[[AAR/バべンベルグ家興亡史]] *三代目 オーストリア公エルンスト2世(後) [#n3ae9e21] **嵐の前 [#z90f24e8] > 1111年12月。エルンストは愛人ベルタとの関係を断ち切った。 &ref(愛人と別れる.jpg); > 1112年7月。エルンストの母が父の死後に産んだ子異父兄弟であるヒセルベルト・フォン・ツェーリングが かねてから婚約していたローマ皇帝の姪にあたるジュディ・サリアンが結婚した。 > 1113年2月。エルンストは愛人とも別れ、禁欲生活に入った。肉欲から離れて精神を研ぎ澄ます。 この頃から、エルンストは家臣たちを寄せ付けない雰囲気を出し始めた。 &ref(禁欲主義.jpg); > 1113年7月。バヴァリア公ノルドハイム家が西のスワビア公ラインフェルデン家の内紛を機に戦争に突入した。 > 元帥ゴッドフリートはこれを機にバヴァリア公爵領パッソ―州への慣習的請求権に基づく戦争を評議会で主張したが、 アマデウスはこれに応じず、エルンストは静かに目を瞑って黙したまま声を発しなかった。 &ref(周辺状況_1113年.jpg); > 20年前と比べると、バヴァリア公は北のニュルンベルグ州を取得する一方チロル州を失い、スワビア公であるラインフェルデン家は 兄妹でスワビア公とチロル公に分割相続されている。 > 1114年12月。かねてより婚約していた次男フランツとビルン家のブランズウィック公爵の妹メヒティルトが婚姻。 > 1116年6月。ウィーンの宮廷で陰謀が発覚した。かつての元帥ベレンガル・ルドヴィンゲルの孫であるベネディクタ・ルトヴィンゲルが、 バベンベルグ家の食客であるマッガ家のサラッカの殺害を試みたのだ。 &ref(ベネディクタ投獄.jpg); > 宮廷では、功臣の孫を投獄することに反対する声も少なくなかったが、エルンストは怒気を持ってそれらの廷臣の声を制し、 「いかにベレンガルの孫であろうと、ベネディクタのしたことは許されない行為である。よって、法に従い、投獄する」と宣言した。 サラッカはこのエルンストの発言を通訳を介して聞くと、小さく頷き、特に感謝の弁を述べるでもなく、 エルンストに軽く一礼すると、その場を立ち去った。しかし、サラッカはこの時、バベンベルグ家に対し一つ貸しを作ったと感じていた。 その貸しを返すのは、まだずいぶん先の話となる。 > 1118年1月。エルンストの異父兄弟ヒセルベルトの妻が亡くなった。その後、ヒセルベルトとアマデウスの孫にあたるウルリケが結婚。ヒセルベルトは、ウルリケの父であるゴッドフリートの後を追わせて元帥に就任した。 &ref(ヒセルベルト・ツェーリング.jpg); > 1118年11月。次女クリームヒルトとエステ家のロンバルディア公の長男アレッシォが結婚。 > 1119年4月。長男レオポルトが、かねてより婚約していたイストリア伯のワイマール家の長女アデルハイトと結婚。 &ref(レオポルト結婚.jpg); > 1120年4月。何と、エルンストの妻インゲがエルンスト殺害の陰謀を企てた。 &ref(妻の陰謀.jpg); > エルンストが愛人と別れてから既に9年が経過していたが、今頃になって怒りが再燃したのか、はたまた成人した 長男レオポルトに早く当主の地位を継がせたかったのか。理由はよくは分からなかったが、陰謀が発覚するとインゲはひとまず断念してくれた。 **エルンスト2世、ついに起つ [#uc8bdc71] > 1122年6月。バヴァリア公爵家とその事実上の同君連合であるブランズウィック公爵家と同時に攻撃を受けていた。 &ref(バヴァリア攻撃.jpg); &ref(ブランズウィック攻撃.jpg); > バヴァリア公爵家と言えば、エルンストが即位当時、後ろ盾となったこともあったが、義父は既に亡くなっており、 その子がブランズウィック女公爵と結婚していた。エルンストが待っていたのは、この時であった。 今ならば、バヴァリア公爵家に攻撃してもブランズウィック公爵家は参戦する余裕はないはずであった。 > 1122年6月。エルンストは、ついに乾坤一擲の賭けに出てパッソ―州の慣習的請求権を主張し、バヴァリア公爵家に宣戦を布告した。 &ref(パッソ―をめぐる戦争.jpg); > これにエルンストの甥にあたるアンハルト伯爵家も参戦に応じたこともあり、戦争はオーストリア・アンハルト連合軍が圧倒した。 &ref(パッソ―をめぐる戦争④.jpg); > 同じころ、何と、シュタイマイアー伯オタカルが、ヴァシュ州の請求権をねつ造し請求した。 これにより、神聖ローマ帝国がぺクス公爵に対し宣戦を布告した。 &ref(ヴァシュをめぐる戦争.jpg); > ローマ帝国とハンガリー王国とはこれが初めての戦争となるもシュタイマイアー伯爵の要求を認め、 ヴァシュ伯をシュタイマイアー伯が兼ねる形で和睦が成立。神聖ローマ帝国はハンガリーの領土に始めて領土を持つこととなった。 &ref(ヴァシュをめぐる戦争②.jpg); > ハンガリーに領土を得た第一の功績は、言うまでもなくシュタイマイアー伯のオタカル・フォン・チエムガムであった。 オタカルの直接の主君であるエルンストもローマ皇帝から直接お褒めの言葉を預かったが、エルンストの表情は暗かった。 なぜなら、今回のことは、エルンストに何の相談もなく独断で進められたからであった。 オタカルは一躍、帝国内で英雄としてもてはやされた。 &ref(シュタイアーマルク伯オタカル.jpg); > 1124年10月。エルンストはパッソ―州をめぐる戦争に勝利した。新たな家臣として、パッソ―伯ジグフリート・フォン・ラボトネンが加わった。 &ref(パッソ―めぐる戦争⑤.jpg); &ref(パッソ―伯ジグフリート.jpg); &ref(周辺状況_1124年.jpg); &size(12){''オーストリア公領が2州から4州へ''}; > 1124年12月。バヴァリア公爵家に対する勝利の余勢をかって、ケンテルンの請求権によりブランズウィック公爵家に宣戦布告。 再びアンハルト伯爵家、さらには息子レオポルトの妻の姉であるザクセン女公爵も参戦した 再びアンハルト伯爵家、さらには息子レオポルトの妻の姉であるザクセン女公爵も参戦した。 &ref(ケルンテンをめぐる戦争②.jpg); > さらに、宰相オットーがアキレア州の請求権捏造に成功。 &ref(アキレアの請求権捏造.jpg); > 1126年1月、バベンベルグ家は、勝利を収め、ケルンテン州を奪取する。連戦に勝利すると、これまで慎重に慎重を重ねてきた アマデウスも、この勢いに乗ってアキレア州に攻め込もうとエルンストに進言した。 しかし、それよりも前にアキレア州を領有するケルンテン大司教から、ケルンテン州奪取のために宣戦布告してきた。 &ref(ケルンテンをめぐる戦争④.jpg); &ref(バベンベルグ家軍.jpg); &size(12){''転戦するバベンベルグ家軍の布陣は、左翼にはウィーンの下級貴族メルク家のマインハルト、中央には有事の際には協力することを約束していたバイアス・マッガ、右翼には元帥のヒセルベルト。''}; > 1127年1月。ケルンテン大司教の攻撃を難なく退けて、ケルンテン州を防衛。 &ref(ケルンテンをめぐる戦争⑤.jpg); &ref(周辺状況_1127年.jpg); &size(12){''オーストリア公領は4州から5州へ。''}; > 1127年5月。エルンストは、返す刀でケンテルン大司教に対し、アキレア州奪取のために宣戦布告。 &ref(アキレアをめぐる戦争②.jpg); > 1128年8月、オーストリア公爵家軍は勝利し、アキレア州の簒奪に成功。 &ref(周辺状況_1128年.jpg); &size(12){''オーストリア公領は5州から6州へ。''}; > 1122年6月にパッソ―州奪取のためにバヴァリア公に宣戦布告してから、6年間で4回の戦争を行い、オーストリア公の領土は シュタイアーマルク伯の得たヴァシュ州も含めて、2州から6州へと一気に増大した。 **新体制と重臣の死 [#e4c37bb9] > 1128年8月。エルンストは長男の妻の父、ウルリヒ・フォン・ワイマールを宮廷司祭に任じた上でアキレア司教領を与えた。 ウルリヒは元々イストリア伯であったが、ケンテルン大司教がイストリアに逃れてきたため、その地位を追われ、ウィーンに逃れてきたのだった。 &ref(ウルリヒ追放.jpg); > ウルリヒの妹は今は亡きスーザ公爵ジグムント1世に嫁いでおり、その子らはバベンベルグの家名を持つ。 もとよりバベンベルグ家とはつながり深い家であった。 > 1128年9月。エルンストは長男レオポルトをケルンテン伯に封じた。 &ref(ケルンテン伯レオポルト.jpg); > 1129年5月。宮廷司祭に任じたアキレア司教ウルリヒの死を契機に、エルンストは評議会の刷新を決意した。 宰相は、16才で就任し、42年にわたりその任にあったオットー・フォン・メルクに代わり、パッソ―伯ジグフリートが就任。 オットーはウルリヒの後のアキレア司教に任命された。密偵頭はイタリア貴族アルボィノ・ディ・エステルゴムに代わり、 新たに家臣となったヘルマン・フォン・リンツ。宮廷司祭には第二代当主レオポルト2世の非嫡出子グントラムに任じた。 &ref(評議会_1129年.jpg); > 1129年12月。エルンストは、ケルンテン公爵領の要求権の捏造を新たな密偵頭ヘルマンに命じた。 &ref(ケルンテン公爵領捏造.jpg); > 1131年7月。陰謀は成功し、ケルンテン公爵領の要求権のねつ造に成功した。 &ref(陰謀成功.jpg); &ref(世界情勢_1131年.jpg); &size(12){''いつの間にか、フランス南部にエジプトが勢力を伸ばしていた。''}; > エルンストは55才にして、神聖ローマ帝国ととフランス王国との戦争で活躍し、名声を得る。 &ref(名声を得る.jpg); > また、ウィーンに来てから早25年が過ぎたバイヤス・マッガが久しぶりに宮廷に参上し、エルンストへの感謝の念を述べた。 &ref(バイヤス感謝.jpg); > 1133年9月10日アマデウスが73才にして自然死。1075年に25才の時に先々代のエルンスト1世に招かれて家令となってから、 三代にわたり58年という長きにわたり家令を勤めてきたアマデウスの死はウィーンの宮廷を粛然とさせた。 アマデウスは死ぬまでバベンベルグ家の家令の地位にあり続けた。アマデウスは死期が近いことを全く悟らせぬまま、静かに逝った。 > エルンストは、後任の家令に先年、宮廷司祭に任じた異母弟のグントラムを任じた。 &ref(グントラム・フォン・バベンベルグ.jpg); エルンストは、当時44才のグントラムを母親が違えども兄弟として信頼しており、アマデウスの後の家令として一族の重鎮となり バベンベルグ家を支えてくれることを期待した。 エルンストは廷臣達の前でグントラムを呼び寄せ、震える声でこう伝えたと言う。 「わしはもう長くない。わが子、レオポルトのことを頼んだぞ」。 グントラムはエルンストの手を握り、涙を流しながら、期待に応えることを誓約した。 この時のグントラムの言葉を疑う者は生者の中にはいなかった。 **永い治世の終わり [#cb9f7200] > 1134年7月。エルンストは、ケルンテン公爵領の簒奪に成功する。 &ref(ケルンテン公爵簒奪.jpg); > 1134年7月。エルンストは、ケルンテン公爵領の称号の簒奪に成功する。 > 1134年10月。バヴァリア公爵家との休戦協定終了直後、前年にチロル公爵家とイスブルックの領有権を争い 敗退に追い込まれていたバヴァリア公爵家に対し、ザルツブルクの領有権を争い宣戦布告。 &ref(ザルツブルグをめぐる戦争④.jpg); &ref(ザルツブルグをめぐる戦争⑥.jpg); > 1136年12月。戦争は未だ終結していなかったが、戦争の最中、エルンスト2世は衰弱により死去。享年60歳。 戦争の最中に死亡した当主は祖父エルンスト1世と同じであった。その45年に及ぶ治世で、バベンベルグ家の勢力を大きく伸長させた。 &ref(エルンスト2世死去.jpg); ~続く~ **あとがき [#p090a734] ようやく派手な展開になりました。 当主も長生きしましたし、非常にうまくいきました。 いろいろ伏線めいたことも書いていますが この後、回収されます。 TIME:"2014-08-09 (土) 04:19:15"