[[王朝序曲]] *フィリップ1世の治世 ・前半 [#q1441924] **北仏の騒乱 [#lcbc7b5a] 1067年11月12日、ノルマンディー公ギョームはイングランドを征服。 ウィリアム1世として戴冠した。 同時にフランス王の宗主権を拒否。独立を宣言した。 #ref(002_1067.jpg,nolink) 征服王ウィリアム1世 1067年11月16日。 摂政ラウルはこれを反逆とみなしノルマンディー再征服の王令を発した。 今のノルマン家にブリテン島と大陸領土をまとめて維持するだけの力は無いと判断したのだ。 年が明けて1068年1月3日。 フィリップは成人し親政を開始した。 ラウルは摂政の任を解かれたが引き続き大臣として王を補佐することになる。 #ref(003_1068.jpg,nolink) 成人したフィリップ1世 能力は平凡だが特に悪い特性も無くまずまずといったところか フィリップは親政開始と同時にヴァロワ公爵位を創設した。 その後も公爵位の創設は続き、1070年にはオルレアン公、1074年にはベリー公とオーヴェルニュ公、1075年にはブルボン公を新たに創設している。 ノルマンディー再征服戦争は終始フランス優勢に展開し、1069年11月6日にイングランドの全面降伏を持って集結した。 #ref(004_1069.jpg,nolink) ノルマンディー家は大陸から放逐されノルマンディー全土は王に帰するところとなった。 こうして七大公の最初の1人が消えた。 その10日後、フィリップは義父であり元帥でもあるアミアン伯に伯領の返上を命じる。 #ref(005_1069.jpg,nolink) 多くの諸侯を抱き込んだ周到な陰謀であったが伯は命令を拒み挙兵。 あっという間に鎮圧され伯領は没収された。 アミアン伯領を剥奪したフィリップは王権法の改定を宣言。 王は正当な理由があれば諸侯の所領を剥奪できるようになった。 その後もフィリップはパリ近辺の伯に難癖をつけては所領を奪っていくことになる。 1070年6月19日。 シャンパーニュ公ティボーの陰謀が発覚。 捕縛を逃れた公は公然と反旗を翻した。 #ref(006_1070.jpg,nolink) この瞬間をまっていた >「よくぞ取り逃がしてくれた!」 捕縛に失敗し処罰を覚悟して参内した元帥を、王は逆に褒め称えたという。 確かに王領は小さく直轄領の規模はシャンパーニュ公が優っている。 しかし、いかに強大な諸侯とはいえ単独で王を倒す事はできない。 王自身の所領は小さくても、王は封臣の兵力を動員できるからだ。 フィリップは全土の封臣に召集をかけ反逆者シャンパーニュ公の討伐を命じた。 1071年。官軍は圧倒的な物量でシャンパーニュ軍を圧倒しつつあった。 若き王も包囲軍を激励するためトロワへ向かう途上にある。 そこへ息を切らして駆けつける早馬があった。 >「陛下、一大事です!」 馬を乗り潰しながら駆けてきたのは若き修道士であった。 フィリップより3つ若いこの若者の名はシャルルという。 捨て子であったのを宮廷司祭長ジャスパールに拾われサン・ドニ修道院で育てられた。 フィリップにとっては幼馴染でもある。 >「一体どうしたのだ」 >「陛下、大変でございます。フランドル公が謀反を起こしました!」 >「なんだと!?」 #ref(007_1071.jpg,nolink) フランドル公謀反 #ref(008_1071.jpg,nolink) 南北から挟撃される官軍 >「陛下、シャンパーニュ公と講和を結ぶべきです」 従軍する諸侯の多くはシャンパーニュ討伐を望んでいない。 王権が強くなることを警戒しているからだ。 >「シャンパーニュにもはや叛意はありますまい。今はフランドル討伐に専念するべきです」 >「フランドルの背後には皇帝がいます。長期化すれば帝国の介入を招きかねません」 その思惑はともかく、諸侯たちの意見はいずれも正論には違いない。 だが、若き王がそれにのまれる事はなかった。 >「逆臣シャンパーニュは討伐する。もちろんフランドルもだ」 従軍する諸侯は失望した。 だがフィリップは、王室の財宝をばらまいてまで傭兵を雇い入れ官軍に編入した。 王はいかなる場合にも弱みを見せてはならない。 2年後の1073年2月24日。シャンパーニュは降伏した。 意気揚々とトロワに乗り込んだフィリップはそこで思いもよらぬ事実を知らされる事になった。 公ティボーは前年に他界しており、今まで戦っていた相手は息子のエチエンヌであったのだ。 #ref(009_1073.jpg,nolink) 称号を剥奪できない エチエンヌを反逆罪に問う事は封臣たちが納得しない。 フィリップはエチエンヌを無罪放免するより他なかった。 王の怒りはフランドルに向けられた。 フランドル諸都市も必死の抵抗を続けたが、1074年1月27日ついに官軍の軍門に下った。 **粛清の嵐 [#b33e5e84] 「追放を命ず」 勅命を伝え聞いた諸侯たちは蒼白になった。 フランドル公の全ての所領を没収し公は国外追放とする。 当時のフランスにおいて、貴族の特権を完全に奪い去るような処罰は考えられない事であった。 公位の剥奪は避けられないにせよ3つの伯領は安堵されるものだと、誰もが思っていたのだ。 諸侯の大半が反発した。 フィリップを暴君と罵り叛意を抱くものも多かった。 フィリップもその反応は想定していた。 しかし豊かなフランドルを王領に編入する事のメリットはそれを打ち消して余りあるものだ。 反乱したければすればいい。叩き潰して王家の所領に組み込むだけの事だ。 こうして七大公の2人目が消えた。 1074年2月9日。 フィリップは王弟ユーグをノルマンディー公に封じた。 また大臣ラウルにはモンフォール・ラムリ男爵領を与え長年の功に報いた。 #ref(010_1074.jpg,nolink) ノルマンディー公ユーグ 温厚で義理堅い彼は終生兄を支え続けた #ref(011_1074.jpg,nolink) 大臣モンフォール・ラムリ男爵ラウル 摂政・養育係として少年期のフィリップを支えた功臣 1075年1月10日。 フィリップ1世とアキテーヌ公女アイネスが結婚した。 #ref(012_1075.jpg,nolink) 男子が生まれれば南仏をも支配する強力な王が誕生するはずだ 話は前後するが1074年7月1日。フィリップは突如、アンジュー公ジョフロワの逮捕を命じた。 ジョフロワが破門された事が理由だが、それが所領剥奪の口実にすぎない事は誰の目にも明らかだった。 ジョフロワが破門されたのは10年以上も前なのだ。 フィリップの目論見どおりアンジュー公は捕縛を逃れ挙兵。 たちまち鎮圧され、伯領こそ安堵されたもののアンジュー公爵位は剥奪となった。 こうして七大公の3人目が消えた。 諸侯たちは戦慄した。 王の意図は明白だ。 諸侯の多くは元はといえばカペー家と同格のフランク貴族である。 彼ら旧来の諸侯を改易し王家とその子飼いの家臣にすげ替えていく。 諸侯たちの不満は募っていった… そして翌1078年12月27日。5年前に無罪放免されていたシャンパーニュ公エチエンヌの王位への陰謀が発覚。 #ref(013_1078.jpg,nolink) 王の捕縛を逃れたエチエンヌは反逆の狼煙を上げた。 >「馬鹿な奴だ。やはり蛙の子は蛙か」 反乱の知らせを受けたフィリップは満面の笑みを浮かべてこう呟いたと伝わる。 1080年2月13日。 シャンパーニュ公は降伏。公位は剥奪された。 同年9月にはシャルトル伯領も剥奪され、ブロワ家は僅かにトロワ伯領のみを保持する一伯爵に転落した。 こうして七大公の4人目が消えた。 なお、戦役中に王叔ブルゴーニュ公ロベールが病没し長男アンリが公領を継承している。 **イングランド情勢 [#ka4cc1d7] 1081年1月27日。 イングランドの征服王ウィリアム1世が54歳で崩御し、長男ロベールが王位を継承した。 ロベールの王妃エマはフィリップの妹でありここに英仏同盟が成立したかに見えた。 しかし同年8月29日。ロベールはスコットランドとの戦争で戦死してしまう。 享年27。わずか7ヶ月の在位であった。 ロベールの長女エジェリナが6歳で王位を継承するが、その地位は不安定でイングランドは混乱状態に陥る。 そして… #ref(014_1082.jpg,nolink) 1082年10月13日。エドワード懺悔王の甥孫(甥の子)エドガーが王位につきウェセックス王朝が復活した。 とはいえノルマンディー家はなおもブリテン島にいくつかの公、伯を保持しその勢力を維持している。 **新時代の予兆 [#xb3f7d5d] 1080年3月。 フィリップは2千人の騎士からなる国王直属の常備軍を編成した。 その後も常備軍の拡大は続けられ、数世紀後には欧州最強の軍隊に成長することになる。 #ref(015_1080.jpg,nolink) 馬上の王と大臣たち 1081年2月2日。 風采の上がらないケルト人が宮廷に現れた。 男の名はライアン・ミカエル。アイルランドの下級貴族出身。その財務の才は諸国でも評判となっていた。 ブルターニュ情勢の調査に赴いた大臣ラウル(この話は後に述べる)が、現地の商人からその噂を聞きつけパリに招聘したのだ。 フィリップはヴェルマンドワ伯に替えてライアンを家令に任じた。 #ref(016_1081.jpg,nolink) 家令ライアン・ミカエル 宮廷は困惑した。 実力主義の登用には大臣ラウルの前例もあるが、彼はまだしもフランク人であった。 だがライアンはアイルランド人。異邦人に王室の財産を任せてよいのか? しかしフィリップは意に介さずライアンを重用しつづけた。 そしてこれ以降、顧問団の主導権はラウルからライアンに移っていくのである。 1081年4月19日。 王位継承者となる長男アンリが誕生。 すでに王妃アイネスは父の遺領の全てを相続しており、次の世代には南仏の広大な所領が王家のものとなる事が確定した。 #ref(017_1081.jpg,nolink) 王太子アンリ 1083年3月6日。 フィリップは廃絶していたランス司教領の復興を宣言し幼馴染のシャルルを司教とした。 ランスは歴代国王の戴冠式が行われる場所で、王家にとってはサン・ドニとならぶ重要な名刹である。 なおシャルルはサン・ドニ司祭ジャスパールに替わり宮廷司祭長にも任ぜられた。 #ref(018_1083.jpg,nolink) ランス司教シャルル(スクショを撮り忘れたので画像は後年のものです) 1084年1月8日。 フィリップの治世中最後の大反乱が発生した。 ブルゴーニュ公アンリが王位を要求して挙兵。トゥールーズ公ギョームも反乱に加担し王国中を巻き込む大乱となった。 #ref(019_1084.jpg,nolink) かつてのカペー家なら王位は転覆されていただろう。 しかし今のフィリップは十数年前までの脆弱な王ではない。 相次ぐ諸侯の改易で拡大した王領は税収の増大をもたらし、常備軍と傭兵だけで公爵の2人くらいどうとでもなるようになっていた。 にも関わらず、王領からは一兵も出さなかった。 フィリップはフランス中の封臣に動員令を発し、封建召集軍の力だけで反乱を鎮圧したのだ。 反乱鎮圧に向かう官軍の中には公爵位を剥奪されたかつての七大公、アンジュー伯とトロワ伯の姿もあったという。 1086年1月29日。 ブルゴーニュ、トゥールーズ両公が降伏。 伯領は安堵されたものの公爵位は剥奪された。 こうして王妃アイネスを除き七大公の全てが消滅した。 フィリップ1世の治世・後半へ[[AAR/王朝序曲/フィリップ1世の治世・後半]] TIME:"2014-04-06 (日) 20:51:28"