本AARはカロリング朝以来の旧来の名家であったボソン家の再興を描いた妄想年代記です。当然ながら、現実の歴史用語とは異なる語彙を多数含みますので、ここにまとめて掲載することとします。
プロヴァンス女公Matildaの長男Rudgerの家系。Rudgerの妻がアンコナ女公であったことから代々アンコナ公位を継承することとなったが、3代で男系は断絶した。
プロヴァンス女公Matildaの次男でその武勇から「プロヴァンスの猛牛」と称されたGautierが封じられたことに端を発する家系。ボソン家は次の代でノイエンベルク家の男系を受け入れているため、男系がノイエンベルク家に行き着かない家系としては唯一後世にまでその血筋を残していることとなる。(Gautierの父はアラゴン王子であり、厳密な意味での男系ではイベリア系ヒメノ家の血を汲んでいるといえる。)
プロヴァンス女公Bonaの長男Ponsの子孫の家系。Ponsの死は暗殺であったともされるが、母Bonaの存命中に死去したこともあり、公位は弟のGuilhemへと受け継がれることとなった。Ponsの家系はPonsの妻、Eriaを経由してシチリア王位を受け継ぎ、シチリアにボソン朝を打ち立てた。王権は弱く、度重なる内乱に苦しまされた。
1116年、ザーリアー朝最後の皇帝となったWolfgangが戦場での傷を悪化させて死去した。遺児はいずれも未成年で、帝位の相続は諸侯たちに認められず、スイス西部ヌーシャテルの在地貴族であった上ブルグンド公Ruprechtが皇帝に選ばれた。成人したWolfgangの息子たちの反乱を鎮圧したRuprechtは支配の地盤を固め、4代にわたる王朝の基礎を築き、大帝と称される。なお、ボソン家はBonaがRuprecht大帝の息子を婿に迎えており、Guilhem以降の代では厳密な意味の男系ではノイエンブルク家に属することとなる。ノイエンブルク家、ボソン家の双方がブルグンド王国内に出自を持つことから、この両者を区別せず「ブルグンド朝」と称する場合もある。Leopold帝がエルサレム王国の防衛戦にて戦死し、断絶した。
1228年、Leopold残忍帝がエルサレム王国の防衛戦に斃れると、ノイエンブルク朝は断絶した。帝国を継承したのはロンバルディア公Lutbertであった。Lutbertは在地貴族の出身で、正式な家名はvon Wettinであるが、あまり知られていないこともあり、この系統は「ロンバルディア朝」と称される。