[[AAR/カプアの女たち]]

*第2章 シシリー王ラドルフ『大王』とその女たち(1142~1190)[#zc083a23]
*1 自己紹介 [#zc083a23]
 はじめまして。わたくしが第2章の語り手,シシリー王ラドルフ1世の王妃エディス・ダンバーですわ。
 簡単に自己紹介などさせて頂きますと,わたくしは1123年10月29日生まれ,祖父はテビートビール伯爵を務めておりましたが,父は領土も持たない一介の廷臣に過ぎませんでした。
 私が父とともにシシリー王の宮廷に招かれたのは,1138年3月21日のことです。最初は父の外交能力を買われての招待だと思ったのですが,招待直後にリシャール敬虔王自らが私の教育係となるなど,どうやら主たる目的は私であることに気が付きました。
 父は,好色で知られるリシャール敬虔王のこと,私を愛人にするつもりではないかと怖れたのですが,陛下のおっしゃるには,私を陛下の孫であるラドルフ殿下に嫁がせたいということでした。私は,とてもそのような家柄ではないと固辞したのですが,陛下は私を「家柄は低くとも,これほどの管理能力(管理25)を誇る才女はなかなかいない。天才で慈善,勤勉,忍耐,公正といった素晴らしい美徳を兼ね備え,欠点らしい欠点もない。これほどシシリーの王妃に相応しい女性がいるだろうか」と絶賛され,その御意を曲げることはありませんでした。

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 即位直後のわたくしですわ。

 ところが,ラドルフ殿下が成人に達しても,私の結婚はなかなか実現しませんでした。殿下のお父上であるトラパニ伯爵ヨルダン殿下は,私の能力は認めるものの,ラドルフ殿下は仮にもシシリー王家の一員なのだからそれに相応しい家柄の娘を娶るべきだと仰り,ラドルフ殿下と私の結婚を承諾なされなかったのでございます。。
 ラドルフ殿下の結婚を決める権限があるのは,リシャール王ではなくヨルダン殿下であり,まさかヨルダン殿下の称号をすべて剥奪するというのも現実的ではないため,陛下も強制はできませんでした。そして,ヨルダン殿下が亡くなりラドルフ殿下がトラパニ伯爵となった後も,残念なことにラドルフ殿下ご自身がお父上と同様の考えであったため,相変わらず私の結婚は実現しなかったのですが,そのくらいで引き下がるリシャール王陛下ではありませんでした。
 1142年11月15日,リシャール王陛下は突然の肺炎でお亡くなりになりましたが,死に臨んだ陛下は,次のような遺言を発せられたのです。
「余が神の下に召された後は,トラパニ伯爵ラドルフをシシリー王に,この上なく賢明なるレディ・エディス・ダンパーをシシリーの王妃とせよ。この遺言は,余の死後直ちに王国の内外に公表せよ」
 そして,リシャール王陛下死去の報を聞いてカプアの宮廷に駆けつけたラドルフ殿下を待っていたのは,殿下の即位式兼私との結婚式を既に準備万端で整えている廷臣達でした。私との結婚に難色を示されていたラドルフ殿下も,これでは結婚を承諾せざるを得ませんでした。
 このように,リシャール王陛下の強いご意向により,渋々私を王妃として認めた新王ラドルフ1世陛下でしたが,結婚した後は,私の治世と美貌にもうメロメロ。生涯にわたって他の女に関心を示すようなこともなく,わたくしが国政の実権を握ることになりました。わたくしの父エルメンリックも,わたくしの力でブルゴス伯爵兼宰相に抜擢いたしましたわ。

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 即位直後の陛下。まあ無能ではありませんけど,わたくしには及びませんわね。

*2 最初の目標 [#zc083a23]
「愛しい我が妃よ,余の治世はまず何を目標とすべきであろうか。まずは子を儲けることかのう」
「子など,特に望まなくてもいずれできますわ。それよりも陛下は,おじいさまと違って生まれながらの王族。それに相応しい業績を上げなければなりませぬ。特に,身分の低いわたくしとの結婚で威信が80も下がってしまいましたから,早急に威信を回復させる必要がございます」
「うむ,そうしよう。愛しい我が妃よ(こう呼び掛けないと怒られるんだよなあ・・・)」
「・・・何か申しましたか,陛下?」
「い,いや,何でもないぞ,愛しい我が妃よ」

 というわけで,陛下が最初に選んだ野心は「人々に称賛される」。最初はイスラム勢力との戦いで威信を高めることに尽力し,1147年1月3日には,コルドバ太守領からバレンシア,カステリョン及びデニアの各州を獲得いたしました。そして,翌1148年にはサイレナイカ太守領を攻撃したのですが・・・。

「愛しい我が妃よ,サイレナイカ全土を占領しても戦勝点が50%台しか取れないのであるが・・・?」
「・・・陛下,開戦理由が間違っておりますわ。陛下が選んだのは『サイレナイカ聖戦』ではなく『トリポリタニア聖戦』ですわ」
「むう,どうしよう,愛しい我が妃よ」
「仕方がありません,これからでもトリポリタニアを攻撃するしかありませんわ。幸い,敵に抵抗する余力は特にないようですし」

 こんなハプニングもありましたが,1148年10月4日には無事にジェルバ,レプティス・マグナ,シルテを獲得いたしました。そして1149年3月13日のこと。

「よし,今度はベネヴェント公爵領を攻撃して,未回収のシチリアを制覇してみせるぞ!」
「お待ち下さいませ,陛下。その前に,もう一度彼に臣従を促してはいかがでしょう」
「臣従の提案か? しかし,それは祖父がいくら交渉しても駄目だったが・・・。おお,あっさり承諾!?」
「おそらく,お祖父様がメッシーナを奪ったのが利いて,わが国と戦っても勝ち目はないと悟ったのですわ」

 こうして,ベネヴェント公爵トゥロール3世がわが国に臣従。シチリアの旧王家であるハウテヴィーユ家(日本語版での表記ですが,日本ではむしろ『オートヴィル家』と呼ぶのが一般的のようですわね)は,以後わが国の封臣として栄える道を選択したのでございます。
 「未回収のシチリア」を戦わずして平定することに成功した夫は,1151年5月15日には威信が1000に到達して『大王』と呼ばれるようになりました。そして同年6月27日にはマウレタニア王国からカビィリア地方を奪い,同年12月11日にアフリカ王を名乗りました。
 1153年にはマウレタニアからの反撃を受けるも,あっさり撃退。1157年5月12日にはタラゴナを,1158年11月18日にはジェノヴァとニースを,1159年11月8日にはサイレナイカ地方を,1160年11月18日にはフランスのトゥールーズ,カルカソンヌ,及びメルグイユを獲得。そして1162年5月2日には,マウレタニア王国の飛び地となっていたトリポリタニアを征服し,アフリカ全土の平定に成功したのでございます。
 ですが,その後の勢力拡大は,事情があってしばらく足踏みいたしました。

「陛下,教皇様がイェルサレム十字軍を発令いたしました」
「イェルサレム? あそこはたしか神聖ローマ帝国(HRE)の支配下にあったはずであろう」
「一部の州がイスラム勢力に奪われたらしく,奪回せよとのことです」
「参加するの嫌だなあ。いくら活躍しても,奪回した領土はすべてHREのものになっちゃうし」
「それでも,参加すれば威信と信仰が大幅に増えますし,『十字軍戦士』にもなれますわ。行ってらっしゃいませ,陛下」

 こうして,陛下はしぶしぶながら第三次十字軍に参加し,1165年1月12日には抜群の戦功第一となって帰ってきましたが,領土は全く得られなかったのでございます。そして十字軍から帰ってくると・・・。

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「陛下,またマウレタニア王国が宣戦布告してきました」
「懲りない異教徒め! 前回はジェノヴァへの要求権捏造で資金不足のところを,今回は十字軍帰りで兵力不足のところを狙ってくるとは,何という卑劣な奴らだ」
「まあ,勝てば賠償金が黄金300くらい入ってきますし,前回もそれで資金不足から脱しましたわ。ここは異教徒からの財政援助だと思うことにしましょう。行ってらっしゃいませ,陛下」

 ちなみに,以下がアフリカ平定時点におけるシシリーの領土でございます。
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「シチリアとアフリカの地図はきれいになりましたけど,北の方はぐちゃぐちゃですわね」
「うむ。北の方は神聖ローマ帝国(HRE)が邪魔になって,思うように領土拡大ができん。フランスには勝てるようになったが,さすがに神聖ローマ帝国に勝てる気はせん」
「仕方がありませんわ。現在の神聖ローマ帝国は大王の異名を持つステファン1世が治めていますが,既に60近いと聞きます。かの者が亡くなれば,内紛が起こってチャンスが訪れるかも知れませんわ」
「うむ,とりあえずは勝てるところと戦って,HREとの戦いに備えて少しでも領土を広げよう」

*3 ラドルフ大王の内政 [#zc083a23]
***3-1 所得倍増計画 [#ob960176]
 ここでちょっと話題を変えて,陛下の内政についてお話いたしましょう。
 アフリカ平定を達成した頃,陛下はこんなことをおっしゃいました。
「我が愛する妃よ,余は「所得倍増計画」を実行するぞ。今,わが国の収入は月間50ほど,これを今後50年で2倍にするのだ!」
 ちなみに,陛下とわたくしの力で保有できる直轄州は14。立地と技術の発達度,開発の余地(州を建設する空きスロットの数)などを総合的に考慮した結果,直轄地としたのはイタリア南部のカプア,ナポリ,サレルノとタラント,シチリア島のパレルモ,メッシーナ,シラクサ,トラパニとギルゲンティ,北アフリカのチュニスとビゼルト,イタリア北部のジェノヴァとアンコーナ(ヴァネツィア獲得後はヴェネツィアに変更),そしてスペインのバレンシアでした。
「どうやって達成するんですの? 直轄州はもうこれ以上増やせませんわよ」
「まず,直轄州の空きスロットに片っ端から都市を建てる。そして,家臣達からも10%の封建税を取れば,領土が増える度に税収も上がる。月収100になれば,高価な施設も建て放題になるであろう」
「まあ。・・・お好きになさいませ」
 わたくしは最初呆れておりましたが,陛下はこの目標に基づき,在世中にアセラ市(カプア),サルノ市(サレルノ),トレグロタ市(メッシーナ),カッサノ市(タラント),アルカルノ市(トラパニ),モンタレグロ市(ギルゲンティ)と6つの都市を建設されたのでございます。家臣からの封建税についても,特に何の問題もなく承認されました。

***3-2 カイルワーン女伯爵アドリーズ [#ob960176]
 内政,外政のいずれにおいても,ほぼ順調そのものと言って良かった陛下の治世において,大きな悩み事のひとつが家臣の反抗でした。特に陛下を悩ませたのが,陛下の姪にあたるカイルワーン女伯爵アドリーズ・ドレンゴットです。
 アドリーズは,北アフリカのカイルワーン1州しか持たない女伯爵でしたが,同族のマフディヤ伯爵と結婚して息子を儲け,将来的に両家は併合される見込みとなりましたが,アドリーズはそれだけでは満足せず,執拗に陛下の権威をおとしめる陰謀を企てたのでございます。
 最初に陰謀が発覚したときは,たかが女の戯れ言という感じで,陛下も陰謀を止めるよう説得しただけで穏便に済ませようとしたのですが,ほどなく二度目の陰謀が発覚。共犯者の夫と一緒に投獄されました。
 陛下も,最初は「夫婦とも一生獄につないでおけ」と仰っていたのですが,仮にもドレンゴットの一族が何年も獄に繋がれているというのは人聞きが悪く,また二人とも獄中で「充足感」を感じ反省しているということで,夫婦共に釈放されました。
 夫の方はその後おとなしくしていたようなのですが,アドリーズの方はその後三度目の陰謀が発覚。再び獄に繋がれました。

「あの女,どうしてくれようか。三度にわたり謀反の陰謀を企てた以上,さすがに追放なり処刑なりしてやらなければ気が済まぬ」
「しかし陛下,陰謀を企てたというだけで全称号を剥奪し追放というのは,家臣達に暴君とみなされ評判が大きく下がりますわ。このまま獄に繋いでおけばよろしいのでは?」
「しかしだ,我が愛する妃よ。このままあの女が獄中で死んだとしても,今度はその息子がマフディヤとカイルワーンを手に入れ余に刃向かってくる。仮に,その息子が何かの方法で北アフリカの州をもう1つ手に入れてみよ。そうしたら,奴らは勝手にトゥニス公爵を名乗り,余の直轄領であるチュニスとビゼルトを狙ってくるに違いない。これを放置しておけば末代までの憂いになるやも知れぬ」

 トゥニス公爵領は,北アフリカのチュニス,ビゼルト,カイルワーン,マフディヤ,メジェルダ及びゲーブの6州から成っており,リシャール敬虔王の時代に全土を征服していましたが,国王が自ら3つ以上の公爵位を兼ねると家臣の反発が強いという事情から,公爵位は敢えて空位とされていました。陛下は,その爵位を勝手に創設されるというのが非常に気に食わなかったのです。

「それでは,どうされるのですか?」
「こうなったら,余は暴君と呼ばれても構わぬ。子孫の憂いを永遠に絶つため,あの女の称号と全財産を剥奪し,国外追放にしてくれる!」

 こうして,アドリーズは国外追放の身となりましたが,彼女は自らの身と引換えに,陛下の全家臣に対する評判を20ポイントも引き下げるという偉業を成し遂げたのでございます。ちなみに,空位となったカイルワーン伯爵には陛下とわたくしの次男シルヴェステルが封じられました。
 アドリーズのほか,フィレンツェ女伯爵のパオラ・プレミスリドも二度にわたって陛下の権威をおとしめる陰謀を企てており,領土拡大に邁進する陛下を苛立たせたのでございます。

***3-3 後継者対策 [#ob960176]
 アドリーズの問題と並んで,陛下とわたくしを悩ませたのは後継者問題でございます。
 陛下にとって,というよりはドレンゴット家にとって,領土拡大以上に重要な課題は優秀な子孫を残すことでした。歴代の王妃も家柄はほとんど無視して「天才」か「明敏」の特性を持つ才女を娶り,何とか「天才」の血をドレンゴットの宗家に入れたいというのが悲願だったのでございます。
 陛下とわたくしの間には,長男ラドルフ,次男シルヴェステル,三男ジファール,四男ファラモンという4人の息子がおりましたが,このうち三男のジファールは容貌が非常に魅力的だということで陛下に愛され,一時は後継者候補に挙げられたこともございます。
 しかし,成長するにつれジファールはいまいち素質に欠けることが明らかになり,結局世継ぎは長男のラドルフに決まりました。ラドルフは,アル・シャザイール伯爵,後にはアンコーナ公爵の位を与えられ後継者に指名されるとともに,ビザンティンのサモス公家出身であるテオドラ・アルギロスを妻に迎え,天才出現の望みを次の世代に賭けたのでございます。
 ちなみに,テオドラ・アルギロスは,わたくしと同様幼少期から嫁候補として両親もろともスカウトされ,陛下自らの手で英才教育を施された,管理25を誇る才女です。もはやシシリーの王妃は「選ぶ」時代ではなく,「育てる」時代に入っていると陛下も仰っていましたわ。
 1166年2月9日,テオドラは双子の男児を出産し,それぞれユグ,ラドルフと名付けられましたが,二人とも特に優れた資質は持っていませんでした。長男ラドルフとテオドラにはその後しばらく子がなく,陛下もわたくしも一時は「結局平凡なユグに継がせるしかないのか」と諦めかけていました。
 しかし1175年,テオドラが三男オスモンを出産すると事態は急変しました。オスモンは,生まれつき誰が見ても素晴らしい「屈強」な体格を備えていたのです。

「屈強とはすばらしい。オスモンは良い子に育ちそうだ」
「長男に生まれなかったのが残念でしたわね(ユグとラドルフが生まれたときは,粘って30回近くもリロードして結局駄目だったのに,なぜ三男で優れた子が生まれるのでしょうか。神様も非情な真似をなさいますわ)」
「いや,まだ諦めることはない。将来にわたって王家の血を改良するためにも,是非オスモンにシシリーの王位を継がせたいものだ」
「陛下,オスモンにはユグ,ラドルフという二人の兄がございますわ。オスモンに跡を継がせるには,二人とも僧籍に入れるか,若しくは暗殺するしかありませんわ。特に優れたところはなくても,二人はわたくしたちにとって大事な孫ですわ」
「さすがに暗殺は余も躊躇われるが,僧籍に入れれば問題なかろう」
「しかし,オスモンの教育が上手くいかなかったらどうなさいます? ジファールの二の舞になるかもしれませんわよ」
「では,二人とも成人するまで様子を見て,出来が悪かったら僧籍に入れることにしよう」

 残念なことに,陛下のお言葉は現実のものとなりました。1182年12月13日,陛下がムルシアを征服されたとき,後継者候補として陛下のお眼鏡に敵わなかったユグとラドルフの兄弟は司祭の職を与えられ,継承権を失ったのでございます。
 しかも,二人とも若く未婚のままでの司祭任命であり,長男のユグは落胆のためかその後酒浸りになってしまいましたが,次男のラドルフは同性愛という忌むべき性癖を身に付けており,司祭に任命されると「これで好きなだけ美少年に手を出せるぞ」と,かえって喜んでいたと聞き及んでおります。
 同性愛といえば,わたくしの四男でボヘミアのブルノ女伯爵と結婚したファラモンにも同じ性癖がございました。今後ドレンゴットの血筋に同性愛者が増えるとしたら,王家の将来に災いをもたらしかねない忌むべき兆候でございます。

*4 ノルマン・インベーション [#zc083a23]
***4-1 いまや年中行事と化した征服戦争 [#ob960176]
 マウレタニアからの攻撃を斥けると,やがて陛下による征服戦争が再開されました。主な相手は弱体化したフランスとマウレタニアで,10年の停戦期間が明けるか,敵が代替わりするとすぐに宣戦布告して領土を奪うというパターンの繰り返しになりました。
 ちなみに,1167年以降の戦果を箇条書きにすると,このような感じになります。
1167年 7月19日  カスティーリャ太守領からフォワを奪取
1168年 6月17日  家臣のトゥルルース公がナルボンヌを奪取
      8月 9日  フランスからボルドー,アジャン,ベリゴール,アングレームを奪取
1169年 6月17日  ディオクレア公爵領からラグーサ,ゼータを奪取
1172年 9月12日  マウレタニア王国からアルゲル地方6州を奪取
1173年 7月 7日  トゥラセシア公爵領からエピエロス,アルタ,ケファロニア,コンスタンティアを奪取
1174年 9月 1日  コルドバ太守領を滅ぼしコルドバの3州を奪取
1176年 6月 1日  アドリアノポリス公爵領からアドリアノポリス,フィリッポポリスを奪取
      6月 7日  アドリアノポリス公に公爵位を簒奪され,アドリアノポリスを失う
1177年11月24日  ヴェネツィア共和国を滅ぼし,ヴェネツィアを奪取
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 征服後,ヴェネツィア州は王国の直轄支配下に置かれました。なお,翌1178年の1月28日には,ヴェネツィアにあるパレストリナ男爵領の女伯爵とその子供達が全員「事故死」するという変事があり,その後はパレストリナがヴェネツィアの州都となりましたが,勿論偶然ですわ。
1178年12月17日  フランスからアルマニャック,ベアルンを奪取
1179年 2月23日  アキテーヌ王を名乗る
     10月30日  ビザンティン帝国からアカイア,メトネを奪取
1181年 6月 9日  ロードス伯爵からモネンヴェシアを奪取
1182年12月13日  マウレタニア王国からムルシア,アルマンサを奪取
1183年11月 4日  シエナ伯爵からオルヴィエートを奪取
1185年 6月 4日  神聖ローマ帝国からピサ,ピオンピーノを奪取
      8月 7日  神聖ローマ帝国から上ブルゴーニュ公爵領を独立させる
1186年 9月11日  神聖ローマ帝国からオルベテッロを奪取
     10月25日  ベイルート女伯爵からウルビーノを奪取
1189年 5月 7日  フランスからダックスを奪取
1190年 1月13日  ビザンティン帝国からアテネ,ヘラス,デメトリアスを奪取

***4-2 ビザンティン帝国の内紛とギリシャ侵攻 [#ob960176]
 以上のうち,ビザンティン帝国及び神聖ローマ帝国との戦いについては,若干経緯をご説明いたします。
 ビザンティン帝国では,大王の異名を取った皇帝ミカエル8世(在位1093~1165年)及びその跡を継いだマカリオス1世(在位1165~1170年)の時代までは栄華を誇っておりましたが,その子アンドロニコス1世の時代になると,皇帝が弟のエデッサ公を処刑するなどして人望を失い,皇帝の叔父にあたるアビュドス伯爵ミカエルが反乱を起こすとこれに多くの家臣が追随し,ビザンティンは長きにわたる内戦状態に陥ったのでございます。

「おや? ビザンティンで内戦が起きておるな」
「はい,陛下。現皇帝のアンドロニコス1世も親族殺しの悪名を背負い,帝位を争っているアビュドス伯ミカエルも破門の身で人望がございません。今ならギリシャの地を切り取るチャンスかも知れませんわ」
「うむ,ビザンティンとは長らく平穏な関係が続いていたが,思えば我らの先祖が南イタリアに移住したとき,執拗に我らの邪魔をしたのはビザンティン帝国である。この機会を逃さず,直ちにビザンティンの称号要求権者を招き,アフリカあたりに適当な領地を与えて,ビザンティン帝国に攻め込もう」

 こうして,1173年にエピロス侵攻が実現いたしました。最初は反乱勢力への侵攻でしたが,そのうちビザンティン帝国自体も長期の内紛で弱体化し,さしたる軍勢を動員できないことが分かると,もはや公然とビザンティン帝国の領土を侵略するようになったのでございます。

***4-3 神聖ローマ帝国との対決 [#ob960176]
 ヨーロッパにおけるもう1つの大国,神聖ローマ帝国とも長い間平穏な関係が続いておりましたが,それも1185年に終わりを告げました。

「陛下,HREで内乱が発生しております。どうやら,『大王』ステファン1世が83歳で身罷ったようですわ」
「そうか,ようやく死んだか,あの老いぼれめ!」

 ステファン1世が予想外に長生きし,一時は陛下も在世中の神聖ローマ帝国侵攻を半ば断念されていたのですが,この報告を受けた後の決断は迅速でした。
 海軍を活かした電撃的な軍事作戦でピサ公爵領を奪い,しかも和平成立後も軍を撤退させず,上ブルゴーニュ公爵領の独立を要求してHREの領地に強襲をかけ続けたのでございます。
(シシリー軍の劫略を受けるHRE領アラゴン)
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 そして,ステファン1世の跡を継いだ神聖ローマ皇帝テオドリヒ1世は在位わずか1年で亡くなり,テオドリヒ1世には継承権のない非嫡出子が1人いるだけだったため,帝位は無力な公爵の手に渡り,皇帝に対する反乱も相次ぎました。HREはあっという間に,ヨーロッパ第一の強国から内憂外患に苦しむ二流国へ転落したのでございます。
 ヨーロッパの二大帝国でさえもシシリー王国を阻む力を失い,今や陛下率いるシシリー王国の軍勢は,好き放題に地中海沿岸の各地を侵略してまわるようになりました。他国の人々は,これをNorman Invation(ノルマン人の侵略)と呼び,陛下を大いに恐れるようになったのでございます。

*5 最期 [#zc083a23]
 1142年の即位以来,長期間にわたってシシリー王国を統治し,王国の発展に尽くしてこられた陛下でしたが,その死はあまりにも突然でした。
 アテネ征服から帰還し,順調に育っている孫オスモンと,その嫁候補として迎えた少女テオドラ(奇しくもわたくしと同名でございます)に囲まれて幸せに過ごされていた陛下でしたが,1190年3月15日,65歳でその生涯を閉じられたのでございます。医師の見立てによれば,死因は高齢による自然死ということでございました。シシリーの王位は,長男ラドルフ2世に引き継がれました。
 アテネ征服から帰還し,順調に育っている孫オスモンと,その嫁候補として迎えた少女テオドラ・マクレンボリテス(ギリシャ出身で,奇しくも息子の嫁と同名でございます)に囲まれて幸せに過ごされていた陛下でしたが,1190年3月15日,65歳でその生涯を閉じられたのでございます。医師の見立てによれば,死因は高齢による自然死ということでございました。シシリーの王位は,長男ラドルフ2世に引き継がれました。
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 ラドルフ1世陛下は,それほど突出した能力の持ち主ではございませんでしたが,その器量でシシリーを巧みに治め,巧みに多くの領土を切り取った,まさに大王の名に恥じない君主でございました。わたくしも王妃になった当初は,これでシシリーの実権はわたくしのものだなどと自惚れておりましたが,今になって思えば,むしろわたくしの方が陛下の広い度量に甘え,陛下の手のひらの上で踊っていただけなのかも知れません。

(参考:ラドルフ2世継承時のシシリー王国)
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 わたくし自身はまだ存命でございますが,もうわたくしのような老婆の出番はこのくらいにして,続くわが息子・ラドルフ2世の治世について語るのは,賢明なる新王妃テオドラ・アルギロスの手に委ねるものといたしましょう。

TIME:"2012-09-15 (土) 13:14:06"

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