[[AAR/スクショで見る十字軍物語/ミンダウガス家]]

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 ミンダウガス

*ミンダウガス [#xd09d88c]

1254年、建国直後のリトアニア王国の情勢は厳しい。
カトリック世界の仲間入りを果たしたとはいえ、隣のリヴォニア騎士団やポーランド王国は隙あらばリトアニアのプロヴィンスを掠め取ろうとしている。このため、ポーランド王国と婚姻関係を結ぶことは必須である。
また、ミンダウガスには二人の息子がいるが、いずれも異教徒である。このままミンダウガスが死に、息子が王位を継承すれば、リトアニアはふたたびカトリック世界から切り離されることになる。したがって早い内に息子をカトリックに改宗させる必要がある。
ところがVer.1.92になってから、臣下の改宗確率が厳しくなった。二人の息子はなかなか首を縦にふらない。贈り物をおくって関係改善した結果、次男は改宗したが、長男は異教のおしえに固執し続ける。暗殺も考え、実際別の世界ではそれもやったのだが、Opinionがさがってゲームにならなくなったので、称号をおくったり、土地をおくったり、なだめすかしてやっと改宗させる。
カトリックとしての立場をかためたあとで、さあ東方の方に目を向けると、ゴールデンオルドがすごく大きいです...。リトアニアとゴールデンオルドの間には緩衝地帯として何人かのロシア貴族がいる。できればこれを早いところ平らげてしまいたい。しかしロシア貴族はルリコビッチ家一族という血の紐帯で団結しているため、なかなか手がだせない。まず、リトアニア国内の結束をかため、封臣のOpinionをあげ、建物をBuildして、兵力を増強しなければならない。
リトアニア王国は8つのプロヴィンスからなっていて、ミンダウガスはそのうち6つを押さえている。しかし継承法が均等分割相続なので、代替わりする度に領土は細分化されていくだろう。これを回避するためには継承法を変更する必要があるが、継承法変更のためには王権の強化が必要だ。王権の強化には封臣の支持が必要である。ところが、この封臣の支持を得るというのが難しいのだ。
リトアニアには2つのプロヴィンスをもつ大貴族のポロツク公がいて、彼はミンダウガスの兄なのだが、なかなか王権の強化に賛成しない。彼が賛成しなければ過半数がとれず、王権強化ができない。このポロツク公はリトアニア王国の歴史でたびたび重要な役どころを担うので、どうか頭の片隅にとめておいてもらいたい。
リトアニアには2つのプロヴィンスをもつ大貴族のポロツク公がいて、彼はミンダウガスの甥なのだが、なかなか王権の強化に賛成しない。彼が賛成しなければ過半数がとれず、王権強化ができない。このポロツク公はリトアニア王国の歴史でたびたび重要な役どころを担うので、どうか頭の片隅にとめておいてもらいたい。

さて、かような次第で、王権の強化も継承法の変更もままならず、東にゴールデンオルドという強大な敵を抱えたまま、リトアニア国王ミンダウガスは1262年に死去した。老衰であった。
継承法が均等分割相続のため、ミンダウガスの領土は三人の息子たちに分割相続された。王の権威はますます低下し、三人の息子たちは互いにリトアニア王のクレームをもって、腹の底では、誰もが自分がリトアニア王だと考えていた。

*二度の内乱 [#g4214962]

内乱は不可避だった。正式なリトアニア王は長男だったが、次男と三男はそれぞれリトアニア王位を僭称した。
1264年、まず次男が反乱の火の手をあげ、ついで三男がポロツク公と同盟して反乱した。

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 家系図。ミンダウガスの息子たちとポロツク公。

血みどろの内乱は、しかし長男の勝利におわった。
次男と三男、そしてポロツク公は投獄された。のち次男は獄中で暗殺され、ポロツク公は公位を剥奪されて伯爵の身分におとされた。

リトアニア王国は安定したかのように見えた。
事実、この時期リトアニアの王権は強化され、王はさかんに外征してミンスク周辺のロシア貴族たちを服属させた。気をよくしたリトアニア王は、かつての叛徒たちを恩赦で釈放した。またスウェーデン王やデンマーク王との同盟も成功し、リトアニア王国はモンゴル人のこれ以上の西進を食い止める貴重な存在となった。

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 反乱

しかし1273年、王の弟たちとポロツク公がふたたび反乱の火の手をあげた。
同時期におこった農民反乱の鎮圧のため、王の兵力は疲弊していた。そのため王は傭兵を雇って反乱鎮圧を命じたが、この傭兵たちも俸給不足を理由に反乱を起こし、王の軍隊を野戦で壊滅させてしまった。

王は万事休した。

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 デンマーク王、援軍を派遣する

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 デンマーク王、反乱を鎮圧する

この危機を救ったのは、同盟国であったデンマーク王国とスウェーデン王国だった。
両王国はそれぞれ14000を超える兵力をリトアニアに派遣し、反乱した傭兵たちを粉砕して皆縛り首にした後、王の弟たちを野戦で破り、これを捕虜にしてしまった。ポロツク公もまた敗走した。

しかしデンマーク王とスウェーデン王は、リトアニアの内乱は均等分割相続が原因だと考えていた。
そこで彼らはリトアニアの継承法を年長者相続制に変更するよう、リトアニア王に圧力をかけた。この継承法変更は、ポロツク公の要求でもあった。年長者相続制にすれば、継承順位第一位は王の叔父であるポロツク公になるからだ。
そこで彼らはリトアニアの継承法を年長者相続制に変更するよう、リトアニア王に圧力をかけた。この継承法変更は、ポロツク公の要求でもあった。年長者相続制にすれば、継承順位第一位は王の従兄であるポロツク公になるからだ。
外国の軍隊の助けを借りて反乱を打ち破ったとはいえ、自前の軍隊をもたないリトアニア王はこの要求を受諾するしかなかった。王の弟たち、彼らは事実上ポロツク公の駒になっていたのだが、彼らはこれを機会に王を屠ってしまおうと考えた。反乱が終わり、デンマークとスウェーデンが撤退したあと、謀略が弟たちを中心にして企てられた。
反乱の翌年、1274年、リトアニア王は不審な事故によって死んだ。リトアニア王国を継承したのはポロツク公だった。

ミンダウガス没後の内乱の意義は二つある。
一つは、この反乱をつうじて、結局大貴族たるポロツク公がリトアニア王国の実権を掌握したこと。
もう一つは、継承法が均等相続制から年長者相続制に変更されたことで、結果的にリトアニア王国の権力基盤が盤石になったこと。

(つづく)

TIME:"2013-04-23 (火) 22:52:43"

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