[[AAR/スクショで見る十字軍物語/バグラトゥニ家]] #ref(26.jpg,nolink) イオアネス3世。在位1227-1272。 バグラトゥニ朝ビザンツ帝国の皇帝イオアネス3世。 私生児アレクシオスとギオルギ1世の帝国を受け継ぎ、いくたの対外戦争に勝利して「GREAT」の称号を得た。 #ref(27.jpg,nolink) 13世紀中頃の、イオアネス3世の帝国。 アレクシオス4世、ギオルギ1世、イオアネス3世の三代のあいだに、帝国は躍進した。 バルカン半島から黒海を囲むように、アナトリア半島、カフカース山脈にのびた勢力図に注目。 また、イオアネス3世はイェルサレム王国に遠征し、これを支配下に置いた。 さらにイオアネス3世の息子であるマミアは、シチリア王位を戴冠し、シチリア王になった。 *皇太子イオアネス [#j9f30606] 私生児アレクシオスが内乱に勝利し、ビザンツ帝位を戴冠したとき、イオアネスの父ギオルギは皇太子になった。 これによってギオルギの長男であるイオアネスがこの帝国を継承することも確定した。 イオアネスは父ギオルギの宮廷でギリシャ正教徒の家庭教師たちから帝王学を学んだ。 しかし彼は勉強よりも遊びが好きで、同世代の子供たちにまじって戦争ごっこや探検ごっこをすることを好んだ。 成人したイオアネスは父の対外戦争に数多く従軍して、たくさんの武功をたてた。 #ref(28.jpg,nolink) クリミア戦役。 クリミア戦役。 北方のルーシ王に圧迫され、衰退していくクマン族に対してギオルギ1世が仕掛けた戦争。 ビザンツ帝国軍はクマン族をさんざんに打ち破り、ウクライナ平原を割譲させた。 イオアネスもまた一軍を率いて参加し、活躍した。 のちクリミアにはギオルギ1世の弟アンドロニク((彼の妻はセルビア女王であった。))がクリミア王国を建国、アンドロニク1世として即位した。 #ref(29.jpg,nolink) セルビア戦役。 セルビア戦役。 私生児アレクシオスの次男であり、ギオルギ1世の弟だったアンドロニクは、セルビアの王女を娶っている。 これはタマラ女王の近隣外交政策の一環であったが、ギオルギ1世は血縁関係を利用して、この王女にセルビア王位がいくように画策した。(そうすれば、バグラトゥニ家とセルビア王家の婚姻関係が強化され、両国は同盟関係になるからだ。) ギオルギ1世は、コンスタンチノーポリ大主教をうごかしてセルビア王を破門させ、王の退位を求めてセルビアに侵攻した。 イオアネスは叔父アンドロニクとともに軍を率いてセルビア軍を打ち破り、城を開城させ、義妹をセルビア王とする条約を相手方に呑ませて、凱旋した。 #ref(30.jpg,nolink) イタリア戦役。 イタリア戦役。 イオアネスは父ギオルギ1世のはからいで、シチリア王国の王女と結婚した。 これが意味するところは女王タマラの時代から続く伝統の婚姻外交であったが、シチリアでノルマン貴族たちの反乱がおこると、婚姻をつうじた侵略外交に性格が変化した。 イオアネスとシチリア王女のあいだに子供が生まれると((マミアと名付けられた。))、皇帝ギオルギ1世は兵をあげて南イタリアに上陸し、叛乱するノルマン貴族たちと同盟してシチリア王を退位させた。 こうしてイオアネスとシチリア王女との子供がシチリア王位を相続し、バグラトゥニ朝シチリア王国が成立した。 *皇帝イオアネス3世 [#mc143064] ギオルギ1世の没後、イオアネスはイオアネス3世としてビザンツ帝位を戴冠した(1227年)。 イオアネスは父の事業を受け継ぎ、母の婚姻政策の果実をうけとりながら、順調に勢力を拡大した。 #ref(31.jpg,nolink) ブルガリア王位戴冠。 女王タマルの外交政策によって、ギオルギ1世はブルガリア王女と結婚していた。そのためイオアネスはブルガリア王国の継承順位第一位だった。 1236年、老ブルガリア王が崩御すると、王位はブルガリア王女の息子であるイオアネスのもとに転がり込んだ。 ビザンツ帝国とブルガリア王国の合邦は、帝国の勢力がドナウ河南岸まで及ぶことを意味した。 ドナウ河の向こう側にはテンプル騎士団の領土があり、ラテンの異端たちが剣を研いで屹立していた。そしてそのさらに向こうには、ハンガリー王が偉大な王国を打ち立てていた。 #ref(32.jpg,nolink) イェルサレム占領。 ムスリムの海のなかに孤立していたイェルサレム王国は、婚姻政策によってビザンツ帝国と同盟をむすぼうとした。 イェルサレム王とイオアネス3世の妹が結婚し、両国は晴れて同盟した。 しかしその息子であるイェルサレム王太子はグルジアの伯領をもらいうけていたが、カトリック貴族たちにそそのかされて叛乱をおこした。 イオアネス3世はこの王太子を征討したが、王太子はこの戦争で敗死し、その相続者であるイェルサレム王が叛乱を継承するという奇妙な現象がおこった。 イオアネス3世はこれはイェルサレム王国を従属させる好機だと判断し、イェルサレムに60000の軍勢を派遣。これを屈服させた。 イェルサレム王は獄死し、王国の貴族たちは皆カトリックから正教に改宗した。 #ref(33.jpg,nolink) アフリカ遠征。 バグラトゥニ朝シチリア王国の初代国王マミア1世は、元服して親政を開始すると同時にアフリカのイスラム王朝にたいする十字軍を敢行した。 マミア1世はチュニス、トリポリ、そしてアルジャザーイルの一部を占領し、ここにキリスト教を宣布したが、現地の疫病に感染して倒れ、没した。 シチリア王国は彼の嫡男だったマミア2世が継いだ。マミア2世はイタリアのノルマン貴族たちの宮廷で育てられたためにイタリア文化をもつようになった。 彼はのち、イオアネス3世の崩御とともにビザンツ皇帝となるが、イタリア人皇帝の誕生に多くのギリシャ人貴族やグルジア人貴族は快く思わず、内乱の火種となった。 *モンゴルの侵略 [#b8bb47a6] #ref(a1.jpg,nolink) 13世紀中頃の東地中海。 もう一度、13世紀中頃の東地中海の政治地図を確認しよう。 ビザンツ帝国はギリシャからブルガリア、セルビア、クリミア、グルジア、アナトリア、イェルサレムと勢力を拡大している。 南にはアユビット朝エジプトがましましているが、彼らは慎重なために容易にビザンツには戦争を仕掛けてこない。このためこの時期の東地中海は安定していた。 しかしロシアでは変化が訪れていた。 リュリコヴィチ家によるルーシ王国は、東からの侵略者、キプチャクハンとイルハンによってさんざんに打ちのめされていた。 キプチャクハンとイルハンはそれぞれロシアとペルシャを征服し、その進路をさらに西へとった。 西にはビザンツ帝国が待ち受けていた。 [[AAR/スクショで見る十字軍物語/バグラトゥニ家/イオアネス3世 vsモンゴル]] TIME:"2012-10-12 (金) 20:38:09"