[[王朝序曲]] *プロローグ 摂政ラウルの治世 [#p44ec1a3] **1066年9月15日の顧問会議 [#t9573b9c] >「国王陛下とアキテーヌ公女の婚約は是が非でも実現させねばなりませぬ」 大臣ラウル・デモーは有無を云わさぬ口調で言い切る。 この日、主の1066年9月15日。フランス王フィリップを支える顧問団が一堂に会し、王国の将来を決定づける重大な案件を議論していた。 #ref(001_council.jpg,nolink) 1066年時点の顧問団 大臣ラウル、元帥アミアン伯、家令ヴェルマンドワ伯、密偵長ロタール、そして宮廷司祭長ジャスパール。 アミアン伯はヴェクサンの伯でもあり、王太后アンヌの再婚相手。つまり王の義父にあたる。 ヴェルマンドワ伯はカロリング家当主でシャルルマーニュの唯一の男系子孫。 ロタールはコンピエーニュの市長で都市の利益を代表する立場にある。 そしてジャスパールは王家の菩提寺サン・ドニの司祭だ。 カペー王家の男子は未成年の王と王弟ユーグの2人しかいない。 王朝の血脈を伝える為にも王の結婚が急務であることは間違いない。 問題はその相手だが、ラウルが何故それほどまでにアキテーヌ公女に拘るのか。 それは当時のフランスがおかれた政治状況にある。 1066年当時、王権は弱体で支配が及ぶのは僅かにパリとオルレアン近辺のみであった。 王国の大半は公や伯の実効統治下にあり王権は名目上のものにすぎない。 そして、その諸侯たちの中でも特に強大な勢力を誇るのが七大公とよばれる7人の公爵たちであった。 #ref(002_france.jpg,nolink) 1066年のフランス王国 #ref(003_duke.jpg,nolink) フランドル公ボウデヴィン 豊かなフランドルは神聖ローマ帝国の慣習的領域でもある。また公爵家は異邦人である。 #ref(004_duke.jpg,nolink) シャンパーニュ公ティボー その所領は王領を包囲するかのように広がり、いくつかの州の領有権をめぐり王家と対立関係にある。 #ref(005_duke.jpg,nolink) アンジュー公ジョフロワ 代々武勇を誇る家柄だが、当代は暗愚にして破廉恥。破門されている。 #ref(006_duke.jpg,nolink) ノルマンディー公ウィリアム(ギョーム) イングランド王位への野望に燃えるヴァイキングの末裔。史実では征服王となるがこの世界ではどうか? #ref(007_duke.jpg,nolink) ブルゴーニュ公ロベール フィリップ1世の叔父にしてブルゴーニュ家の開祖。王位への請求権を持つ。 #ref(008_duke.jpg,nolink) トゥールーズ公ギョーム まつろわぬ土地オクシタニアの王。現当主は平和を愛する穏やかな人物に見えるが… #ref(009_duke.jpg,nolink) アキテーヌ公ギョーム 王国最大の諸侯。ポワトゥとガスコーニュの公でもあり、その勢威は王家をも凌駕する。 アキテーヌ公には息子がおらずこのままいけば娘のアイネスが3つの公領すべてを相続する事になる。 つまりこの結婚が成立すれば、フィリップの次の世代には南仏の広大な所領が王家のものとなるのだ。 諸侯を排除し強力な王権をつくる。 この結婚はその最善手であるとラウルは考えていた。 #ref(010_chancellor.jpg,nolink) 摂政兼大臣ラウル・デモー 大臣ラウル・デモーは一応は貴族ということになっているが、実際のところは氏素性も定かで無い遍歴の托鉢僧あがりである。 姉が先王アンリ1世の妃、つまり王太后アンヌの侍女であった縁で宮廷に出入りするようになり、その如才なさがアンリ1世の目に止まり助言者として重んじられるようになったにすぎない。 それが今では先王の遺詔によりフィリップ1世の養育を任され、さらには摂政として大権を代行する立場にある。 権力の基盤を君寵のみによっているラウルにとって、王家の繁栄は自らの繁栄でもあった。 >「ポワティエ家は大身とはいえ臣下ですぞ。王の相手としてはいかがなものか。妃はイングランドかデンマークあたりから迎えるべきでは?」 アミアン伯の意見にヴェルマンドワ伯も同意する。 王に対して二心があるわけではない。 しかし王の義父であるアミアン伯としては、強すぎる妃の出現は自身の外戚の座を脅かす脅威となりうる。 ヴェルマンドワ伯にしても諸侯としての特権が侵害されかねない王権の強化は歓迎できるものではない。 >「前例はあります。陛下の曽祖父ユーグ・カペー王の妃もアキテーヌ公家の出身です」 密偵長ロベールが大臣ラウルに助け舟をだす。 商人にとって王国の安定は何よりも望むところであった。 しかしこの発言はおもわぬ攻撃材料となる。 >「これは教会の禁ずる近親婚ではありませんか?」 アミアン伯からすれば氏素性もわからぬ成り上がり者が摂政として廟堂を取り仕切る事自体が気にくわない。 王の義父たる自分こそがその立場にあるべきではないのか。 >「直接の血縁で無い限り問題はありませぬ」 王家の菩提寺サン・ドニにとっても王権の伸張は歓迎すべきことだった。 >「問題無いのならここで決をとりましょう」 大臣の一方的な議事進行に2人の伯は憤慨するが手遅れであった。 あらかじめ根回しされていたのだ。 会議の目的は王の婚約相手を決める事だけにあるのではなかった。 王の義父アミアン伯の影響力を排除する事にあったのだ。 憮然とした顔で席を立つアミアン伯は、突如、えもいわれぬ不安を覚えた。 これで終わりではないのではないか? それはやがて現実のものとなる。 #ref(011_1066.jpg,nolink) 1066年10月2日、フィリップ1世とアキテーヌ公女アイネスの婚約が成立した またラウルは王妹エマとノルマンディー公子ロベールの婚約も進めていった。 イングランドの情勢次第ではこの結婚が重要な役割を果たすはずだ。 そして1067年11月12日。 ノルマンディー公ギョームはイングランド王位に就く。 英仏に戦乱の時代が訪れようとしていた。 フィリップ1世の治世・前半へ[[AAR/王朝序曲/フィリップ1世の治世・前半]] TIME:"2014-04-06 (日) 20:52:35"