[[AAR/アルプス騎士道物語]]

*第六代当主 アドルフ・フォン・レンツブルク [#nc8c353f]
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> アドルフはブルグント王ラインハルトの長男として生まれた。母クリスティナはマクデブルク家の出身で、クリスティナの祖母はサラセン人であったという。
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**本紀 [#l2853974]
> 1235年に父ラインハルトがライニンゲンで戦死した時、21歳のアドルフは十字軍ブルグント部隊の総大将として南ギリシャのペロポネソス半島の諸都市を攻略中であった。
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>&ref(123500_1.jpg,nolink);
''&size(12){何いッ! 父上が戦死されただと!!};''
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> 陣中で父の訃報を受け取ると、すぐさまパトラスに籠城中のムスリムと和議を結び、占領した他の都城も全て放棄して一路祖国を目指した。途中、アドルフはクロアチアへと立ち寄るが、その際に王女タティアナを見初めて、半ば強奪するようにして連れて帰り妻としている。
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>&ref(123500_2.jpg,nolink);
''&size(12){いま私に何かあればレンツブルク家は大変なことになる。後継者が必要だ};''
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> 帰国するとキブルク城でブルグント王に即位し、アドルフ2世を称する。そして、すぐに軍を集めると、領内に入り込んだ反乱軍勢力の掃討を始めた。
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>&ref(123511.jpg,nolink);
''&size(12){まずは領内の掃除からだ};''
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> およそ一年で領内の敵を駆逐すると、父の仇を討つべくブラウンシュヴァイク公エルンスト3世が陣取るヴュルツブルクへ軍を進める。しかし、シュヴァインフルトでエルンスト3世と交戦中に、ジェルバ伯ロタール・ウードが皇帝に和平を申し入れて停戦したため、目的を達することはできなかった。この時、アドルフ2世は停戦を伝える皇帝の使者に向かって剣を振り上げたという。使者を切り捨て、停戦の報を聞かなかったことにして戦闘を継続しようとしたのだ。それに気付いた将軍のオルドゥルフ・フォン・ブランケンハイムが慌てて王の腕を取り押さえたため、剣は逸れて近くにあった岩に当たり折れてしまったという。
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''&size(12){先王の仇はそこだ!};''
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>&ref(123608_1.jpg,nolink);
''&size(12){押せー、押しまくれ。あと少しだ};''
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>&ref(123608_2.jpg,nolink);
''&size(12){和睦・・・だと!?};''
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> アドルフ2世は軍を解散せず、本国に追加の軍を要求すると、そのまま十字軍に復帰してペロポネソス半島に向かった。ギリシャへの行軍中、長女エリザベートが誕生したとの知らせが入っている。
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''&size(12){この怒り、どうしてくれよう};''
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> 1239年8月。2年にわたる包囲戦の結果、アドルフ2世はペロポネソス半島全域の異教徒を降伏させた。同時に教皇から十字軍の終結が宣言された。アドルフ2世は十字軍の英雄として大いに名を上げたのである。
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''&size(12){今度こそ陥としてやる};''
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''&size(12){我が信仰の力が証明された};''
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> 1240年8月には長男ルップレヒトが誕生した。これに前後してパヴィア、クレモナ、ノルトガウなどの周辺の小侯への侵略を繰り返し、ブルグント王国に併合している。
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>&ref(124003.jpg,nolink);
''&size(12){小国とはいえ言いがかりを付けるのが大変なのだ};''
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''&size(12){これで王国も安泰だ};''
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> 1251年4月、アドルフ2世はイタリア南部カラブリアの異教徒に聖戦を仕掛けた。当時、イタリア南部はクロアチア王国が勢力を伸ばし、異教徒と戦っていたため、それに便乗しての遠征であったという。この戦いはおよそ3年間続き、1254年には全ての都城を占領下に置きカラブリア公爵領を設立した。カラブリア公には11歳の次男ポッポを封じた(実際の政務はスクイッラーチェ男爵として下向した、マルティン・フォン・キブルクが摂政として取り仕切った)。1259年には長男ルップレヒトにサヴォイア公爵領を譲っている。
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>&ref(125104.jpg,nolink);
''&size(12){イタリアから異教徒を排除するのだ};''
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>&ref(125409.jpg,nolink);
''&size(12){ここを拠点に南イタリアの異教徒を一掃しよう};''
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> 1260年4月、ロタール・ウード4世皇帝が32歳の若さで病死する。ロタール・ウード4世には子がなかったため、60歳の大叔父エーミヒが皇帝に即位した。
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>&ref(126004.jpg,nolink);
''&size(12){ローマ皇帝はなかなか長生きできないな};''
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> 1263年にはシチリア島西部を異教徒から解放するために聖戦を開始する。この聖戦ではホスピタル騎士団の支援を仰ぎ、教皇からも資金援助を受けることができた。2年間続いた戦争はブルグント王国の勝利に終わった。
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>&ref(126404.jpg,nolink);
''&size(12){聖下のお気遣い。まこと痛み入る};''
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>&ref(126408.jpg,nolink);
''&size(12){騎士団は実に頼りになるな};''
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> 初期には中小諸侯の連合体であった帝国も、この時代には有力諸侯が割拠するようになっていた。皇帝家を除く代表的な諸侯はプシェミスル家(ボヘミア王)、ボゾン家(シュヴァーベン公)、ビルング=バーデン家(バーデン公)、ビルング=ブラウンシュヴァイク家(ブラウンシュヴァイク公)、ユーリッヒガウ家(下ロレーヌ公)、カンミン家(フランコニア公)、ゴーゼック家(上ロレーヌ公)、そしてブルグント王のレンツブルク家である。これら二王六公の中でも最有力であったのがボゾン家である。プロヴァンスに発祥するボゾン家は婚姻政策と侵略で勢力を拡大し、その所領は帝国の4分の1を占めるまでに至っていた。レンツブルク家でも百年公ベルトホルトの治世には姻戚を結ぶなど、伝統的に友好関係を保っていたが、アドルフ1世がブルグント王を称したことにより、プロヴァンスの支配権をめぐる確執が生じるようになっていた。王国を囲むように存在するボゾン家の所領に危機感を募らせたアドルフ2世は、外交による対抗策を打ち出した。すなわち、嫡男ルップレヒトの妻にボヘミア王の姉アデラを、次男ポッポの妻にバーデン公エーリヒの妹アマルベルガを迎えて、彼らと手を結んだのである。ボゾン家の領土を逆に包囲する同盟を形作ったのだ。
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>&ref(126500.jpg,nolink);
''&size(12){神聖ローマ帝国諸侯勢力図};''
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> このような背景のもと、1267年8月にインスブルック戦争が勃発したのである。シュヴァーベン公フィリップがバーデン公リュドゲールに、インスブルック伯爵位の譲渡を要求したことが発端であったが、アドルフ2世は同盟に基づきバーデン公を支援することになり、帝国南部を舞台とする大きな戦争へと発展した。
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>&ref(126708.jpg,nolink);
''&size(12){いつかは剣を交えねばならぬ相手だが};''
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> 緒戦はシュヴァーベン公が有利に戦いを運んだが、次第にバーデン・ブルグント連合軍が巻き返し、双方共に決定的な勝利を得られぬまま消耗戦へと突入した。
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''&size(12){こちらが苦しい時は相手も苦しいのだ};''
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> 戦いはおよそ5年間続き、1272年5月。結果としてインスブルックの占領という目的を達成できなかったシュヴァーベン公が敗北を認めて終戦する。この戦争ではブルグント王国内も荒廃し、多くの若者の命が失われたといわれる。アドルフ2世はシチリア島全土を解放する聖戦を計画していたと言われるが、延期せざるを得なくなった。
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''&size(12){勝ちはしたが苦い勝利だな};''
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> しかし、この後もシチリア聖戦がアドルフ2世の手により実行されることはなかった。インスブルック戦争の終結から1年後の1273年7月17日、アドルフ2世はキブルク城において59年の生涯を閉じたのである。レンツブルク家では家祖ウルリヒ以来の戦争好きな勇猛な当主で、初めて帝国外から領土を獲得した。また、国内随一の勢力であったシュヴァーベン公のボゾン家を破ったことで、帝国内における王国とレンツブルク家の存在感は一層強くなったのである。
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**プレイヤーズノート [#ff924666]
> これから帝国内で発展するか、帝国の外へ出て行くのか。悩むところです。領地もだいぶ増えたので内なる問題も出てきそうな気がしますが。
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TIME:"2012-09-01 (土) 23:26:49"

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