アマデウスは危機感を持っていた。レオポルト2世が亡くなり、幼いエルンストがオーストリア公エルンスト2世としてバベンベルグ家の当主となったが、 この緊迫した情勢下でまずはバベンベルグ家の地位の安定を図らなければならない。 そこで、かねてより話のあったバヴァリア公爵家の次女インゲとの婚約話を進め、ひとまずバヴァリア公爵ハインリヒ3世を後ろ盾とした。
エルンストの姉であるコティルダには、遠縁にあたるスーザ公爵家の三男へルマン・フォン・バベンベルグ16才を婿に迎えた。 ヘルマンは策略能力に長けており、摂政アマデウスはヘルマンを密偵頭に任命した。アマデウスは、ヘルマンを自分の後継者として エルンストの相談役とするつもりであった。そして、万が一、エルンストが早逝した場合に備えて、男系のバベンベルグ家の血を守るためにも コティルダに婿を迎える必要があったのだ。
密偵頭をヘルマンに譲ったエックハルトはその直後、梅毒により死亡した。
1092年2月。エルンストは16才となり、アマデウスの摂政政治は終結した。摂政政治終了後、エルンストの近侍が、国庫の金が不自然に減っており、 摂政アマデウスが横領したのではないかとエルンストに伝えた。
これに対し、エルンストは「アマデウスはこれまでも、そしてこれからもバベンベルグ家のために働いてくれるのだ。 その程度の金は気にすることはない」と言って、一笑に付した。
アマデウスは成人したエルンストに言った。「10年。10年は何もせず、じっと我慢です。仮に20年待ったとしても、閣下は36才。 貴方のお父様レオポルト公が即位したのと同じ年です」 エルンストは凡庸ではあったが、その長所は待つことが出来ることだった。 しかし、エルンストが待つ期間は20年では済まなくなるとはこの時点では知る由ももなかった・・・。
1092年9月。エルンストの母ルイトガルトがアキレア司教領の後継者エンゲルベルト・スパネム・オルテンブルグが婿に迎えた。
エルンストの母ルイトガルトは亡夫レオポルトが不貞をしていたこともあり、1年間喪に服した後、すぐに婚姻を望み、 エルンストもその希望に応じた。一年後、エルンストの義弟が産まれた。
アマデウスは密偵頭のヘルマンにチエムガウ家からシュタイアーマルク伯の地位の剥奪するよう命じた。シュタイアーマルク伯は オーストリア公の家臣ではあるが、チエムガウ家はバベンベルグ家に対し、面従腹背の姿勢を続けていた。
1094年。隣国ハンガリー王国の国境を接するヴァシュ伯爵がエスターライヒの請求権を捏造していることが判明した。 内乱続きのハンガリー王国はこの頃スロヴェニア公爵と戦争状態にあったものの、王国内は不世出の戦略家である26才の若き王ベラ2世の元でまとまっていた。
エスターライヒ州に入り込んでいたヴァシュ伯の宰相は暗殺して請求権捏造は阻止したものの、万が一ハンガリー王国が 神聖ローマ帝国と戦端を開いた場合、両国の和睦条件によってはエスターライヒがハンガリー王国に割譲されるおそれもある。
そこで、エルンストは事実上の人質としてまだ6歳の妹バルバラをハンガリー王国随一の実力者と言われるぺクス公爵にして 王国宰相を務めるイムレ1世の末弟と婚約をさせた。ヴァシュ伯爵はイムレ1世の家臣でもあり、これで危険はひとまず避けられた。
1095年11月。後継者となるであろうレオポルト誕生。
周辺状況は変わらず。関係する新たなプレーヤーとしては、バヴァリア公領の西のラインフェルデン家のスワビア公領、 北イタリアに割拠するエステ家のロンバルディア公とその西にあるバベンベルグ家のスーザ公領がある。 東にはハンガリー王国のアルミド家のエステルゴム公領、ポトゥ家のぺクス公領、クロアチア王国のトリピミロヴィッチ家のスロヴェニア公領がある。
1097年1月。エルンストは、成人から5年が経過した記念に領内の家臣を招き宴を開いた。この宴の裏の目的は、 シュタイアーマルク伯オタカルを招くことであった。チエムガウ家がオーストリア公の家臣となってから10年が経過していたが、 シュタイアーマルク伯がウィーンを訪れたのは10年ぶりのことであった。 当時のシュタイアーマルク伯オタカルはすでに亡く、その後を継いだアルダベロも昨年亡くなっており、ウィーンを訪れたのは 先々代のオタカルの孫のオタカルであり、エルンストより2才年上だった。オタカルはその宴の場で、シュタイアーマルク伯就任を祝う エルンストの杯を受けることを拒否し、宴の途中で退室した。バベンベルグ家とチエムガウ家の仲を修復する目的の宴は、 かえってその関係を悪化するものとなってしまった。
さらに、バベンベルグ家に激震が走る。密偵頭のヘルマンから、エルンストの姉コティルダがバベンベルグ家の後継者である レオポルトの暗殺の陰謀を図っていたとの報告がなされたのだ。エルンストはアマデウスに相談し、事は公にせずコティルダを 説得することにした。ヘルマンはコティルダを説得し陰謀を断念させた。
1197年11月。ケルンテン州に派遣されていた宰相オットーがケルンテン州の請求権のねつ造に成功した。 ケルンテン州はシュタイアーマルク州の南、次にバベンベルグ家が目標とする土地であった。エルンストはアマデウスに戦争の準備をすべきか尋ねた。 評議会の中では宰相オットー、元帥ベレンガルは主戦派であったが、アマデウス静かに首を振った。「まだ機は熟しておりません」
この時、ケルンテン公は先代のクリームヒルトは既に亡く、ツェーリング家からビルン家に継承され、クリームヒルトの娘で未成年の ベアトリクスがその地位にあった。エルンストは、長男レオポルトとの婚姻も提案したが、ケルンテン公はこれに応じなかった。
1098年2月。レオポルト暗殺を試みたエルンストの姉コティルダは闘病の末、23才で死亡した。
1101年4月。密偵頭であったヘルマンが妻コティルダの死から3年後、25才の若さで自然死。アマデウスは自らの片腕であり、 今後のバベンベルグ家を背負うであろう者が死んだことを深く悲しんだ。バベンベルグ家としても、スーザ・バベンベルグ家と オーストリア・バベンベルグ家とを繋げる二人の間の子が産まれなかったことは不幸であった。
しかし、いつまでも悲しんでいる場合ではなかった。小国の立場では、いち早く陰謀に気付く必要があり、密偵頭の存在は重要であった。 アマデウスは自ら次の密偵頭に相応しい人物を探した。
白羽の矢が立ったのは、パドヴァの宮廷に居たイタリア貴族のアルボイノ・ディ・エステルゴムであった。 アルボイノはエステルゴム男爵家の次男であり、アマデウスの誘いに応じてウィーンの宮廷にやって来た。
新参のイタリア貴族に密偵頭を任せることに抵抗がなかったわけではないが、アマデウスはこれを強行した。 アマデウスは居並ぶ廷臣を見回し、こう言い放った。「この宮廷にアルボイノ以上の人材はおらん」エルンストも彼の人柄を気に入り、 アマデウスの娘でバベンベルグ家の親族であるゼルヒルダとの婚姻を認めた。
1102年12月。エルンストの長女ウルリケとボヘミア王国のモラヴィア公爵の長男コンラッドと婚約。 政略結婚による同盟関係の構築は継続して行われていた。
1106年、マッガ家の一族郎党がウィーンの宮廷に流れ着いた。彼らはラップランドという遠い異国からやって来て、スオメヌスコという異教を信じていた。
彼らがなぜウィーンを訪れたのかは当初は不明であった。そもそも、言葉が通じなかった。それでも、通訳を介して徐々に意思疎通を図ってみると、 彼らはスカンジナビア半島のラップランドという地を領有していたが、ノルウェー王国に滅ぼされ、その地を追われたとのことであった。 その後も、彼らは、ウィーンの宮廷にはめったに来ることはなかったが、戦争の際には協力することを約し、バベンベルグ家の食客として臣下の礼を行った。
1106年9月、ストレスのため元帥ベレンガルが50才で死去した。1076年にウィーンに招かれて以来、30年の間、バベンベルグ家三代に仕え、 ローマ帝国軍人として戦地を転戦してきたが、バベンベルグ家元帥として、バベンベルグ家の戦争を行ったのはシュタイアーマルクを めぐる戦争の一度のみであった。エルンストは自分が産まれる前から元帥だったベレンガルの死を悼むとともに、彼に十分な活躍の場を 与えることが出来なかったことを悔やんだ。後任は、アマデウスの長男ゴッドフリートが就任した。
1109年11月。エルンストは疲れていた。親政を開始してから17年が経過したが、未だ何もなしていなかった。 シュタイアーマルク州剥奪の陰謀もヘルマンの死後、アルボイノが引き継いだが、未だ実現していなかった。そんな時、エルンストは 一時の迷いから叔父アダルベルドの後妻となっていたベルタ・フォン・ラヴァントと関係を持ってしまった。
そして、父レオポルトと同じく親子二代、不義の子を設けてしまったのだ。エルンストは父と同じく非嫡出子としてハートヴィグを処遇した。
1110年12月。アマデウスとエルンストは長年の懸案事項だったオーストリア公を継ぐ後継者レオポルトの結婚相手をようやく決めた。 ケルンテン公爵家の家臣イストリア伯爵ウルリヒの長女で、この時点におけるクライン伯爵領の後継者であるアデルハイトであった。
1111年11月。レオポルトは成人した。
世間知らずの甘ちゃん、魅力的、狂信的、公正、勤勉。これまでの当主と比べるとましな方。
エルンスト2世がオーストリア公爵となってから、20年。戦争もなく、領土の増減はない。未だ、雌伏の時は続いていた・・・。
~続く~
戦争もなく派手なことは起きておりません。 それでも、書きようがあるのがCK2の面白いところかなと。 今後も大したことがなくても大げさにするAARを目指していきます。 ちなみに、治世の後半は躍進する予定です。