[[AAR/デンマーク年代記]]
**国内情勢 [#se011ed8]
&ref(43年兄に剣術を教えてもらう.jpg,nolink);
5月22日、王は王兄エストラント公の下に参られて、剣術を習われた。
王は王兄の下で剣術に励まれたが、剣才が発揮されたのはむしろ王兄のほうであった。
&ref(常勝の天才.jpg,nolink);
最盛期には軍事値は31を記録し、エストラント公オトは八紘一の益荒男と称賛されるようになる。
&ref(43年兄に剣術を教えてもらう3.jpg,nolink);
王はエストラント公の下に招かれ食事を召されたが、そこで事件が起きた。
王は食事の味に違和感を覚えられ、毒が盛られていないか詳しく調査をするよう命じた。
&ref(43年兄に剣術を教えてもらう4.jpg,nolink);
何だこのイベント
だが、それは杞憂であった。奇妙な味はかび臭い肉に香辛料を大いにふりかけた為であったからである。
いずれにせよ、エストラント公は王に深く感謝され、調査費用を肩代わりされた。
**新宰相招聘 [#h08a7793]
&ref(宰相参る.jpg,nolink);
6月2日、ドイツ騎士団領ポゲサニアからイーギノルフ・フォン・バウムブルクが王を慕い参内した。王は非常に喜び、宰相・宮廷医とした。
**神聖ローマ帝国との外交 [#ab7f62bf]
1343年から45年にかけて、王は二度神聖ローマ帝国に援軍を送られた。
帝国と親密な関係を維持し、デンマーク単独では劣勢なスウェーデン=ノルウェーに対抗する事を目論んだためである。
10月10日、神聖ローマ皇帝ルードヴィヒ4世は61歳で崩御された。
皇帝としての自負が強く、皇帝権力の増大に努め教皇とは慢性的な対立状態であった。
さらに後継争いの内乱や国内の異端にも悩まされ、多忙な治世であった。
&ref(ルードヴィヒ5世37年.jpg,nolink);
その嫡子ルードヴィヒ5世は王の姉マグダレーネの夫であるので、王の義兄にあたる。
彼はベネツィアとの戦争に義兄弟のヴァルデマ4世に援軍を乞うた。
王は快諾され、少なくない軍勢を派遣された。
&ref(43年ヴェネチア戦役.jpg,nolink);
1344年8月28日、帝国はヴェネツィアからドゥイーノを獲得した。
&ref(44年教皇廃位戦役.jpg,nolink);
1344年11月21日、皇帝ルードヴィヒ5世は対立教皇を擁するフランス王ジャン2世を廃位すべく諸国に檄文を飛ばした。
王はこの要請を承諾したが、深い慈しみの心を持たれる王は仲のよくない教皇のために諸侯を煩わせることを良しとせず、
エストラント公オトを将軍とする常備軍部隊のみを遣した。
&ref(44年教皇廃位戦争4.jpg,nolink);
帝国とデンマークだけでなく教皇庁、ハンガリーも廃位に賛同した
&ref(44年教皇廃位戦争7.jpg,nolink);
デンマーク軍はフランス国境地帯にて小規模な戦闘を幾度か繰り返したのみですぐ帰還した。
&ref(45年ジャン2世の最期2.jpg,nolink);
フランス国内の反乱が拡大し、対立教皇を奉じるジャン2世が退位、教皇庁に忠実なシャルル5世が即位したためである。
**スヴェア解放戦争 [#fdadc1af]
|LEFT:|CENTER:|LEFT:|CENTER:|c
|>|>|>|BGCOLOR(#ffccaa):''スヴェア解放戦争''|
|>|>|>|''年月日:''1345年10月11日-1346年2月26日|
|>|>|>|''結果:''エストラント公爵夫人アウネスがスウェーデン女王に即位|
|>|>|>|BGCOLOR(#ffccaa):''交戦勢力''|
|デンマーク王国              |14000|スウェーデン=ノルウェー|20000|
|神聖ローマ帝国  |不明|>|-|
|>|>|>|BGCOLOR(#ffccaa):''指揮官''|
|>|ヴァルデマ4世|>|ベリヘミル司祭アルフ|
|>|エストラント公オト|>|ハッランド伯爵クヌーズ|
|>|スコーネ大司教ペーザ|>|ファレイヤル伯爵アルゴット|
&ref(45年スヴェア解放戦争.jpg,nolink);
1345年10月11日、スウェーデン・ノルウェーは全土で黒死病が蔓延していた。
王はこの事を憂慮され、詔した。
&ref(顔王若.jpg,[[AAR/デンマーク年代記]],nolink); スウェーデンとノルウェーの王マグヌスは大臣らの邪悪な助言と説得により国民を侵害し、
&ref(顔王若.jpg,[[AAR/デンマーク年代記]],nolink); 恣意的に支配し、淫蕩に耽り、政務を顧みないことが甚だしい。
&ref(顔王若.jpg,[[AAR/デンマーク年代記]],nolink); 彼の所領の各地で黒死病が流行るのは、彼の振る舞いに対する天にいます神の怒りによる物である。
&ref(顔王若.jpg,[[AAR/デンマーク年代記]],nolink); 翻って前のスウェーデン王ビルイェルの長女アウネスはで厳正実直な人物であり、この者こそがスウェーデン王位を継ぐに相応しいであろう。
&ref(顔王若.jpg,[[AAR/デンマーク年代記]],nolink); 因ってマグヌス王を廃位しアウネス王女をスウェーデン女王として迎えるべく余の廷臣ならびに諸侯は兵を挙げ、此れを討て。
&ref(顔王若.jpg,[[AAR/デンマーク年代記]],nolink); ここにおいて余がスウェーデンに遠征せんと決意したのは、侵略や略奪が目的ではなくかの国の国民をしいたげる圧政者を追放し、
&ref(顔王若.jpg,[[AAR/デンマーク年代記]],nolink); かの国に安寧と平穏を取り戻すためである。余の名においてかの地に赴くことをゆめゆめ肝に銘じよ。
王は詔と共に神聖ローマ帝国皇帝ルードヴィヒ5世に勅使を送り、同盟参戦を願った。
&ref(45年スヴェア解放戦争3.jpg,nolink);
ルードヴィヒ5世は王が二度も援軍を送ったために非常に心象がよく二つ返事で了承した。
45年の戦いは9月に偵察に来襲した950の兵をエストラント公が撃破したのみで終わり、双方ともに諸侯の軍勢を集めておくだけで終わろうとしていた。
当初のデンマーク側の作戦はスコーネを放棄し、シェラン島に大本営を置き神聖ローマ帝国軍が到着するまで待ってから反撃に出るという作戦であった。
ところが、偵察にでた騎兵部隊の報告だとスウェーデン軍は王弟クヌーズが率いる9500がクヌーズの所領ハッランドに、ベリヘミル司祭のアルフが率いる10500がネースシェー近郊にと分散していた。
&ref(45年スヴェア解放戦争4.jpg,nolink);
当時の状況をセーブデータで戦場の霧を消して再現
この報告に王は喜ばれ、直ちに討って出ると詔した。
&ref(顔王若.jpg,[[AAR/デンマーク年代記]],nolink); 古来、我らの祖先は波高し大海原を渡り各地を征した。我らも海峡を渡り、自ら勝機を得ようではないか!
12月12日、デンマーク軍は凍結したエーレスンド海峡を渡った。
&ref(氷上侵攻.jpg,nolink);
真冬に凍結した海峡を横断したこの出来事は、後に氷上侵攻と呼ばれた
1月14日、ファルケンベリにて王弟クヌーズの軍9500と激突した。
&ref(フロデの矢.jpg,nolink);
21日、王の間近に控えていた先の宰相フローゼの放った矢が、敵の右翼を率いるファレイヤル伯爵アルゴットに命中し、アルゴットは戦死した。
この報に驚いた王弟クヌーズは
&ref(顔クヌーズ.jpg,nolink); これは大いなる凶兆だ。此処で敵を迎え撃つべきではない
と述べると勝手に退却をはじめ、スウェーデン軍は混乱に陥った。
&ref(45年スヴェア解放戦争8.jpg,nolink);
結果左翼のみが取り残される形となり左翼はわが軍の集中攻撃を受け2月2日壊滅、
デンマーク軍はすぐさま南下し7日にはハルムスタードにてスウェーデン軍を迎え撃った。
ネースシェーから急行した軍はあと一歩のところで間に合わず、王の目論んだ通り各個撃破に成功した。
&ref(45年スヴェア解放戦争92月26日.jpg,nolink);
&ref(歪みねえな.jpg,nolink);
また、王はこの戦いで慈悲の心満ちた振る舞いをなされた。
**将軍を国外から招聘 [#nd743648]
1346年7月30日、王は詔を発した。
&ref(顔王若.jpg,[[AAR/デンマーク年代記]],nolink); 先のマグヌス王との戦いでは余自ら軍を率いて戦ったが、いつも王が前線に居るのは国家安寧の為からすれば必ずしも良いとは言えぬ。
&ref(顔王若.jpg,[[AAR/デンマーク年代記]],nolink); それは公領を治めるエストラント公・スリースヴィ公についても同様であるし、軍を分かつときに有力な将軍が少ないことは多方に散る敵を相手に戦うときには心許無い。
&ref(顔王若.jpg,[[AAR/デンマーク年代記]],nolink); よって汝らは四方を見聞し、その名の聞こゆるつわものらを召して参れと言う余の詔を皆承れと申し告げる。
この詔に従い諸臣は諸国の武勇の誉れ高い者らを勧誘した所、
ゴート人のアケ、ドイツ人のディートウィン、スヴェン人のヘルギ・アヴ・ロマ、スオミ人のコリの4人が王のもとに参上した。
王はそのうちディートウィンを元帥とし、アケを将軍、ヘルギとコリを副将軍とした。
&ref(46年招いた4人の将軍.jpg,nolink);
緑線が招いた四名
**コノン2世教皇即位 [#n3ad6e38]
&ref(46年教皇崩御.jpg,nolink);
主の受肉より1347年の4月2日、197代教皇ベネディクトゥス12世が崩御された。62歳であった。
賄賂の慣習を廃止するなど厳格な教皇であったが、それ故に世俗諸侯と対立し、伝統的に対立していた神聖ローマ皇帝だけでなく
フランス王フィリップ4世の暗殺後即位したジャン2世は教皇を激しく非難し、アヴィニョンを襲撃し自ら対立教皇を立てるに至った。
教皇はローマに逃れたが教皇庁の権威は下がり異端が蔓延る原因となった。
&ref(46年の異端信仰2.jpg,nolink);
崩御前の状況。異端はシェラン島にまで及んだ。
&ref(46年教皇崩御2.jpg,nolink);
ハーマル司教のイーレク枢機卿が第198代教皇コノン2世として即位した。
教皇は王と同じくエストリズン家の出身で、ヴァルデマ勝利王の4世孫であり、王の三従兄弟にあたる。
この初の北欧出身の教皇はヴァルデマ4世自身にも驚きをもって迎えられた。
王はローマ巡礼の燦燦たる結果以後教皇庁との関係改善を諦めており、全く献金していなかった。
王は急ぎ教皇庁に寄進し、また長女マグダレーネを彼女の教育をお願いしたいという名目で教皇の下に参らせた。
&ref(46年教皇崩御7.jpg,nolink);
*[[巻三 ヴァルデマ再興王 1348~1354>AAR/デンマーク年代記/巻三 ヴァルデマ再興王 1348~1354]] [#p969fabc]
TIME:"2015-01-25 (日) 02:32:51"