[[AAR/ハプスブルグ家で普通にプレイ]]

**はじめに [#y3d9f2b4]

私はオットー・ハプスブルグ。私が父の後を継ぎ、上ブルグンド公爵になったのはちょうど年齢にして30になったばかりの頃のことでした。
30という歳は普通の人でいえば、若気の力みというものもなくなり、円熟味の増しつつある年齢です。
当然、我が父ウェルナー・ハプスブルグも後を託す息子に安心して世を去ったとお思いのことでしょう。
ところが父はその死の間際まで、自分の死んだ後のことを不安がっておりました。そう、父の不安の源は、通常であれば安心して後を任せられるはずの私にあったのです。

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 成人直後の私。この後管理特性で管理能力が大幅に上昇したものの・・・。

私は領地の経営手腕に関しては、我がハプスブルグの一族の中でも右に出る者のない力を有していました。
しかしながら、今まで父や母に甘やかされて育ってきたせいなのか、人としての器量というものがいささか欠けていました。
だらしなく、性格も良くない。他者からは決して好かれることない人物だったのです。


**私を襲った悲劇 [#f7b5fb6e]

私の治世の出だしは、まさに波乱に富んだといっていいものとなりました。
父の後を継いでまだ一月もかかららないうちに、密偵頭よりある報告が来たのです。

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「奥様が浮気をされているようです。」

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私はその知らせに一切驚きませんでした。薄々感づいてはいたのです。当時の私と妻の仲は冷え切っていました。
妻の不倫相手は、ブランデンブルグ伯のロベルト・ウィテンブルグでした。彼は当時、帝国一のすけこましと悪名が高く、多くの諸侯の夫人がその毒牙にかかっておりました。
妻との関係上、不倫されても仕方ない。しかし、このままにしておくのは癪に障る。
私は世間に対し、妻とブランデンブルグ伯の許されざる不倫を糾弾しました。

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その結果、妻は不貞の女として世間より非難され、我が宮中でも白い目で見られるようになり、少し胸がすっとしました。
しかし、元々悪評の高いブランデンブルグ伯は私の糾弾を一切意に介さず、その自由奔放な女性との付き合いをその後も続けました。
全く、何という男でしょう。

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そうそう、この騒動の直後に妻が妊娠したのですが到底私の子だとは信じられません。

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密偵頭に命じ調査をさせました。しかしながら、不義の子であるという証拠をつかむことはできませんでした。
翌年、妻は元気な男の子を出産しました。この男の子こそ、私の後を継ぐこととなる嫡男ワーラムです。
彼が私の子なのかブランデンブルグ伯の子なのかはわかりません。
私はその死の瞬間まで、ワーラムが実の子だと信じることができませんでした。

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私をもう1つの悲劇が襲いました。もっとも、今度の悲劇は上のドロドロした決して表に出ることはないものとは異なり、封建社会の宿命といえるものでしたが。

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1093年5月。ネウチャテル伯領を継いでいた弟のウェルナーが上ブルグンド公爵位を求めて、私に反旗を翻したのです!

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弟の反乱にも私は慌てることはありませんでした。私には父の遺した大量の金貨がありました。
私はその金貨で傭兵を雇い、敵に勝る兵を編成し、出陣しました。

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我が軍と反乱軍の戦闘は、数に勝る我々の勝利に終わりました。
反乱軍に加担した愚か者どもはことごとく捕えられ、獄につながれました。後は沙汰を待つばかりです。
多くの者が、反乱軍の首謀者である弟ウェルナーの厳罰を予想して疑いませんでした。

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ですが、私は弟を許すこととしました。え、何故かって?弟がある人物にそそのかされていたということが明らかになったからですよ。
その人物というのが、我がいとこ、ベルン伯ルドルフ・レンツブルグだったのです。
ルドルフはかねてより懇意の仲であった我が弟を公爵に祭り上げ、自らが公爵領の実権を握ろうと画策していました。

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 愚かないとこ。

私はルドルフのベルン伯爵位の剥奪と、レンツブルグ一族の上ブルグンドよりの追放を命じました。
弟は今後二度と公爵位への野心を持たないことを条件にネウチャテル伯位を安堵しました。
兄より優れた弟など存在しない。今回の件で、弟は嫌というほど思い知ったことでしょう。


**十字軍 [#vdcfbec5]

反乱軍との戦がまだ行われていた1093年11月。ローマの教皇がエルサレムへの十字軍を宣言しました。

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 第1回十字軍。

当時、聖地エルサレムはシーア派のファーティマ朝の支配下にありました。聖地の回復こそが、皇帝によって対立教皇を立てられた自らの権威回復につながる。ローマの教皇は当時そう考えていたのではないでしょうか。

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それからちょうど1年後。反乱軍との戦に無事に勝利した私は、早速ローマの教皇に十字軍への参加を申し出ました。

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 対立教皇の宗教指導下にあっても十字軍に参加できるんですね。

聖地回復という宗教の大義名分の下にあっては皇帝派も教皇派も関係ありません。事実、私以外にも多くの帝国諸侯が十字軍に参加しましたが、皇帝はそれを制止はしませんでした。

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弟の反乱軍との戦があったため私は遅れての参加だったのですが、兵を引き連れ聖地に降り立ってみると、すでに十字軍の勝利は濃厚というような戦況でした。

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我が軍がエルサレムに降り立ってからしばらくして、十字軍は大成功に終わり、エルサレム一帯は戦功第一のアキテーヌ王に授けられました。

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残念ながら我が勇猛な兵が戦場で活躍する機会はありませんでしたが、十字軍に参加しエルサレムに赴いたことで、私は世間より十字軍戦士と呼ばれるようになり、その行動を大いに称賛されたものです。

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**帝国と我が家庭のこと [#rd359586]

あれは1106年末のことでした。我が主君、皇帝ハインリヒ3世陛下が世を去られたのです。享年56歳。かつて戦場で受けた古傷が悪化したとのことでした。

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 ハインリヒ賢帝の死。

執拗なまでのフランスへの度重なる遠征、対立教皇の擁立。正直、必ずしも誉められた人物ではありません。
ですが、陛下ほど諸侯から敬愛された皇帝が他にはいないこともまた、事実です
帝位は諸侯の推薦により、長男のハインリヒがハインリヒ4世として即位することとなりました。

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我が家庭はまさに雪解けの季節という表現がふさわしい状態でした。

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かつて反乱を起こした弟のウェルナーとは気まずい時期が続きましたが、この度腹を割って話し合い、私の中での彼へのわだかまりもなくなりました。私は彼を新たに宰相に任命することにしました。
弟は今ではすっかり私に心服しております。何度も言いますが、兄より優れた弟など存在しないのです。

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妻との関係も次第に修復していきました。仕方ないとは思ったものの、当時の妻の不倫を私は許すことができずにいました。
しかし、時が経つにつれて妻を許そうという気持ちになっていきました。
今では夜の営みを盛んに行うほど、良好な関係を築けるようになりました。意外とこういうのって時が解決するものですね。

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我が家に危害を及ぼし得る陰謀は全て、優秀な密偵頭が防いでくれます。その密偵の名はゲルパルト。バセルの司祭であり、かつて我が父がつくっつた私生児です。
我が家に危害を及ぼし得る陰謀は全て、優秀な密偵頭が防いでくれます。その密偵の名はゲルパルト。バセルの司祭であり、かつて我が父がつくった私生児です。

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私はこの異母弟のことをとても信頼しています。かつて父が教会史に名を残す名僧になってほしいと願った1人の少年は、今では我が宮廷に欠かすことのできない人物になっているのです。
私はこの異母弟のことをとても信頼しています。かつて父が教会史に名を残す名僧になってほしいと願った1人の少年は、今では我が宮廷に欠かすことのできない諜報のスペシャリストになっているのです。


**フランス王との戦 [#vd6637b4]

1125年。宰相である弟ウェルナーより、フランス王国領デジョンの請求権の捏造に成功したという知らせが届きました。

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当時、帝国は国内での私戦が法で禁止されている状況にありました。そのため、勢力を拡大するには国外に目を向けるしか道はありませんでした。
当時の私はフランスに活路を見出したのです。

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この当時のフランス王は傑物といって良い人物でした。

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 フランス王バウドウイン。公正王と称される。天才である。
 フランス王バウドウイン。公正王と称される。天才である。

幼き頃より天才と呼ばれ、王に即位した後は諸侯の支持を集め、国内の安定に成功しました。
失地回復の野心に燃える若き王は、私が請求権を捏造した当時、アキテーヌ王に戦を仕掛けていたのです。

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私はアキテーヌと戦うフランス王を背後から襲い掛かることを決断、先ほど弟の捏造したデジョン伯領を求めて、フランス王に宣戦布告しました。

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我が軍とフランス王の軍はアキテーヌ領モウリンスにて激突しました。

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この戦ではフランス軍の奮戦により、数に勝りながら我が軍は大きな打撃を受けたものの、何とか勝利することができました。
そして、この勝利により我らの勝利は揺るぎのないものとなりました。
フランス王は負けを認め、デジョンを手放したのです!

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この勝利により、ハプスブルグ家のフランスへの道が開かれたのでした。


** [#a1e076a0]

さて、私の物語も終わりが近づいてきました。1131年現在、私は71歳になりました。
気付けば、父の後を継いでから40年が過ぎていました。
思えば、色々なことがありました。今では私は帝国の長老格として皇帝より時折相談を受ける立場にあります。

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 「老公」と呼ばれることもあります。

40年前、甘やかされて育った私は人として難のある人物でした。
ですが、この40年の間、色々な苦労をした結果、自分で言うのもなんですが私は大きく成長しました。

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 晩年の私の能力。

多くの孫たちに囲まれ、私はとても幸せです。思い残すことなどありません。

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おお、そんなに血相を変えてどうしたんだ?

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なになに?皇帝がローマの教皇に宣戦布告しただと!?
遂に始まったか…。いつかは起きると思っていたが、これは避けられぬ宿命じゃ。
残念なのは私はこの戦の結果を知ることができなそうなことだ。

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1131年9月。皇帝と教皇の戦が遂に始まろうとする最中、2代目上ブルグンド公爵オットー・ハプスブルグは世を去った。その在位期間は40年を超えた。
後は嫡男ワーラムが継いだ。

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TIME:"2015-09-20 (日) 18:21:44"

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