1219年の首都陥落以降、失意の日々(月収1.5G)を過ごしてきたJohnny D帝だったが、 1237年、突如として北西アフリカのムラービト朝への聖戦を宣言、侵攻を開始する。
1237年と1248年に2度侵攻し、圧勝。Johnny D帝はマラケシュ公領およびジブラルタル海峡の肥沃な土地を直轄領とすることに成功する。
(アフリカの領土は全部直轄。)
また、同1248年には義兄弟かつ義理の叔父であったシチリア王に宣戦布告、妻Nasibaをシチリア王位に就ける。
(妻Nasiba。王位につけた瞬間シチリアはアルマクディスに併合された。)
さらに勢いに乗ったJohnny Dは翌年、自らのアラゴン王位を主張し、アラゴン王国に侵攻。
幼王Bernatを退位させ、みずからアラゴン王を名乗る。
(1249年、アラゴン王冠戦争中のJohnny D帝。
使い込んだら凄いムキムキに。彼の心にかかった暗雲(depressed)はイェルサレムを奪還するまで晴れることはないのだろう。)
アフリカ、およびシチリア領の獲得で地中海帝国の性質を帯び始めた帝国。 しかし、東方では防戦一方であり、1245年にはシリアの領土も失い、帝国に残されていた東方領はアナトリアだけであった。 1257年にはアラビア半島の付け根のアラビア公領を失陥。 そして1260年、その時は訪れようとしていた...。
つづく Deus Vult!/決戦