[[王朝序曲]]

*フィリップ1世の治世・後半 [#ac0d9106]

**家族計画 [#m7b71e22]

神の恩寵によるフランス王。
ヴァロワ、オルレアン、ベリー、ブルボン、アンジュー、シャンパーニュ、フランドル、ブルゴーニュ、トゥールーズ、オーヴェルニュの公。
パリ、オルレアン、シャルトル、アミアン、アルトワ、ブリュッヘ、ヘント、イベレン、ギネスの伯。
1086年時点でのフィリップの称号である。
フランスの14の公爵号のうち10を独占している。
ちなみに残りの4つは王弟ユーグがノルマンディー公。王妃アイネスがアキテーヌ、ポワトゥ、ガスコーニュ公であり、王とその一族縁者が全てを独占する状況にあった。
とはいえ、ろくな官僚制度も存在しないこの時代、1人でこれだけの領土を維持するのは大変な事である。
また王が称号を独占する現状に伯たちも不満を募らせていた。
最大の問題は称号を与えるべき王族が不足していることだ。
成人した王族男子は王と王弟ノルマンディー公の2人しかいない。
子供は3人いたが男子はアンリ1人だった。

>「せめてあと1人息子が欲しいな。我ら夫婦の領土は1人で相続するには大きすぎる」


国王夫妻の頑張りが天に通じたのか、1086年10月19日、待望の次男ジェローが誕生した。

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 第二王子ジェロー ポワトゥ公領の継承者

なお夫妻はそれ以降も励み続けるが、結局女子2人を産んだだけで三男の誕生はなかった。

1087年3月1日。
大臣ラウルが他界した。48歳であった。

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フィリップの摂政・養育係を務め不安定だった王権を守りぬいた恩人である。
親政開始後も大臣として王を支え、主にブルターニュとの外交交渉(要求権の捏造)に取り組んできた。
功臣の死に衝撃を受けたフィリップは1人礼拝堂に籠もり、主に死後の救いを祈り続けたという。
しかし政治に停滞は許されない。
後任の大臣にはフォワ伯ペイレを充てたが力量不足の感は否めず、ラウルの後継者を探すことが急務となった。

1088年5月30日。
謀反を起こしたヴェルマンドワ伯エルベールが所領を剥奪された。
かつて王の家令を務めた事もあるカロリング家の当主である。
ただ前年に嫡子ウードがブールジュ伯となっていた為、カロリング家そのものは諸侯として存続した。

1089年3月25日。
家令ライアン・ミカエルがサンリ男爵に叙された。

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 家令サンリ男爵ライアン 上述のヴェルマンドワ伯の家令職を襲ったアイルランド人

大臣候補の人選も続けられ、名門ディヴレーア家のエチエンヌが見出され王の招きを請けた。
大臣エチエンヌは2年後にはジャルゴー男爵に叙された。

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 大臣ジャルゴー男爵エチエンヌ 画像は2年後のもの

**第一回十字軍 [#gb079fa8]

当時、オリエントは混乱の極みにあった。
ビザンティン帝国とセルジューク朝はアナトリアの支配権をめぐり長きに渡る戦争状態にあり、シーア派を奉じるファーティマ朝も配下の首長たちの反乱やヌビアの侵攻に悩まされていた。
ファーティマ朝は南の国境防衛と反乱鎮圧に兵を投入しており聖地を維持する余裕を失っていた。

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 ビザンティン皇帝ミカエル7世 ローマ帝国の衣鉢を継ぐにはあまりに無能

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 セルジューク朝スルタン、アルプ・アルスラーン 何があったのか目を潰されている

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 ファーティマ朝カリフ、アブー・マンスール 預言者の末裔。

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 ヌビアの黒人王ゲオルギオス3世 無策王とは酷いいわれようである

今こそ聖地エルサレムを回復する好機!
1090年2月16日。
教皇ウァレンティウスは前代未聞の大事業を宣言した。

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>「今こそ十字架を取って立ち上がり、東方の我らの兄弟たちを救い、聖地奪回のため神とともに戦う時ぞ。神の御心は我らとともにある!」 



>「神の御心のままに!」

ヨーロッパ各地の王侯が宗教的情熱と領土的野心から続々と参戦を表明していった。
フランスも例外ではなく国王フィリップ自ら軍勢を率いて聖地に赴いていった。

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 ルーアンの軍港から聖地に向かうフランスの騎士たち

フィリップは4万の軍勢を4つに分けて中東に進軍。
ファーティマ朝は戦争を遂行するだけの余力を失っており、さしたる抵抗もないまま聖地を陥落させた。

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 1091年4月エルサレム攻略戦

聖地を解放したフランク騎士たちは女子供も容赦せず殺戮し、市域は血が膝の高さまで達するほどになったという。
追い詰められたムスリム勢力は必死の抵抗を3年間続けるが…

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 1094年3月5日ナブルスの戦い。この戦いが十字軍の勝利を決定づけた。

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1094年3月28日。
カリフは降伏し十字軍はキリスト勢の勝利に終わった。
戦功第一位のフィリップは征服地の全てを与えられエルサレム王国の樹立を宣言する。
ダビデの王国を再興したフィリップは、いつしか大王と呼ばれるようになっていた。


**家庭の事情 [#w42c566e]

1094年4月20日。
長女マルゴーとカスティーリャ王家のアルフォンソ王子が結婚。婿養子婚であった。
同日、フィリップはアルフォンソをアスカロン公に任じ聖地の統治を委ねる。
ただしエルサレムは王の直轄とし、王位は勿論エルサレム公位も王に属するものとした。
パレスチナ各地に改宗の任を帯びた宣教師が派遣され、宮廷司祭長たるランス司教シャルルも聖地に赴き陣頭指揮を取ることになった。

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 アスカロン公アルフォンソ 王の娘婿 

1094年9月23日。
カロリング家のブールジュ伯ウードをベリー公に叙した。
王族・婚族以外の公爵叙任はフィリップ治世下では初である。

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 ベリー公ウード シャルルマーニュの末裔

フィリップにとって最大の悩みは王族の絶対数が少ない事であった。
年中行事のように諸侯の反乱が起こっていたが、鎮圧して改易しても領地を与えるべき親族が不足していた。
その為、多く場合、剥奪した伯位をその伯の子息に与えるか伯領を廃止して司教領にしていたのである。

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 カペー家系図 成人男子は3人しかいない

1097年4月21日。
王太子アンリが成人した。
フィリップがアンリに最初に命じたことは、次男ジェローの養育であった。
ただでさえ親族が少ないのに兄弟で争うような事になってはならない。
兄に弟の教育を任せる事にはそのような意図があった。

1098年2月。
フィリップは2人の少年の後見人となった。
かつて敵対したシャンパーニュ公の孫アルノー・ブロワと、アンジュー公の孫フルク・ダンジューである。
ゆくゆくは王女を娶せ旧領を再興させるつもりであった。
フィリップの心境にどのような変化があったのかはわからないが、王はかつての反逆者の孫たちを実の子のように慈しんだと伝わる。

1100年1月12日。
王太子アンリとプロヴァンス公女アルジェンダの婚約が成立した。
アルジェンダはプロヴァンス公の一人娘であり、次世代のフランス編入を見越したものでった。
そして婚約のわずか9ヶ月後、プロヴァンス公アンリは急逝しアルジェンダが公領を継承した。

1100年1月28日。
次女ブランシュとイングランド王太子ディエトヴィンが婚約した。

1101年11月3日。
1人のノルウェー人が宮廷に現れた。
スヴェインと名乗るこの男は辺境の地イェムトランド伯家の三男であった。
故郷は貧しく相続できる土地もなく、半ば追い出されるような形でフランスにやってきた。
凡庸そうな外見に似合わず悪魔的に頭の切れる男だ。
王は彼を密偵長に任命した。
4年後にはシニー男爵領を与えられる事になる。

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 密偵長シニー男爵スヴェイン

1102年5月17日。
かねてから王と愛人関係にあった女官アントワネットが男児を出産した。

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 第三王子ジュリアン 愛人の子

男児はジュリアンと名付けられ王の正式な子と認知された。
夫婦の仲はすでに冷え切っていたため、王妃アイネスは怒る気さえ起きなかったという。

1102年10月19日。
次男ジェローが成人。
トゥアール伯の一人娘マオーと婚約した。
トゥアールはポワトゥ公領の一部であり、そのポワトゥはジェローが母から相続する事になっている。
しかし愛人の子ジュリアンには両親から相続する土地がない。

自分の目の黒いうちに『あの計画』を実現せねば…
フィリップは決意を固めた。


**ブルターニュ征服 [#i23f08aa]

>「カペー家がコルヌアイユの正当な統治者であることが証明されました」

大臣エチエンヌはそう述べると恭しく古文書を提示した。
これでブルターニュ公国を構成する6つの州全てがカペー家の正当な領土であることが証明された事になる。
前大臣ラウル以来40年かけて続けてきた6つの州に対する要求権捏造が完成したのだ。

カペー家の源流であるロベール家は7世紀のベルギー東部に起源をもつ豪族で、カロリング時代にはヴォルムスに移り帝国貴族層に上昇している。
9世紀の当主ロベール豪胆公は強者(ル・フォール)と呼ばれた剛の者で、ルイ敬虔帝死後の兄弟相克ではシャルル禿頭王を支持してフランスに移り、禿頭王よりネウストリアの国王巡察使に任ぜられている。
カペー朝を開いたユーグ・カペーはロベール豪胆公の曾孫にあたる。
ここで重要となるのはロベールが与えられたネウストリアの巡察使の地位である。
この地位は古のネウストリア分王の系譜を引くものであり、ブルターニュに対する監督権を兼ねている…というのがフィリップの主張であった。

当時のブルターニュは、4世紀の伝説上の建国者コナン・メリアドク王の血を引く(と称する)レンヌ家とパンティエーヴル家による王位争奪戦が繰り広げられており、1104年現在はパンティエーヴル家のコナンが王位にあった。
しかしその地位は不安定で慢性的な内乱状態にある。

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 最後のブルターニュ王コナン4世 建国者と同じ名をもつ幼君


>「ロベール豪胆公の正当な後継者たるカペー家にはブルターニュの平和を守る責任がある」

1104年3月8日。
フィリップは王国全土に動員令を発し4万5千の大軍をブルターニュに差し向けた。
ブルターニュの動員力は4千にすぎない。
圧倒的な力の差を見せつけることでブルトン貴族たちの抵抗する気力すら奪おうという魂胆であった。

しかしフィリップの思惑は裏切られ、誇り高きブルトン人は決死の抵抗を試みる。
しかし兵力の差は如何ともし難く…

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 1104年7月18日 フォンテンヴローの戦い

1105年4月1日。
フランス軍はブルターニュ全土を制圧。コナン4世は退位し公国はフランスに併合された。

1105年4月3日。
フィリップは王太子アンリをブルターニュ公に封じた。
三男ジュリアンの為に征服した領土であったが、いまだ部屋住みの2人の兄を差し置いて2歳の末っ子に大邦を与えるのは内外から抵抗があったのだ。
ブルターニュはアンリが王位を継承した後でジュリアンに譲る事が取り決められた。

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 ブルターニュ公アンリ のちのフランス王アンリ2世


1105年10月19日。
三女ギラメッテがシャンパーニュ公の末裔アルノー・ブロワと結婚。
先の話になるが1107年12月24日には四女アデライードとアンジュー公の末裔フルク・ダンジューが結婚している。
いずれ父祖の地を再興させる腹づもりであったが、ここにきて事情が変わりつつあった。
アンジューは問題ない。旧領を全て与えてやるつもりだ。
ただ、ランス司教領を領域に含むシャンパーニュを与えるのは政治的に問題が多い。
そんな悩みを抱える王のもとに聖地からの使者が訪れた。



>「聖地エルサレムが真実の信仰に復しました」


エルサレム王国創設から12年。ついにパレスチナ一帯がカトリックに帰依したのである。
この報告がフィリップの心を決めた。

1106年7月30日。
ランス司教シャルルは聖地改宗の功績により大司教に昇格した。
フィリップはシャンパーニュ公領をランスに寄進し世俗の統治権を委ねる事を宣言。
ここにフランス初の大司教領、シャンパーニュ大司教領が誕生した。

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 シャンパーニュ大司教シャルル フィリップの幼馴染で宮廷司祭長でもある

>「アルノーには別の領地を用意してやらねばな…」

フィリップの目は南に向けられていた。


**バルセロナ聖戦 [#hc4dca4d]

1031年に後ウマイヤ朝が崩壊して以降、アンダルシアはいくつもの小国に分裂していた。
タイファと呼ばれるこれら首長たちは抗争にあけくれ、劣勢にあったキリスト教諸国に反撃の機会を与えることになる。
1107年現在レコンキスタは順調に推移しており、カスティーリャとレオンの両王国がムスリムを圧倒しつつあった。

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 1107年のイベリア半島
 
一時は強勢を誇りバルセロナ・バレンシアを支配下に置いたマヨルカ首長国も、バレンシアに対するアラゴン主導の聖戦に防戦一方となっており、ピレネーの守りは手薄になっている。

>「バルセロナを異教徒の手から解放する。神の栄光を知らしめるのだ!」

フランス軍は無人の野を行軍するようにバルセロナの地を蹂躙。
開戦からわずか1年で全てを占領下においた。

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1108年9月5日。
首長アーミルは降伏。バルセロナはフランスに編入された。
同日、フィリップはアルノー・ブロワをバルセロナ公に封じた。
北仏の名門ブロワ家はイベリアの地で新たな歴史を刻むことになる。

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 バルセロナ公アルノー 画像は後年のものです。


**晩年 [#s896fa4f]

1109年4月27日。
大臣エチエンヌが43歳で死去。
ラウルの後継者としてフィリップを支え続けた功臣であった。
後任の大臣にはベリー公ウードが任命されたが在任2週間で急死。
第二王子ジェローが後任の大臣となるがその在任期間も僅か1ヶ月であった。
1109年6月11日。ジェローの妻マオーがトゥアール伯を継承した為、妻の領国に旅立っていったのである。
ヘント市長ピーテルが大臣に就任することで落ち着いたが、ラウル、エチエンヌの後継者としては力不足であった。
同年12月7日には家令ライアンが58歳で他界した。
サンリ男爵領を継承した長男キナートは父以上の逸材で、父の家令職を受け継ぐことになる。

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 家令サンリ男爵キナート 父親譲りの天才

1年後には大臣ピーテルが死去し、にキナートは大臣に就任することになる。

相次ぐ側近たちの死はフィリップを弱気にさせていた。
自分ももう57歳になる。いつお迎えが来てもおかしくはない。
死後に王国が混乱することが無いようにしておかなくてはならない。
そんなフィリップを悩ませたのが封臣たちの動きであった。
彼らは政治的要求を実現するために徒党を組んで王に対抗しようとしている。
独立や王権の縮小を求める派閥もやっかいだが、最も困るのが王をすげ替えようとする動きだ。
特に、マコン女伯デニーズが結成した王弟ノルマンディー公ユーグを擁立する派閥が最も危険であった。

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 マコン女伯の不穏な動き

ユーグ本人に野心がなくとも、反乱の神輿にされてしまたら処罰せざるを得ない。
そうなってしまう前に対処する必要があった。

>「飴と鞭を使いわけていきましょう」

密偵長スヴェインは金品による懐柔と脅迫を駆使して派閥を内部崩壊させていった。
そして…

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 あっという間に派閥は弱体化


>「弟を処罰せずに済んで良かった…一族で相争うことだけはあってはならんのだ」

ブルターニュの長男アンリに宛てた手紙にはそう書かれていたという。

>「父はジュリアンの事を心配しているのか」

王位についたらブルターニュはジュリアンに与える事。これがフィリップとアンリの約束であった。
フィリップは約束が本当に履行されるのか心配なのだ。

1109年7月30日。
ノルマンディー家傍流の血を引くトゥルスタンが大軍を率いてイングランドに侵攻。
イングランド王エドガーはフィリップに救援を要請した。

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>「イングランドの王太子は娘婿。助太刀は当然であろう」

フィリップは快く応じ、フランドルに上陸したトゥルスタンの軍勢を迎え撃つべく全土の諸侯に動員令を発した。
しかし、王がその結末を見ることは無かった。

1110年2月19日。
フィリップ1世はパリ郊外のムラン城で崩御した。
享年58。その生涯は封建諸侯たちとの権力抗争にあけくれ、心安らぐ日々など無かったに違いない。


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**後世の評価 [#v822671b]

フィリップ1世の50年に及ぶ治世下でフランスの王権は飛躍的に高まった。
王権を圧迫していた七大公を筆頭とする諸侯たちは、相次ぐ粛清によりその権力を失い、カペー家に対抗できる家門は消滅した。
また十字軍の成功によりフランスの国際的地位を高からしめた事も評価してよいであろう。
治世後半にはブルターニュ、バルセロナを版図に加え、また婚姻政策で次世代以降のアキテーヌ、プロヴァンス併合にも道筋をつけた。
ただ、それら戦争で手にした冨は城塞や都市、教会の建築・設備投資にまわされた為、王は慢性的な財政難にあった。
しかしこれらの惜しみない投資こそが将来のフランスの繁栄に繋がっていくのである。
内政面では門地に拘らない実力主義の人材登用で宮廷の旧弊を打破した。
彼ら子飼いの顧問たちはその多くが男爵領を授かっており、その子孫は王家譜代の家臣団として王朝を支えていくことになる。


**あとがき [#nf783c64]

AIではいつもグダグダになるフランスですが人間が操作すると強いですね。HREが大人しかったから、という事情もありますが。
ちなみに暗殺は一度も使っていません。アキテーヌもプロヴァンスも本当に偶然の結果でした。
実は最初の1年目だけ何度もリロードしてますがそれを凌いでからはノーリロードです。
ひたすら家臣を取り潰す粛清プレイになってしまい読む方にはつまらないAARになったかもしれません。

続きはこれからプレイするので更新までしばらく時間をください。
よろしくお願いします。

TIME:"2014-04-06 (日) 20:53:52"

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