[[AAR/アルプス騎士道物語]] *二代目当主 ルドルフ・フォン・レンツブルク [#i9887a55] >&ref(h02.jpg,nolink); > ルドルフはベルン伯ウルリッヒの長男として生まれた。母リヒェンツァは上ブルゴーニュ公であるハプスブルク家の出身で、現当主マインハルトは甥にあたる。1091年に父が倒れた時は47歳で、すでに壮年の君主として伯爵領を継承した。皇帝の外征に従軍を続けた父ほど剣技に熱心ではなく、どちらかというと内気で、幼少期は本を読むなどして過ごすことが多かったと伝えられている。 &size(10){※スクショは撮り忘れのため即位3年後のものです}; **本紀 [#dbd348e6] > 即位から2年後の1093年4月、上ブルゴーニュ公マインハルトが22歳で死去した。死因は過酷なストレスにあったといわれる。新公爵にはマインハルトの長男で3歳のフィリップが選ばれたが、ルドルフは幼君の擁立には否定的であった。近年ロンバルディア傭兵が蜂起して帝国への侵攻を企てるなど、周辺情勢が安定していないことを理由に挙げていたが、後の行動を見ればこの頃から公爵領の簒奪を企んでいたのではないかと思われる。 >&ref(109304_01.jpg,nolink); &size(12){''公爵家では夭逝が続く''}; > 「ならば選挙の結果を変えるしかない」──ルドルフがアールガウでの選公侯会議の帰りにそうつぶやいたと、彼の従者は伝えている。ルドルフの母リヒェンツァはフィリップの大叔母にあたり、アールガウ伯爵領の要求権を保持していたので、これを利用することを考えていたのだ。 >&ref(109300.jpg,nolink); &size(12){''1093年当時の上ブルゴーニュ公爵領内の勢力図''}; &size(11){シャロン伯のノルマンディー公チボーはフランス王、シュヴィーツ伯ベルトホルトはシュヴァーベン公の封臣で、上ブルゴーニュ公には臣従していないが選公侯である。}; > ルドルフはベルンに戻ってリヒェンツァを訪問し承諾を得ると、兵を挙げてアールガウに侵攻した。ブルゴーニュ伯とヌーシャテル伯が上ブルゴーニュ公に付いたため苦戦するが、スイス傭兵を雇って巻き返しをはかり、1094年にはアールガウ全域を占領してリヒェンツァの伯爵位を認めさせるに至った。 >&ref(109402.jpg,nolink); &size(12){''この戦いで公爵領内での主導権を掌握する''}; > しかし、ルドルフにも誤算があった。当初はフィリップからアールガウ伯爵位を奪えば公爵位からも引きずり下ろせると考えていたのだが、フィリップの摂政は和睦の直前にヌーシャテル伯から爵位を剥奪して、フィリップをヌーシャテル伯に即位させていたのだ。フィリップはアールガウを失ったものの公爵位は維持することになった。「まあ、焦ることはない」──ルドルフは宰相にそう語り、フィリップの公爵位を認めることにした。この一件でルドルフが公爵領内での存在感を高める一方でフィリップの権威は失墜し、ヌーシャテル伯の剥奪をおこなったことでブルゴーニュ伯の心も離れていった。 > 1098年3月には神聖ローマ皇帝ハインリヒ3世大王が反乱軍との交戦中に戦死したという報がもたらされた。48歳であった。次期皇帝にはブランデンブルク公ハインリヒ・シュターデンが選ばれ、ハインリヒ4世として即位した。ザリアン家は絶え、王朝はシュターデン家へと移ることになった。 > 1099年2月、アールガウ女伯となっていたリヒェンツァが老衰で死去した。70歳であった。アールガウ伯爵領はルドルフが継承した。この年の6月には昨年皇帝に即位したばかりのハインリヒ4世も死去している。享年34歳で死因は発疹チフスであったといわれる。長男で14歳のロタール・ウードが次期皇帝に推戴された。しかし、この若い皇帝の即位は帝国内に戦乱を火種を撒くことになる。まもなくロンバルディア公やスポレート公などのイタリア諸侯が独立を目指して反旗を翻した。 > 1100年7月、ルドルフは甥のロタールをアールガウ伯に封じた。先年の母の死に伴い、ルドルフは2伯領の主となったが、選公のための投票権は1票しか持てない規則があったのだ。信頼の置ける人物に伯爵位を託す必要が生じた。ロタールは先君ウルリッヒ譲りの猛将で、アールガウ占領にも功績があったため、功労の意味も兼ねての封爵になったといわれている。 >&ref(110007.jpg,nolink); &size(12){''実に頼もしい甥なのだ''}; > 1100年8月、上ブルゴーニュ公フィリップが乗馬の練習中に落馬して死亡した。まだ10歳であったという。ルドルフは幼君の死をとても悼んだとヘルヴェティア風土記には記されているが、ルドルフが当時の公爵領宰相ブルゴーニュ伯ギョームに送った手紙が後世になって発見されており、その内容からすればルドルフがギョームと謀ってフィリップを殺害したというのが定説だ。 >&ref(110008.jpg,nolink); &size(12){''公爵家には不幸が続く''}; > ともあれ、フィリップの死にともない行われた新公爵の選挙においてルドルフが選抜され、上ブルゴーニュ公ルドルフ4世として即位する運びになった。なお、ヌーシャテル伯爵領はフィリップの従兄で12歳のジークフリートが継承することになった。 > さて、フィリップ暗殺でルドルフと共謀したとされるブルゴーニュ伯ギョームであるが、先述したイタリア諸侯の独立戦争に従軍中に負傷して不具の身となり、1104年2月に死んでしまった。ギョームの妹マルゴーがブルゴーニュ女伯となったのだが、その夫はルドルフの末弟ギゼルベルトであった。 >&ref(110402_1.jpg,nolink); &size(12){''悪いことはできないものだな''}; > レンツブルク家による公爵領への支配は着々と強化されていた。ルドルフはこの年60歳を迎えたが残念ながらこれまでに男子がなく、一人だけ生まれた娘はルクセンブルク家に嫁いでいた。上ブルゴーニュ公爵領は男子相続になっていたので、この当時は甥のロタールを後継者に考えていたといわれる。 >&ref(110402_2.jpg,nolink); &size(12){''私に息子がいればなあ''}; > 1104年9月にブルゴーニュ女伯マルゴーが病死する。もともと病気がちであったが、31歳の若さだった。マルゴーとギゼルベルトの娘で12歳のウルリーケがブルゴーニュ伯爵領を継承した。 >&ref(110409_1.jpg,nolink); &size(12){''これでブルゴーニュ伯領も正式にレンツブルク家のものになるのか''}; > 訃報はまだ続く。翌10月にはヌーシャテル伯ジークフリートが死去した。レマン湖に小舟を浮かべて遊覧中に、舟が転覆して溺れたという。17歳になり婚姻も決まっていたところに起きた悲劇であった。ジークフリートの死によりハプスブルク家の男系が絶えたため、女系を通じてレンツブルク家がヌーシャテル伯爵領を継承することになった。ルドルフは自ら葬儀委員長を買って出て、ジークフリートの葬儀を盛大に取り仕切ったといわれるが、参列者はみな恐れおののいていたという。わずかな期間のうちに上ブルゴーニュ公爵領の4州がレンツブルク家のものになり、疑いを持つ者は少なくなかったと言われる。 >&ref(110410_1.jpg,nolink); &size(12){''おお、これは何かの呪いなのか。主よ、彼らの御霊を赦したまえ''}; >&ref(110410_2.jpg,nolink); &size(12){''わ~た~し~は~やってない~''}; > こうしてルドルフはレンツブルク家の当主となって10年余りで、上ブルゴーニュ公爵領をすっかり手に入れてしまったのである。シャロン州とシュヴィーツ州が残っていたが、シャロン伯はフランス王の封臣ノルマンディー公であり、シュヴィーツ伯も帝国の有力貴族・シュヴァーベン公の封臣で、いずれも容易に手を出せる相手ではなかった。 >&ref(110410_3.jpg,nolink); > 1111年2月、ルドルフの妻コンスタンスが66歳で死去した。この出来事はルドルフにある決意を促すことに繋がる。ルドルフに嗣子が無かったことは先に述べたが、後継者と考えていたアールガウ伯ロタールの家にも男子が生まれていなかった。この時点でレンツブルク家には40歳未満の男子が一人もいなくなっていたのである。廷臣や諸侯に中には「ハプスブルクの呪い」などと囁く者もいたといわれる。 >&ref(111102_1.jpg,nolink); &size(12){''これは由々しき事態''}; > 「残された時間は少ないが、わしがやるしかないな」──実際にそう言ったかは定かでないが、ルドルフは67歳にして再婚を決意したのだった。相手はニースのモナコ男爵の姉アデライダ・ディ・モナコに決まった。男爵家の出身ということで決して血筋が良いといえなかったが、18歳と若く、なかなかの才女であるということを評価したという。 >&ref(111103.jpg,nolink); &size(12){''若くてピチピチじゃな''}; > さて、ここでこの時代の帝国および世界の情勢を解説する。帝国では若き新皇帝ロタール・ウードの即位にともない、イタリア諸侯の独立運動が活発化したところまでは述べた。ロンバルディア、スポレートの乱は平定され、その後もピサ、ドーフィネが蜂起するが、いずれも独立が達成されることはなかった。1108年には教皇アニケトゥス2世によりイェルサレム奪還を目標とする史上初めての十字軍が提唱された。ハンガリー、フランス、ブリタニア諸侯などが参加して、聖地をめぐる死闘が続いている。帝国諸侯の参加はなかった。帝国は帝国で独自に聖戦を初めていたのだ。ムスリム勢力の圧迫に耐えきれなくなった、イベリア半島のカトリック諸侯の要請に応じてのものだった。帝国内ではまたサヴォイアが独立戦争を起こすなどしていたが、イベリア遠征を行えるほどの余力はあったのである。 >&ref(111400.jpg,nolink); &size(12){''1114年頃のヨーロッパ''}; > 1114年1月2日、ルドルフに長男が誕生した。名をベルトホルトと付けられた。ルドルフはよほど嬉しかったのか、この日を領内の記念日として永代にわたり祝賀することに決め、領民達に無料で食物や酒を振る舞うほどであったという。 >&ref(111401.jpg,nolink); &size(12){''どうだ見たか!''}; > 「嫡子が生まれた以上、この子にレンツブルク家の全てが確実に伝わるようにしなければならない」──ルドルフは廷臣達の意見も聞かずに、これまで選公侯の互選によった公爵の選出法を改め、世襲制にするという布告を発した。だが、これで万全というわけではなかった。男子が生まれなかったロタールのアールガウ伯爵領は、その長女の嫁ぎ先に継承されるのが確実だった(アールガウ伯爵領は準親族相続制だった)。翌月、ルドルフは姪のブルゴーニュ女伯ウルリーケと謀り、ロタールにアールガウ伯領の譲渡を要求する。ロタールは当然これを拒否したので、骨肉の争いが始まることになった。 >&ref(111403.jpg,nolink); >&size(12){''甥よすまぬ。これもレンツブルク家のためと思え''}; > およそ2年にわたる抵抗が続いたが、1116年1月。アールガウのハプスブルク城は陥落した。ロタールは遁走してルクセンブルク公の庇護を受けることになった。 >&ref(111601.jpg,nolink); &size(12){''これで全て終わったのだ。思い残すことはない。あとは主の元へと旅立つのみ''}; > 同じ月、ルドルフがかねてから称号要求権で係争していたジュネーヴ伯ギシャールの差し金で、教皇アニケトゥス2世より破門を言い渡されるという事件も起こっている。 >&ref(111602.jpg,nolink); &size(12){''どうやら主の元には行けそうにないな。我を待つは地獄か''}; > 1117年11月23日。ルドルフは宰相ノーベルト・フォン・メッツを呼び後事を託すと、玉座に掛けたまま静かに目を閉じたという。そしてノーベルトが次に声をかけても目を開けることはなかった。享年73歳。なお、ロタールはルドルフの死の数日前に、ルクセンブルクにて病を得て客死していた。 >&ref(111711.jpg,nolink); **プレイヤーズノート [#jc6dcbfa] > 危なかったです。ここで男子が生まれなかったらいずれゲームオーバーになるところでした。子供を自分の宮廷内で抱えてると、その子供があまり生まれませんね。途中、上手い具合にコロコロと死んでますが、実際に暗殺したのは2回だけです。しかし、まだ危機が去ったわけではないのです。 TIME:"2012-08-17 (金) 02:20:14"