[[AAR/デンマーク年代記]]
**第十次十字軍 [#lb24f8eb]
第十次十字軍
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|>|>|>|BGCOLOR(#ffccaa):''第十次十字軍''|
|>|>|>|年月日:1348年1月28日-1350年9月18日|
|>|>|>|結果:エルサレム王国の再興|
|>|BGCOLOR(#ffccaa):''十字軍勢力''|>|BGCOLOR(#ffccaa):''ムスリム勢力''|
|デンマーク王国|12000|バフリ朝|25000|
|サンティアゴ騎士団|12000|ムルズキド朝          |1700|
|教皇庁(招聘した聖ヨハネ騎士団も含む)|8300|>|-|
|ヴェネツィア共和国|4800|>|-|
|マントヴァ公国|3000|>|-|
|>|ヴァルデマ4世|>|”スルタン”ナジル・ムハンマド|
|>|エストラント公オト|>|タラブルス太守サラアッディーン・イブン=ムハンマド|
|>|スリースヴィ公ヴァルデマ5世|>|アッカ太守サイド|
|>|ヘルギ・アヴ・ロマ|>|アル=サイド太守カンツ・イブン=アブダッラー|
|>|ディートウィン|>|キナスリン太守ラティフ|
|>|アケ|>|イグミ|
|>|コリ|>|-|
&ref(47年第十次十字軍.jpg,nolink);
1348年1月28日、教皇コノン2世は第十次十字軍を唱えた。
すでに対立教皇ボニファティウス9世は数か月前に廃位されており、
宗教権威の回復をみたコノン2世は76年間にわたり行われていなかった十字軍を持って権威のさらなる上昇を狙うことにした。
当時王は神聖ローマ帝国の異端反乱鎮圧に参戦していたが、王は教皇の演説に感動され、十字軍参加を告げた。
王自ら将軍として諸侯に号令をかけ、帝国に援軍として出していた常備軍を撤収し、諸侯から船を徴収した。
だが、当初は教皇のもくろみ通りにはいかなかった。
教皇の呼びかけに応じたのは王位保持者ではデンマーク王ヴァルデマ4世のみであり、そのほかは僅かな公、伯ばかりであった。
&ref(47年第十次十字軍3しょぼい十字軍.jpg,nolink);
&ref(47年第十次十字軍2不信心者の死.jpg,nolink);
王の招聘に応じなかったエーゼル伯ヤーコプが卒し、子がいなかったためエーゼル伯領は王の直轄領となった。
不審死であったが、人々は神意であると噂した。
9月1日、王自ら率いるデンマーク軍がヤッファに上陸した。周辺に軍の姿は見えなかった。
王は軍をエストラント公率いる軍と王自らが率いる軍に二分し、エストラント公軍を先遣隊として北方から陸路で来る教皇軍との合流を目指すことにした。
&ref(47年第十次十字軍5.jpg,nolink);
11月3日、サレプタにて少数のサラセン人と戦闘状態に陥ったが、なんなく撃破した。この部隊はむしろバフリ朝とは対立していたようだが、使命にもゆる十字軍戦士には些細な事であった
''クアラット・ナジムの戦い''
十字軍20000VSサラセン人10000
4月10日、教皇軍とダルソンにて合流した十字軍はであったが、サラセン人の軍はなかなか姿を見せなかった。
エストラント公オト率いる先遣隊がユーフラテス川沿いのクアラット・ナジムに到達したとき、ようやくサラセン人の大軍を見つけることが出来た。
クアラット=ナジムはサラセン人の言葉で”星の城”を意味し、川のそばに古城が存在する。
エストラント公は城を拠点としサラセン人を迎え撃った。
&ref(49年第十次十字軍1.jpg,nolink);&ref(49年第十次十字軍2の補遺.jpg,nolink);
対するサラセン人は十字軍が集結する前に各個撃破すべく不利を承知で渡河攻勢に出たが、公は2週間にわたってサラセン人の渡河を阻止し続けた。
&ref(49年第十次十字軍3 .jpg,nolink);
前線は膠着したまま4月24日には王の軍、5月9日には教皇軍が加わり、サラセン人の軍勢を逆包囲した。
&ref(49年第十次十字軍4.jpg,nolink);
王は敗残する敵をキュロスまで追撃し、ワリー・カイデッリーンを討ち取った。
7月25日、宮廷長官ヤルマの献策により75グルデンを得ることが出来た。
&ref(49年第十次十字軍5.jpg,nolink);
''ドゥマイルの戦い''
十字軍8859対サラセン人1900
8月11日にドゥマイルで王が敵と戦っている時、デンマーク本国である事件が起きた。
宮廷司祭ペドロは対異端十字軍と称してシェラン島の異端信仰を排除する運動、いわゆる異端審問をしていたが、
彼の強引なやり方は異端者どころか正しい信仰を持つものの反発までも招いた。
&ref(49年第十次十字軍6.jpg,nolink);
王はこのことを問題視され、前の宰相フローゼを召して
&ref(顔王若.jpg,[[AAR/デンマーク年代記]],nolink); 国で異端が蔓延るのは優れた神学者がいないからだ。他国から博識である者を招くべきであると思うのだが、だれかいないだろうか
&ref(顔総督.jpg,[[AAR/デンマーク年代記/巻一 ヴァルデマ再興王 即位前紀]],nolink); 世界広しといえど、全き信仰に帰依しているものでジョーフレイ・モルティメルの右に出る者はいません。この者こそ我が国を導く神学者にふさわしいでしょう
&ref(50年ゲオフレイを招く.jpg,nolink);
招聘できる人物では最高の人物である
9月18日、イングランド出身のジョーフレイ・モルティメルがデンマークに参内した。
王は喜ばれ、さっそく宮廷司祭とするよう命じた。
''ヤッファの戦い''
十字軍24000対サラセン人6900
&ref(49年第十次十字軍9.jpg,nolink);
1350年2月14日、"スルタン"ナジル・ムハンマドは西方より集めた7000の軍を以て、再起を謀った。
この軍がデンマーク軍との決戦を目指していることは確実であったが、
それがヤッファ包囲軍なのか、エルサレム包囲軍なのかは未だに明らかでなかった。
これの二軍を合わせると8500であるが、エルサレムとヤッファ各々では4000程度しかなかったため、
これらが各個撃破の対象となってしまう事を危惧し、どちらかの包囲を解くことを進言するものもいたが、
ジャッファとエルサレムは双方ともにあとわずかで陥落するところであり、現地で包囲を指揮する将軍たちは猛反対をした。
そこで王は双方の包囲軍の中から一部を引き抜き、それらを各々もう一方の都市へ向かわせることとした。
そして敵軍が向かう都市が判明した場合、その都市へ向かう軍はそのまま進軍し、そうでない方は進軍を止める。
これでスルタンがどちらに攻撃しても迎え撃てるだけの兵力を用意したのである。
&ref(49年第十次十字軍10.jpg,nolink);
3月1日、ヤッファにて交戦したが、作戦が功を奏し敵より多い兵力で迎え撃つことが出来た。
&ref(エルサレム開放.jpg,nolink);
3月5日、エルサレムが陥落した。ノルド的優しさ持つデンマーク王国軍のエルサレム制圧は、武力解放のわりには、流血の跡がほとんど見られなかった。
太守の家族5名を捕虜とし、包囲軍はヤッファへ急行した。
&ref(50年十字軍2.jpg,nolink);
十字軍はスルタンの首を取るべく敵左翼に攻撃を集中させたが、スルタンは取り逃がした。
3月13日、教皇庁やエルサレム包囲軍が到着すると大勢は決した。
''異端の聖人来たる''
&ref(50年十字軍4.jpg,nolink);
十字軍が残敵の掃射に移っていた4月22日、一人の聖人が王の下に参内した。
彼は東方の正教会こそがまったき道であり、王や教皇庁は異端であると奏上したため、
王は大いに怒りこの者を投獄した。
&ref(50年十字軍5.jpg,nolink);
反対する廷臣は誰もいなかった。
''ガザの戦い''
十字軍6000対ムスリム勢力1600
&ref(50年十字軍7.jpg,nolink);
5月12日から5月25日、ガザでスリースヴィ公軍がアフリカから来たスィファク軍1600と交戦。これを殲滅し敵将ティファンを討ち取った。
以降大規模な敵兵力は見られなくなる。
&ref(50年十字軍勝利.jpg,nolink);
そして1350年9月18日。この日、59年の時を経てイスラエル王国は復活し、聖地エルサレムは実に106年振りに正しき信仰の元へ戻った。
10月3日、サラセン人のカリフアッマードがジハードを宣言した。
だが、先の戦いで敗北したバフリ朝スルタン、ナースィル・ムハンマドは参戦しなかった。
彼はスンニ派本流の信仰を捨て、イバード派に宗旨替えしていたからである。
エルサレムが落ち着く間もなく始まったジハードに対し、キリスト教徒たちは王に支援を行った。
&ref(同志は暖かい.jpg,nolink);
10月26日には、教皇より200ダカットの下賜が。
1351年1月17日、聖ヨハネ騎士団が臣従。王は大いに喜ばれ、500ダカットを騎士団に寄進された。
1月26日、皇帝ルードヴィヒ5世が聖地防衛の協力を申し出た。王はまた大いに喜ばれ、歓迎した。
この戦いはデンマーク側が優勢であったが、砂漠の不毛な戦いに辟易した王は2年後に講和が結んだ。
&ref(七代祟ってやる.jpg,nolink);
**再興王と称すこと [#a898658e]
この頃、民衆は王の功績を讃え、王を「大王」と呼称することが多くなった。
&ref(先祖と被る.jpg,nolink);
デンマーク国王で大王を冠するのはクヌーズ一世、ヴァルデマ一世以来三人目である
王は大層喜ばれたが、臣下を集めこう詔された
&ref(顔王若.jpg,[[AAR/デンマーク年代記]],nolink); 近ごろ余のことを「大王」と呼ぶものがいると聞く。余はまことに喜ばしいが、それでは「ヴァルデマ大王」が二人になってしまう。どうか他の呼び名にしてくれないか
&ref(顔エギノルフ.jpg,nolink); 陛下はその実直なお力により23年の空位であったデンマーク王位を継承され、さらに十字軍を成功させてイスラエル国王に戴冠されました。
&ref(顔エギノルフ.jpg,nolink); 陛下がこの二つの王国を再び興した、との意味を込めてatterdag、「再興王」との呼称はいかがでしょうか。
王はその上奏を聞き入れられ、人々が「再興王」と呼ぶことを許した。
&ref(再興王.jpg,nolink);
&ref(総督死去.jpg,nolink);
1252年3月31日、ウトランデ総督エズルフが薨去した。58歳であった。
妻を刺殺するなど行動に問題は多かったが王の信任厚く、
王の密偵頭としてドイツ人領回復に大いに功績があったとされる。
王の即位と共に密偵頭を後身に譲った。
**コノン2世猊下崩御 [#a3ad49e3]
&ref(52年教皇猊下崩御.jpg,nolink);
主の受肉より1352年の11月29日、第198代教皇コノン2世が崩御された。62歳であった。
教皇はヴァルデマ勝利王の4世孫にあたり、王の三従兄弟にあたる。
謹厳実直にして人当たりがよくキリスト教世界の再建に尽力を付くし、誰しもが不可能と思われた第十次十字軍を成功させた。
&ref(52年教皇猊下崩御2.jpg,nolink);
ポンティグニ司教のオツェーニン枢機卿が第199代教皇シンマクス2世として即位した。
カステーリャ王家であるド・イヴレ家の出身であり、ロンバルディア王アダルベルト2世の11世孫である。
この教皇は即位前より痴愚の誉れ高く、ラテン語の教養以前の問題としてスペイン語も満足に読み書きが出来なかったとされる。
そもそも、モントベリアルド男爵レナウドの唯一の男子であり世俗の道をゆく人物であったはずなのに司教となったのは、
親が扱いに困り修道院に入れたゆえであるともっぱらの噂であった。
**フィンランド戦役 [#zfa9b00f]
王は前の教皇よりエスターラント公位の請求者として認められていたが、現エスターラント公”泥酔公”エレンギスレは王の臣従要求を無視し続けていた。
1352年10月23日、王は詔を発し、エスターラント公位を回復すべく軍10000を動員した。
1353年1月19日にニーラントに上陸し、一万のうち8000をヘーメに向かわせた。
だが、冬のフィンランドは寒く、夜になると士卒は寒さに苦しみ、従軍していた聖アブラハム伯ヘルギが卒去した。
ヘルギ・アヴ・ロマはスヴェン人で、スヴェア戦役後に王を慕い王化した4人の将軍のうちの一人である。
その性格は敬神にして貞節、向上心の途切れるときがなかった。
王は自ら行ってその労苦を慰め、御自ら薪を燃やしあそばされて、暖を取らせたまわると、士卒らは綿に包まれたようだと喜びの心をあらわにし、王の御高配に深く感謝した。
&ref(53年フィンランド戦役.jpg,nolink);
7月17日、ヘーメに敵6300が襲来した。これに対するわが軍は一部をニーラントに戻したため5000のみであるので、
王は2500の増援を待って反撃することとした。
8月3日、増援の内1500が到着し、中央部から順に交戦が始まった。
5日には王の指揮する左翼も交戦状態になることが予想されたが、その戦力差は2倍であった。
王は陣を御高覧されている最中、初陣で震えている若い従卒をお励ましになれた。
&ref(53年フィンランド戦役2.jpg,nolink);
&ref(極地の側翼包囲.jpg,nolink);
右翼はヘルギ将軍の指揮していた軍であり、彼らは将軍の仇討とばかりに猛攻を重ね
見事な側翼包囲を決め、増援のうち1000は未だ戦場についていないうちに勝敗を決した。
この会戦の勝利により、エスターラント公は戦意を喪失し王の軍門に下った。
**第二次アンジュー帝国 [#l0f272b1]
シンマクス2世即位より遡ること3か月前、世界中の注目を集める出来事が起きた。
7月11日に崩御したエドワード3世の跡を継ぎイングランド王位を継承したイザベラがフランス王位をも継承したというのである。
&ref(52年第二次アンジュー帝国のこと.jpg,nolink);
&ref(52年第二次アンジュー帝国のこと2.jpg,nolink);
この統一王国の総兵力は35000を超え、イル=ハン国を抜き神聖ローマ帝国に次ぐ世界二位である。
彼女の5世の祖父ジョン王以来のアンジュー帝国の復活、いやそれ以上の栄光である。
だがイザベラは未だ独身であった。いったい誰を王配として迎えるのか、諸侯はこぞって我が子と婚姻させようとした。
イザベラは中々求婚に応えようとしなかった。彼女の望む女系結婚での縁談がなかったからかもしれない。
彼女が婚姻したのは年明けて1353年、相手はアラゴン王ペドロ4世の末弟フアンであった。
&ref(53年第二次アンジュー帝国のこと.jpg,nolink);
人々は大いに感嘆した。ペドロ王には男子はおらず、妻はすでに高齢である。
この二人から生まれる子は、男子であればイングランド・フランス・アラゴンの三つの王冠を兼ねるかもしれないのだ。
今や西方に大帝国が誕生しようとしていた!
…だが事実はそう甘くはなかった。
大帝国誕生を嫌う神聖ローマ帝国、イングランドの施政下に置かれることを嫌ったフランス貴族の陰謀があったのかもしれない。
イングランド・フランス女王イザベラは5月6日、不審な死を遂げた。
&ref(53年第二次アンジュー帝国のこと3.jpg,nolink);
イングランド王位は妹のジョアンが継いだが、それに反発する一部フランス貴族によりフランス王位はヘンリー三世の三従兄弟のヘンリーが継ぎ、
のちにヴァロワ家のフィリップが継承した。
&ref(54年フランス王位のゆくえ.jpg,nolink);
ヴァロワ家のジャンは2度即位し2度退位したが今度は戻ることは出来なかった。
**あるムスリムの女 [#vbd50619]
&ref(ネシバ1.jpg,nolink);
ニーダーロートリンゲン大公ジャンが褐色の肌に惚れたのか後妻としてムスリムの娘との婚姻を望んできた。
ニーダーロートリンゲン大公ジャンがデンマーク王ヴァルデマ陛下に畏んで申し上げます。
私は先日妻を亡くし、ただ呆然とすることしかできない日々を送ってまいりました。
その折貴殿の宮廷におられるネシバの才を聞き及び、彼女を後妻として迎えたいと思いました。
どうかこの老人に婚姻を認めていただけませんでしょうか。
&ref(ネシバ2.jpg,nolink);
ネシバも夫に先立たれており、断る理由もないので許可した。
※この人物はおそらくブラバント公ジャン3世。
1351年に大公位を創設した。
1354年2月20日、教皇庁の使者が入朝した。王に謁見して申すに、
&ref(顔教皇使.jpg,nolink); 近ごろの貴公の活躍ぶりは、教皇猊下の御高聴に達するところであり、猊下は貴公の振る舞いについて大層お褒めであらせられた。
&ref(顔教皇使.jpg,nolink); 貴公にとっても喜ばれ、感謝される事であるでしょう。よろしければぜひ猊下の御心に叶われるべく叙任権を猊下に還し奉りなされ
王は大いに怒り
&ref(顔王中.jpg,nolink); 余は先の教皇猊下の御世も、先々代の御世も叙任についてとやかく言われたことは無い。なぜ今更言うのか。
&ref(顔王中.jpg,nolink); そもそも、今上の教皇になにか便宜を図ってもらったことは無い。それなのになにか譲るようなことがあろうか。
とのたまわれ、使者を追い返した。
&ref(54年無能教皇の専横に立ち向かう.jpg,nolink);
教皇庁との関係は悪化したが、教皇庁は王の今までの功績を鑑み破門などはされなかった。
**ノルウェー調略 [#m79fec75]
第一王女マグダレーネは3月9日成人し、ノルウェー王マグヌスの弟ハーコンと結婚した。
女系結婚であり、王が将来ハーコンをノルウェー王に据えてエストリズセン家にノルウェー王位をも継承させようという心積りであることは誰の目にも明らかであった。
&ref(ハーコン.jpg,nolink);
だが、不安要素もあった。ハーコンは遺伝的に欠陥を抱えており病弱で、子が望めるか不明であった。
&ref(54年王女の婿のために祈る.jpg,nolink);
王はこの者のために誓願をされたが、
&ref(ハーコン死す.jpg,nolink);
1356年10月10日、ハーコンが卒去した。
王は驚かれたが、不審死ではないと知るとアスカロン伯ヴァルデマ密偵頭を参らせた。
&ref(若き密偵頭.jpg,nolink);
スリースヴィ公ヴァルデマ5世の第二子で、若くして密偵頭に任じられた
&ref(顔密偵頭.jpg,nolink); 陛下、心中お察しいたします。マグダレーネ殿下に於かれましてもその心痛は計り知れないものであるでしょう
&ref(顔王中.jpg,nolink); 何とも幸の薄い男であったな。しかし、悔やんでいる時ではない。ノルウェーの継承の問題だ。だれか適当な者はいないか
&ref(顔密偵頭.jpg,nolink); スウェーデン女王アウネスはノルウェー王マグヌス7世の父系の従姉弟に当たり、その御子クリストファは陛下の甥御に当たります。
&ref(顔密偵頭.jpg,nolink); ですがマグヌス7世は母系でノルウェー王位を継承したため、アウネス女王に継がせるにはマグヌス王の女系の者をすべて葬らねばなりません。
&ref(顔王中.jpg,nolink); それで、女系の姻族は幾らいるのだ
&ref(顔密偵頭.jpg,nolink); 8名おります。この者らすべてと王を含め9名を葬らないとアウネス陛下は継承候補にすら上がりません
&ref(マグヌス王の継承者.jpg,nolink);
&ref(顔王中.jpg,nolink); これだけの人数を除く事は難しいだろう。別の王位請求者を召してまたマグダレーネと結婚させるべきだろうか
&ref(顔密偵頭.jpg,nolink); 臣が思いますに、3つの理由をもって陛下は戦ではなく謀をもってノルウェーを手に入れるべきだと考えます。
&ref(顔密偵頭.jpg,nolink); まず第一に、王位請求者で適切な人物がいないこと。継承権を持つ者はすべて結婚しているか未だ幼少で適齢者がおりません。
&ref(顔密偵頭.jpg,nolink); 第二に、たとえ王位請求者を召し子女と結婚されたとしても、必ずしも御子がお生まれになるとは限らず、しかもそれが女子のみである可能性は非常に低いものです。
&ref(顔密偵頭.jpg,nolink); もし男子が生まれれば、三国の統一をかけて同族同士で争い合う凄惨な結果があるやもしれません。
&ref(顔密偵頭.jpg,nolink); 第三に、かつて陛下はフュン島、シェラン島を取り戻す際に、臣の父ヴァルデマに継承されるべく戦ではなく謀を尽くされました。
&ref(顔密偵頭.jpg,nolink); 戦であれば国土は荒れ、諸侯は疲弊し何百、何千もの兵が斃れたでしょうが、陛下は謀を用いることでドイツ人5名のみでお済ませになられました。
&ref(顔密偵頭.jpg,nolink); ノルウェーにおいても利と義、どちらから考えても謀を用いて解決すべきです。
&ref(顔王中.jpg,nolink); 良く申した。以後この件は汝に一任する。アウネスが継承するよう万事を尽くせ。
王は密偵によるノルウェーの調略を進めることとし、マグダレーネはポーランド王の次男カジミエルツが成人し次第と再婚する運びとなった。
このとき同時に、次女スィスィーリェはブルガリア皇太子モムチルと、三女イリザベトはイングランド王ギルバートと、四女ソフィーイは東ローマ皇太子イオアネスと、長男イーレクはハンガリー王女アデリンデと婚姻することを決められた。
*[[巻四 ヴァルデマ再興王 1355~1364>AAR/デンマーク年代記/巻四 ヴァルデマ再興王 1355~1364]] [#z6ad533a]
TIME:"2015-01-25 (日) 02:34:07"