[[AAR/アルプス騎士道物語]]

*三代目当主 ベルトホルト・フォン・レンツブルク [#q9c8cdb1]
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> 上ブルゴーニュ公ルドルフ4世の長男として生まれる。母アデライダはモナコ男爵であるモナコ家の出身で、当主アルデリコは弟にあたる。わずか3歳で上ブルゴーニュ公爵領と3つの伯爵領を継承した。3歳という年齢は奇しくも、父ルドルフが謀殺したといわれる上ブルゴーニュ公フィリップが即位した年齢と同じであった。
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**本紀 [#o6d4c2dd]
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> ルドルフの遺言に従い、宰相ノーベルト・フォン・メッツが摂政として公爵領の経営に当たることになった。メッツ家は元はロートリンゲンの貴族で、メッツ伯を世襲した家柄であったが、ノーベルトの父の代に没落してヌーシャテル伯の廷臣となっていた。
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> 帝国では1122年にロタール・ウード皇帝が37歳で病死して、第二皇子で12歳のジークフリートが皇帝に選出された。この頃には帝国内の独立運動も鎮静化し、イベリア半島の情勢も膠着していたことは、幼い君主を戴いた帝国や上ブルゴーニュ公爵領にとって幸いだったといえる。摂政ノーベルトは内政開発に重点を置いた政策をとり、経済力および軍事力の増強に努めた。
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> 1128年にノーベルトが病死するとベルン市長エックハルトが後任にあたるが、政策は引き継がれた。そして1130年、ベルトホルトが成年に達し親政を開始した。
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>&ref(113008_1.jpg,nolink);
&size(12){''やっと俺の出番だ''};
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> ベルトホルトの親政はまず結婚することから始まった。一族にはもはやベルトホルトの他に男系男子はいなくなっていたのだ(初代ウルリヒの四男ギゼルベルトの娘でブルゴーニュ女伯のウルリーケは婿養子をとっており、その子供に男子は存在した)。
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&size(12){''レンツブルク一族は俺から再スタートするのだ''};
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> 密偵頭に命じ諸国を調査させた結果、エテルレダ・ゴドウィンという女性が候補に挙がった。彼女はイングランドの先王マグナスの王女で、カスティーリャの王子に嫁いだものの、男子をひとり産んだだけで夫が戦死したために寡婦となっていた。血筋も申し分なく、ベルトホルトは「既に男子がいるということは、男子を産めるということだ」と言うと、さっそく呼び寄せて婚礼を挙げた。
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>&ref(113208.jpg,nolink);
&size(12){''中古とか言うなよ''};
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> ベルトホルトとエテルレダはとても仲睦まじく、男子3人女子1人の子をもうけた。ベルトホルトはレンツブルク家の血統を繁栄させるため、全ての男子に領邦を与えようと考えていたという。領内に新たな城を築き、記録に残るところでは3つの男爵領を新設している。
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> 一方、帝国であるが、この頃は成年したジークフリート皇帝のもとでイベリア半島における聖戦を活発化させていた。1130年代前半には二度にわたってアラゴンへ侵攻し、1136年からはチュニス、1149年にはトレドへと兵を進め、ムスリム諸侯を次々と滅ぼして版図を広げた。ジークフリートはハインリヒ3世以来の「大王」と称されるまでになった。ベルトホルトも兵を率いて参戦し、いくつかの城を落とし戦利品を獲得したと記録されている。それらの財貨は全て築城に注ぎ込まれたというが、結果的に作られた城が彼の息子たちに与えられることはなかったのである。
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>&ref(113000_1.jpg,nolink);
&size(12){''1130年から1150年にかけてのイベリア半島における帝国勢力図''};
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> ベルトホルトの政策は周辺諸侯との政略結婚に重点が置かれていた。長男ルドルフはサヴォイア公の妹ブリュンヒルデを妻に迎え、次男ギュンツェルはシュヴィーツ伯の妹オステルヒルトを、三男ゴツェロはボローニャ女伯を妻に迎えた。また、長女のアグネスをプロヴァンス公シモン3世のもとへ嫁入りしている。ボローニャ伯を除けば近隣の諸侯で、特にサヴォイアは隣接する公爵領では最大であったため、関係を重視していた。これらの婚姻は結果としてレンツブルク家を大いに隆盛させることになる。
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>&ref(113000_2.jpg,nolink);
&size(12){''婚姻は政治だ''};
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> 神聖ローマ帝国のイベリア半島における攻勢は1170年頃まで続き、イベリア半島の大半を支配下に置くまでに至った。ジークフリート皇帝は絶対的な王権で国内統治に望み、選帝侯を廃して帝位をシュターデン家の世襲制に切り替えることも行った。以前の帝国は諸侯による緩やかな連合体であったが、いまではその性質も大きく変化していたのだ。
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&size(12){''1155年から1170年にかけてのイベリア半島における帝国勢力図''};
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> さて、レンツブルク家に話を戻す。1153年にサヴォイア公ニコラウスが病のため28歳で死去した。子供がなかったので、妹のブリュンヒルデがサヴォイア公爵領を継承することになった。嫡男のルドルフは妻についてサヴォイア公爵領の政庁があるザンクト・ガレンに旅立っていく。1159年にはシュヴィーツ伯が死去。姉のオステルヒルトが伯爵領を継承したことで、次男ギュンツェルもシュヴィーツへと赴く。三男ゴツェロは先に述べた通りボローニャ女伯の夫となったため、全ての息子が諸侯となった。
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>&ref(115300.jpg,nolink);
&size(12){''黄枠内の領土はいずれレンツブルク家の男子が継承することになろう''};
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> 1169年には妻のエテルレダが病死した。ベルトホルトは愛妻家であったといわれ、妻の死をとても悲しみ、しばらくは政務が手が付かないほどであった。その悲しみを紛らわすためか、怪しげな書物を読解することに熱中したという。
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&size(12){''愛しい妻が亡くなったのだ。寂しいが誘惑に負けてはいかん''};
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>&ref(116900_2.jpg,nolink);
>&ref(116900_2.jpg,nolink);
&size(12){''本でも読んで気を紛らわそう''};
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> 1170年頃はまさに帝国の絶頂期と呼べる時期であった。しかし、絶頂期の訪れは衰退の始まりともいえる。1173年にジークフリート大王が死去すると、早くもその兆しが見え始めた。第二皇子のロタール・ウードがロタール・ウード2世として皇帝に即位したが、北イタリアやイベリア半島の諸侯が中心となり次々と独立戦争を引き起こした。また、チロル公などはロタール・ウード2世の即位に反対して兵を挙げている。反乱と独立の拡大は、燎原の火の如き様相を見せた。やがて隣国で縁者となっていたサヴォイア女公ブリュンヒルデとプロヴァンス公シモン3世も、相次いで帝国からの独立を掲げて反旗を翻した。ベルトホルトにもルドルフとアグネスを通じて独立戦争への参加が要請されていたというが、態度をはっきりとはさせなかった。
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&size(12){''偉大な皇帝の死が帝国に悪い影響を及ぼす''};
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>&ref(117300.jpg,nolink);
&size(12){''各地で反乱が発生しておる。いままでとは様子が違うようだ''};
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>&ref(117402.jpg,nolink);
&size(12){''プロヴァンスとサヴォイアも背いたか''};
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> ベルトホルトは様子を見守る気でいたが、1174年2月にしびれを切らしたサヴォイア軍が上ブルゴーニュ公爵領内に侵入してくると、慌てて帝国に宣戦布告した。領内に侵入してくる帝国軍を蹴散らしたのちロレーヌへと侵出して、これを占領した。
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>&ref(117300_2.jpg,nolink);
&size(12){''気は進まぬが、我らも独立軍に加わろう''};
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>&ref(117409_1.jpg,nolink);
&size(12){''帝国軍と剣を交えることになろうとは''};
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>&ref(117409_2.jpg,nolink);
&size(12){''ロレーヌを占領するぞ''};
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> 1177年には反乱・独立の戦火は最大限に広がるが、各地で帝国と和睦する諸侯も出てきた。7月にはプロヴァンス公シモン3世が帝国と和睦する。8月に入ると皇帝ロタール・ウード2世が病のために36歳で死去し、第一皇子で14歳のペーターが皇位を継いだ。
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>&ref(117700.jpg,nolink);
&size(12){''反乱勢力が優勢に見えるがどうだろうか''};
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> 帝国は新皇帝ペーターのもとで体勢を立て直し、反攻をさらに強めた。1078年1月、ベルトホルトはロレーヌの奪還に現れた帝国軍をナンシーで迎え撃つが、敗北を喫した。もともと帝国への反乱に乗り気でなかったベルトホルトは、これを機に皇帝との和睦に動いた。
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>&ref(117712.jpg,nolink);
&size(12){''これが帝国の力か''};
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>&ref(117801_1.jpg,nolink);
&size(12){''そろそろ潮時じゃな''};
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>&ref(117801_2.jpg,nolink);
&size(12){''実は本気ではなかったのだ。仲直りしよう''};
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> 1085年頃には反乱はほぼ収束したが、ロンバルディア、アンコーナなどの北イタリア諸侯やトレド、コルドバなどのイベリア半島諸侯は帝国からの独立を達成した。この一連の出来事は、後世「イタリア・イベリア戦争」と呼ばれた。帝国の権威は大きく失墜して王権は弱まり、諸侯の自治権が拡大するという結果を生んだ。上ブルゴーニュ公爵領のすぐ北にあるズントガウ伯爵領も小邦ながら独立を達成した諸侯のひとつだったが、これはベルトホルトが攻めて併合してしまった。
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>&ref(118500_1.jpg,nolink);
&size(12){''イベリア半島はだいぶ領域を失ったが、イタリア側はそうでもないな''};
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>&ref(118500_2.jpg,nolink);
&size(12){''何一つ得られぬというのもしゃくだからな''};
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> 1090年代、ベルトホルトは70歳を過ぎていたがいまだ壮健であった。息子達はみな他国で自分の領邦を手に入れていたため、以前より領内に建設してきた城を譜代の功臣に与えることにした。ベルトホルトの摂政だったノーベルトのメッツ家(玄孫のレオポルトの代になっていた)にはムルテン城を与えた。他にも数名が男爵に封じられている。1202年にはリヨンの要求権を主張してドーフィネ公に戦争を仕掛けている。この戦いは1204年まで続き勝利を収め、老いてなおその存在感を周囲に知らしめている。
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>&ref(120211.jpg,nolink);
&size(12){''これからは弱肉強食の時代が来るのだろうか。少しでも食って大きくならねば''};
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> ベルトホルトは晩年になると周囲の人間にある昔話を語るようになったといわれる。それは祖父ウルリヒが、実は最後のブルグント王ルドルフ3世の庶子だったという内容のものであった。ブルグント王国はかつてブルゴーニュ地方に存在した王国だ。今日残る史料からはそれを裏付けるような証拠は発見されていない。当時、すでにベルトホルトより年長の者が廷臣にも諸侯にもおらず、真偽を確かめる術のない話であったためか、にわかに信じられるようになっていったという。また、ベルトホルトが既にブルグント王を名乗っていたとする説も存在する。ベルトホルトが領内の廷臣に向けたいくつかの命令書に、ブルグント王の署名を記していることを根拠としている。しかし、皇帝に送られた帝国内の公式文書などにはそのような形跡がみられないため、領内統治の方便として一時的にブルグント王を詐称したとの見方が一般的である。既に有名無実化していたとはいえ、ブルグント王国の名前は在地の豪族への影響力として残っていたのであろう。イタリア・イベリア戦争によって帝国の権威が失墜したこともあって、統治のために利用できるものであったのだ。
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&size(12){''黄枠内がブルグント王国の領域''};
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> 1206年5月10日、ベルトホルトは92歳で死去した。レンツブルクの一族はベルトホルトの望んだとおりに繁栄し、親政開始時に11人しかいなかった一族の縁者は、この頃には45人にまで増えていた。ベルトホルトの息子達はみな父に先んじて亡くなっていたが、孫たちが各地で諸侯となっていた。死後はその在位・統治期間の長さから「百年公」(または「百年王」)と称されるている。実際に在位していたのは89年間であるが、異例の長さと言える。彼が熱中した怪しげな書物は実はアラビアの商人からもたらされたもので、人間の皮で装丁されているというものであり、魔術の類を利用して長命を維持していたのではないかという伝承もあるという。
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**プレイヤーズノート [#f27169bf]
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> 今回は暗殺なしです。サヴォイア公爵領が手に入ったのは大きいですね。サヴォイア公の当主はルドルフの結婚時には病気ではなく、「屈強」特性まであって死にそうになかったのにあっけなく死んでしまいました。100年近い時間が経過しましたが、帝国の王権が最強になっていたこともあり、戦争も自由にできませんでした。しかし、大乱で王権も弱まったため、これから戦国時代に突入していくのでしょうか。これで既にプレイしてる分は全てAAR化が終わったので、次の更新はしばらく先になります。
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TIME:"2012-08-19 (日) 17:32:40"

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