AAR/世界征服の野望(アイスランド編)

 

     hat.jpg  前回のあらすじ  hat.jpg

不世出の名将アスランが島国から抜け出し征服戦争を開始しました、そして遂には栄光あるノースの指導者の初代フィルキルに就任しました。その後は、国内の他族から領地を奪い一門にのみ分配、暴君と化すも逆らえる者はなく安定した時代を送った。しかし一門の数が未だ少ないため、新たに領土を獲得する事は無かった(家訓であるドレイク家のドレイク家によるドレイク家のためだけの政治をするため他族は入れない)

     hat.jpg  4代目ヒューイ王  hat.jpg

4代目のヒューイ王はアスラン王の弟君のただ一人の息子として生まれた、しかしヒューイ王の父はわずか30歳の若さで病気にかかり死亡、この時アスラン王はまだ即位6年目であり、唯一領土を与えられなかった兄弟となってしまった。あわれに思ったアスラン王はヒューイを引き取り自らの手で養育した。ヒューイは逞しく成長し(不世出の将軍になった)、アスラン王の子息を押しのけ次期後継者と言われるまでになった。(この時アスラン王は一時、ヒューイを殺害する意志を見せるも一門の繁栄のため断念している。) そして641年にアスラン王が崩御し、41歳で王位を就いたのである。特に軍事に優れ、またその他の能力にも秀でていた。英雄アスラン王が手塩にかけ育てた愛弟子である。   肖像画は60歳の時の物です。(欠損等により能力が低下しています。)

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     hat.jpg  従兄弟の王  hat.jpg

ヒューイ王が即位して1月も経たず事件は起きた、アスラン王の実子(奇しくも同じ名のヒューイ)が多くの親族を連れ独立したのである。 ヒューイ王はすぐには独立国の成敗には向う事ができなかった、アスラン王から引き継いだ召集軍8000がイギリスで略奪中であったためである。(ヒューイ王がアスラン王の実子に配慮し独立を認めたとも言われる。) しかし、独立からわずか半年でアスラン王の実子は崩御した。

アスラン王の実子の肖像画  

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新たに即位したのは初代当主の娘の子のスターラである。何故女系の子が即位できたか、それは初代当主が陰謀渦巻くアイスランドで直系が滅亡した時のため婿養子婚をしていたためである。 スターラ王と分裂アイスランド王国  

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女系の子に遠慮は無用と、すぐさまヒューイ王は宣戦布告をし8000の軍勢を率いて成敗に向かったが、スターラ王はわずかな軍しか招集しなかったため、野戦で決定的な勝利を収められなかった、そのため篭城戦が展開され5年もの年月を費やした。

     hat.jpg  アイスランド帝国 建国への道  hat.jpg

ヒューイ王はスターラ王を討伐した事により2王を戴冠した。しかし、それは将来王国が分裂する事を意味していた。 ヒューイ王はこの時、帝位につく事を決心したと言われる。しかし、すでに46歳のヒューイ王はいつ崩御しても不思議でないため決意を周りの者には明かさず、ただ征服戦争を再開するとだけ告げたと言われる。 それから15年、アイスランド王国軍はイギリスを席巻していた。

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さらに2年後、ヒューイ王をブリタニア帝国の皇帝に推戴したいとイギリス諸侯が申し入れたが、アイスランド帝国の皇帝以外は成るつもりはないと却下した。(実際は家訓により就く事ができなかった)

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ヒューイ王の日記が発見され、この時ヒューイ王はブリタニア皇帝に就きたくてしかたなかったらしい、すでに60代のヒューイ王は今一度、一族のイギリス諸侯が推戴すればブリタニア帝国を建国するつもりであったが、家訓を知る親族が2度目の推戴を取り止めた事を知り大層がっかりしたと記述されている。

さらに半年後、ついにヒューイ王の名声は天下に鳴り響き新帝国の建国を民たちが要請しヒューイ王は快く承認、アイスランド帝国ドレイク朝が建国されたのである。

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それから1年4カ月後の864年、ヒューイ皇帝は朕は王国の分裂を防ぐため至高の帝位に就いたのだと笑みを浮かべながら崩御した。 しかし、ヒューイ皇帝は部族の法律を理解していなかったようだ、たとえ帝国の慣習的臣下の王であっても息子達が独立してしまう事を。ヒューイ皇帝が崩御した日、ヒューイ皇帝の思惑に反し息子達は独立し帝国は分裂してしまった。

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     hat.jpg  お知らせ  hat.jpg

5代目から設定を元に戻したいと思います(宗教改造とか)、また思うままにプレイすれば世界征服は当然だと思うので、当主の能力が悪いときなどはペナルティを加えたいと思います(悪魔つき=理不尽な投獄や処刑など)


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