・ver1.06 ・Normal ・1337.1.1 ・Duke of Gwynedd
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グイネド公エドワード。6歳。 イングランド王にしてウェールズ王、エドワード3世の長男。 のちのエドワード黒太子。
少年は大志を抱く。
1337年秋、父エドワード3世は軍をおこしてドーヴァ海峡をわたり、フランスに侵入した。 これよりさき、フランス王国ではカペー家からヴァロア家への王朝交代が起こっており、カペー家の血筋をひくエドワード3世はかねてよりフランス王位を僭称していた。
このいくさに勝利すれば、エドワード3世はフランス王位を戴冠できよう。
エドワード3世の遠征
グイネド公エドワード少年はこのとき6歳。 まだ幼く、グイネドの宮廷で夢見心地の少年時代をおくっていた。
1337年シナリオでは、イングランドとフランスの間にはさほど戦力差はない。 しかし自国領土でたたかうフランスと、他国領土、しかも海を挟んだ地でたたかうイングランドでは、兵站や兵力の集中に大きな差がしょうじる。
したがって10回やれば7~8回はフランスが勝利することになるのだが*1、・・・今回はというと。
イングランド軍のフランス侵略図
エドワード3世はカレー、ノルマンディー、そして南部のアキテーヌと三方向からフランスに侵入。 都合のいいことに中部フランスでフランス貴族の反乱がおこり、フランス王はそちらにも兵力を割けなければならなくなる。
また、エドワード3世は神聖ローマ帝国と同盟。 神聖ローマ帝国軍が国境を越えてパリ東部に圧力をかけた。
1340年のフランス。イングランド軍の占領地、神聖ローマ帝国の占領地、中部フランスの反乱に注目。
フランス王シャルル2世は敗北した。
エドワード3世はフランス王位を戴冠。
ここにイングランド-フランス王国が成立した。
イングランド-フランス王国。
しかしこれに反発したフランス貴族たちは、以後さみだれ式にエドワード3世に対して反乱をおこすこととなる。
オーベルニュー公、
ブングルディ公、
トゥレーヌ公、
フォックス公、
リヨン公、
アンジュー公、
ノルマンディー公、
ボルドウィン公、
アウクサ公、
そしてフランドル公といった、
要するにほとんどすべてのフランス公爵が時間を前後して反乱に決起したのだ。
フランスの内乱。
鎮圧しても、また別の陰謀がたくらまれる。
そのなかでも特にフランドル公爵の反乱は特筆すべきである。
フランドル地方は毛織物業が発達しており、フランス経済の中心地で、イングランド経済にも影響を与えていた。 またフランドル公爵は毛織物の税収からくる潤沢な資金によってローマ教皇と太いコネクションを維持しており、破門をちらつかせてエドワード3世をゆさぶった。 しかしエドワード3世はローマ教皇の調停を無視してフランドル地方に鎮圧の軍を差し向けたため、教皇によって破門されてしまった。
こうした苦難にも負けず、エドワード3世は1347年にはフランスにおける公爵の反乱をほぼすべて鎮圧した。
1347年のフランス。ブングルディ公のみが独立を達成したが、ほかのすべての反乱公爵は鎮圧され投獄された。
イングランドとフランスに王権を打ち建てたエドワード3世は、「GREAT」の称号を得た。
エドワード黒太子。明敏で誠実な人柄に育った。
グイネド公エドワードは16歳になっていた。 彼は漆黒の甲冑に身を包み、「黒太子」と呼ばれるようになった。
父であるエドワード4世はフランスで断続的に続くフランク貴族たちの反乱鎮圧に忙しかった。
黒太子はしばしば海をわたって父を助けた。 6000の寡兵をもって縦横無尽に反乱軍を撃破するその用兵に、フランク貴族はおそれおののいた。
1358-1364。フランスで再び公爵たちの反乱がおこる。
トゥルーズ公、
ブルボン公、
ブングルディ公、
フランダース公、
オウベルニュ公、
オルレアン公、
すなわち以前の反乱で敗北したフランク貴族たちが、またぞろ謀議してさみだれ式に反乱をおこした。
背後にはフランス王位の奪回をもくろむヴァロア家と、これとむすびつくローマ教皇の影があった。
黒太子はほうぼうでフランク貴族の反乱を打ち破った。
エドワード3世、そして黒太子の軍隊はほうぼうで反乱を打ち破った。
しかし反乱鎮圧のためにイングランドの宮廷をながく空けるエドワード3世に、イングランド貴族の不満もまた高まっていた。
陰謀をめぐらすイングランド貴族
イングランド貴族は権力の中心がフランスにうつることを好ましく思っていなかった。 また、彼らはローマ教皇と敵対する気もなかった。教皇によって破門されたエドワード3世に従っていると、自分たちまで破門されるのではないかと恐れたのだ。
エドワード黒太子はグイネドの帰国したとき、はじめてこの陰謀を知った。
「黒太子さま、イングランド王には、あなたさまこそが相応しい」
イングランド貴族のささやきに、黒太子は仰天した。
「わたしは父を裏切ることなど考えておらぬ」
「しかしこのままではわが王国はキリスト教世界から隔絶されてしまいます。ローマ教皇と和解できるのはあなたしかいません」
「むむむ...。」
「もしも御父君が『事故』で亡くなられたら、いずれにせよあなたが王位を継ぐのです」
黒太子は陰謀の網の目に組み込まれた。
さらに、このイングランド貴族の陰謀の黒幕は、黒太子にとって意外な人物だった。
イングランド王妃。陰謀の黒幕。
「母上が、この陰謀に加担していたのですか? なにゆえ...。」
「エドワードよ、すべては、このイングランドとキリスト教世界のためなのです」
一方、フランスでは。
フランスではエドワード3世の無慈悲な暴力によってすべての武力反乱が打ち砕かれた。
フランク貴族たちはうちひしがれ、お互いの肩になだれかかってこの暴君にどのようにせっしたらよいかを協議しあった。
「エドワード3世はつよい。戦争では勝ち目がない。」
「ヴァロア家の復位はもはやかなわぬ夢なのか」
いや、そうではなかった。
戦争でだめなら、陰謀がある。
こうして、フランスでもまた別の陰謀がもくろまれることになったのである。
1366年、黒太子の母、イングランド王妃がペストのため死んだ。
王妃を中心にしてたくらまれていた、エドワード3世暗殺計画はこれで頓挫したかに見えた。
しかし、陰謀はつぎは黒太子を中心にしてすすめられた。 1369年には、大陸でみたびフランク貴族が反乱をおこし、エドワード3世が出征した。 王の不在によってイングランド貴族のあいだで陰謀の網の目がまたたくまに拡大した。
1369年時点での陰謀の進行。139%となっている。
1370年の「イングランド火薬庫事件」。失敗に終わる。
1372年の「バルコニーの謀議」。この陰謀も失敗に終わった。
幾度もの暗殺計画が実行にうつされたが、いずれも事前に露見するか、実行に失敗するかしてエドワード3世暗殺は果たせなかった。
そうこうしているあいだに、エドワード3世がフランスの反乱を鎮圧して帰国し、陰謀は下火となった*2。
打ち破られたフランク貴族たちは、武力反乱を諦め、フランス王位にみずからの旧主-ヴァロア家のものを復位させようという陰謀をたくらんだ。
1372年、かつてのフランス王シャルル2世の孫であるアダルマデ女公がフランク貴族たちによってフランス王に推戴された。
えっ?
北フランスにヴァロア朝フランス王国が再興
アダルマデ女王。シャルル2世の孫娘、百年戦争でエドワード3世とたたかったジャンの一人娘。
エドワード3世は激怒してアダルマデの討伐軍をおこそうとしたが、イングランド貴族の陰謀が地下で進行中だったために宮廷を離れられなかった。
アダルマデ女王はナヴァラ王国やブルターニュ公国と同盟をむすび、ローマ教皇の後ろ盾を得ながら、ヴァロア朝の復古を満喫した。
エドワード3世は不屈の闘将であり、イングランドの比類なき王だった。しかし...。
陰謀が王を討った。
「エセックスの崖事件」。
エドワード3世、「事故死」。
イングランド貴族たちは、ローマ教皇に敵対したエドワード3世を許さなかった。 彼らはエドワード3世の嫡男エドワード黒太子を神輿にして3世を暗殺する。
1374年、エドワード4世、即位。「国王 Black King」と称された。
この情勢を見て、兵をあげたのがフランドル公だった。 フランドル公はフランス女王やローマ教皇とむすんで反乱の火の手をあげ、教皇に賄賂をおくってエドワード黒王を破門させた。
黒王はすぐさまドーヴァ海峡をわたってフランドル公を討ち、教皇に使者をおくって赦免を願った。 教皇はあくまでフランス派だったが、赦免を拒絶するとエドワード黒王はアダルナゼ女王を討ちかねない勢いだったので妥協し、黒王の破門をといた。
これが三度目のフランドル公の反乱の顛末である。梟雄フランドル公はのちロンドンの地下牢で獄死した。
エドワード黒王のイベリア遠征
1380年、エドワード国王は同盟していたアラゴン王国の援軍要請におうじ、ピレネー山脈を越えてイベリアに侵入した。 アラゴン王国の継承問題で反乱したアラゴン公爵と、これを支援するサルデーニャ公爵を討つ戦争だった。 黒王は20000の軍勢を差し向け、アラゴン公とサルデーニャ公の軍隊を各地で打ち負かした。
同盟者との信義をまもるという評判がたち、この戦争によってエドワード国王は「GENTLE」の称号を得た。
フランスの救国の英雄、たつ
1384年、フランスの田舎町ドンレミィで一人の少女が愛国の観念にめざめた。 彼女はフランスは他国の支配をうけるべきではなく、すべてのフランク人はアダルナゼ女王の旗下にはせさんじてイングランドに対する独立戦争をたたかうべきだと考えた。 彼女は村々で信奉者をえて、「ラ・ピュセル」と称されながら、愛国の一団を率いてパリへ入城した。
フランス女王アダルナゼは当初、このラピュセルを信用していなかったが、彼女のおこす数々の奇跡に幻惑され、いまやフランスが外国軍を打ち破る機会がきたと信じた。 アダルナゼ女王はフランス貴族たちに檄をとばし、いまこそフランク人はたつべきときだと主張した。
エドワード黒王はこうしたフランク人の愛国の感情をこころよく思わず、きせんを制してパリを占領し、アダルナゼ女王からフランス王位を剥奪しようと考えた。
「そもそも、父上があのアダルナゼに譲歩してフランス王位を僭称させるままにしたのがいけなかったのだ。わしはちがうぞ。父上ほどには甘くない。」
こうして百年戦争が再開された。
イングランド軍の侵攻路
イングランド軍は三方向からフランス王国に侵入し、各地で攻城戦を開始した。
これに対してフランス軍は15000の兵力をととのえ、反撃のかまえを見せた。
フランス軍はパリ北部の城を包囲していたイングランドの地方部隊にねらいをさだめ、進撃した。 当初はフランス軍15000vsイングランド軍8000という戦力差で、フランス軍が優勢だった。
これに対してエドワード黒王はイングランドで30000の戦力を編成し、ドーヴァ海峡をわたってこのフランス軍の主力を撃破しようとこころみた。
エドワード黒王はフランドルに上陸して、一路パリ北部に戦力を集中させた。
パリ近郊のたたかい
ラ・ピュセルの神通力はこなごなに打ち砕かれた。
フランス軍15000はイングランド軍35000にさんざんに打ち破られ、ラ・ピュセルや多数のフランク貴族が戦死した。
アダルナゼ女王はこのしらせをうけて顔面蒼白となり、イングランド軍がせまるパリから逃げ出してイタリアへ亡命した。
女王はローマで教皇に訴え、黒王を破門させたが、黒王はそんなことはおかまいなしにフランス王国の攻略を継続した。
1386年にはフランス王国の十数の城がイングランド軍によって開城させられ、王国は崩壊した。
アダルナゼの王国は滅亡し、エドワード国王はふたたびイングランド-フランス王国の両王位を戴冠した。
ローマ教皇はフランス王国の崩壊をうけて、苦々しい思いをかみしめながら黒王を赦免した。
1388年、エドワード黒王は57歳になっていた。 彼は自分の死期が近いことをさとり、ややシニカルになっていた。 しかし彼の精神は衰えておらず、断続的におこるフランク貴族たちの反乱をすべて無慈悲に打ち砕いた。
1391年、エドワード黒王は60歳で亡くなった。
エドワード黒王、死去。享年60。
エドワード黒王の死後、イングランドとフランスの王位はかれの孫であるエドワード5世が継承した*3。
フランク貴族たちはこのあたらしい王に対する敵意を隠しておらず、反乱の機運をみなぎらせており、また地下ではヴァロア家の復位の陰謀がふたたび進行していた。
プランタジネット家によるフランス王位の支配は予断を許さぬ状況にある。
(おわり)