポルトは家庭に問題を抱えており、敬虔なキリスト者とは到底言えなかった。
 事の発端は、弟リュドゲールの妻カルロッテと密かに関係を持ったことだった。

&ref(一戦交える.jpg);

> しかも、カルロッテはレオポルトとの間に子をなし、その醜聞はオーストリア公領内だけでなく周囲にまで広がった。
 結局、不義の子グントラムはレオポルトの子と認めた上でバベンベルグ家の継承権を失わせることで、決着は着いた。
 しかし、その後レオポルトは妻と寝室を別にするようになり、夫婦仲は冷え切っていた。

&ref(不義の子グントラム.jpg);
&size(12){''この子が将来バベンベルグ家に災いを呼ぶことに・・・''};

> 1091年2月1日。レオポルトは享年41歳にして自然死。原因は不明であるが、妻ルイトガルトが呪い殺したのではないか
との噂がまことしやかに囁かれることとなった。
 レオポルトの治世は6年にも満たない短いものであった。彼にどんな野心があったのかは、誰も知らない。

&ref(レオポルト2世の死.jpg);

 そして、若干15才のエルンスト2世がオーストリア公爵位を継いだ。摂政には家令のアマデウス・フォン・メルクが就任した。

&ref(摂政就任.jpg);

~続く~

**あとがき [#f442f76c]
ずいぶんとあっさり死んでしまいました。
他の家でプレイしてた時は結構長生きすることが多かったので結構びっくり。
他の家でプレイしてた時は割と長生きすることが多かったので結構びっくり。
三代目も近日中にアップ予定です。
そして、コメント下さった方々、この場を借りて感謝いたします。
完走出来るよう頑張ります。

TIME:"2014-08-08 (金) 02:39:11"

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