プロヴァンス公Bertrand II世
妻Mathilde
次女Matilda
プロヴァンス公Bertrand II世は、ボソン家の血を引く最後の男子だった。フランクローマ皇帝も輩出した名門の血筋を絶やさぬためにも、子孫を残さねばならないのだ。
あわわわわ……。
そんなに慌ててどうしたんですか?
戦争になりそうなんだ。
戦争?こないだ行ってきたばかりじゃないの。
トスカーナ公がジェノヴァを攻めたからね。我々も負けてはいられなかったのさ。
それって、おこぼれに預かっただけって言うんじゃないの?
いずれにしても、ニースはいまやわが領土さ。あの土地は旧来、プロヴァンス領だからね。
そういってちゃっかりドーフィネ公にヴィエンヌを持っていかれたようだけどね。
「ドーフィネ*1」ってイルカのこと?聞いたこともなかった家名だけど、相手が皇帝陛下とあっては仕方がないでしょ。
言い訳はいいから。
でもヴィエンヌよりはニースの方が税収だって勝っているよ。
あそこは寺社領でしょ?税金は教皇様の所にいくだけなんじゃないの?
細かいことは気にしないで(汗)
……。それで、今度の戦争はそれと何が違うのさ。
トスカーナ公からのお誘いなのさ。「一緒に独立を勝ち取ろう」って訳さ。
おお!すごい!かっこいい!
い、いや……。断ったんだけどね。(迷っているうちに自動的に……。)
なんだ。見直して損したじゃない。
まさか、あの皇帝相手には戦えないよ。だから、今度の戦争ではウチは兵を出すつもりはないのさ。
格好良く格好悪いこと言うじゃない!見損なうわ。それで何だって言って慌ててたのさ。
皇帝直々の手紙でさ。私も出陣しないといけないみたいなんだ……
もう!そんなうじうじしないで、騎士らしく戦って来なさい!
まあ、そういうことにするよ。
Matildaにはまた寂しい思いをさせるけどね。
ほんと!この夏に産まれた時も、貴方、留守だったじゃない。
戦争を行うためには開戦理由(CB)が必要です。代表的なのものが爵位の請求(Claim)ですが、ゲーム開始時には捏造によるClaimや相続によるClaimはまだ獲得できていない場合が多いのです。一方、爵位ごとのde jureは1066年時点での領国とは若干ことなって設定されているため、これがずれた箇所にはゲーム開始時点から自動的にCBを持った状態になっています。こういう訳でde jureを要求する戦争は序盤から盛んに行われます。たとえば、プロヴァンス公はニースをde jureとしているのですが、ニースは1066年の状況ではジェノヴァに支配されているため、戦争に訴えて獲得することができるという訳です。ところが、プロヴァンスの兵力は1800程度なので、ジェノヴァに勝利するためには兵力を増強するなり傭兵を雇うことが必要になってきます。(そしてそれらのためにはまとまった資金が必要です。)そこで、資金の確保に勤しんでいた訳ですが、丁度わたりに綱とばかりに幸運な状況が巡ってきます。トスカーナ公がジェノヴァに勝利し、ジェノヴァを領有したことでニースはニース単独で独立する形になったのです。ニースは寺社領なので兵力も小さく、要塞のレベルも低いのでこの程度の兵力でも簡単に落とせます。そういう訳で、ニースは頂いてしまうことにしたのでした。
こちらがそういう理由で攻撃をするとなると、当然、同じ理由で守備に回ることもあり得ます。ヴィエンヌは1066年の時点ではプロヴァンス領ですがde jureは「ドーフィネ公領」となっています。ドーフィネという名称は14世紀以降のものだと思うので違和感がないことはないのですが、新たな公爵領を設定したいという意向で皇帝に召し上げられてしまいました。
ところで、南仏や北伊の大部分はゲーム開始時点では神聖ローマ帝国のde jure領ではありません。このため、独立を求める叛乱が非常におこりやすくなっているようで*2、1074年にホラント公Dirkが首謀した分離独立を求める叛乱に呼応したのはほとんどが北伊の諸侯という状況になりました。
地図を見れば分かる通り、北伊地域の諸侯はほとんどが皇帝に反旗を翻しています。兵力の面でも皇帝の動員できる兵力を凌駕しており、独立の達成は実現できそうな状況です。ここで容易に独立を選択できないのは、プロヴァンスの置かれた地域的な状況から来ています。プロヴァンスはドイツとフランスに挟まれた形になっており、むやみに神聖ローマ帝国から離脱しては、フランスに狙われてしまう可能性が高いでしょう。少なくとも一定以上の防衛力を持たない限り、帝国の傘下で守られていたほうが有利だということは間違いなく、時期尚早の独立は選択しませんでした。
ドーファンはフランス語でイルカを意味します。ヴィエンヌを領したアルボン伯ギグ4世(1095-1142)がイルカの紋章を用いたのが「ドーフィネ」の由来とされます。ヴィエンヌ伯は歴代ドーフィネを名乗るようになりますが、当初は称号というよりは寧ろ家名に近い形で用いられていました。14世紀に入り、ヴィエンヌ伯が継嗣断絶すると、「ドーフィネ」の名称は名誉称号としてフランス王家に売却され、フランス皇太子の称号と取り決められました。