ときに無名の人物が国政を左右することがある。
・ver2.206 ・難易度はNormal ・1323.12.31*1 ・Ottoman Sultanate
初代オスマン。詩人でもあった。
オスマン帝国の開祖オスマンは1324年、自分の死期を悟ってメッカ巡礼に旅立った。 そこで彼は一人の卑賤の者と出会うことになる。この者の名をバハディールという。 この者はオスマンに伴ってアナトリア半島に戻ってきた。 開祖オスマンはメッカ巡礼の旅で不具となり、そのまま死んだ。
二代目オルハン。史実の人物。
二代目オルハンはアナトリア半島の征服事業に勤しんだ。 彼の密偵頭ブラクはよく言って無能で、アナトリア半島の征服事業の任務に耐えられなかった。
あまり有能ではない密偵頭。
「私のほうが密偵頭に相応しい。」
オルハンは父の幕僚のなかに「稀代の黒幕」を見つけた。それがバハディールであった。 オルハンはさっそく彼を密偵頭に任命し、アナトリア半島の征服事業の片腕として扱った。
オスマン軍のアナトリア征服運動
だがその途上でオルハンは陰謀に倒れる。
「スルタンオルハンは死ぬ!」
これは奇妙な陰謀だった。 歴史家たちはこの不可解な死の真の下手人について議論をたたかわせてきた。しかし答えはでなかった。 オルハンの死亡は誰が見ても不可解な状況で行われていたが、暗殺者が誰なのかは判明しなかった。 普通、こうした事件の犯人は後継者である息子というのが相場であるが、後継者は未成年で陰謀のプロットを組むことができない。 歴史家たちはつぎに怪しい人物、未成年の後継者の摂政が犯人ではないかと疑っている。 摂政に就任したのは密偵頭バハディールである。
死んだオルハン
後継者は未成年
摂政が怪しい
三代目のスルタン、スレイマンが元服すると、バハディールは引き続きその片腕として密偵頭を務めた。 このスレイマンは無能といってよく、実質的な権力はバハディールが抑えていたと言ってもよい。 しかしこの無能なスルタンのもとでオスマントルコは躍進を続けることになる。 これは彼の密偵頭バハディールの貢献が大きかったと考えられる。
三代目スルタンは無能
バハディールはエーゲ海のトルコ系諸侯と聖ロードス騎士団を征服し、グルジアとトリナクリアとブルガリアの聖戦を挫折させた。 このためスレイマンの威信と信仰は急上昇し、スレイマンはバハディールとオスマントルコの指導権をめぐって対立することになる。
スレイマン時代の最大版図
ところがバハディールにとって幸運か不運か、スレイマンは征服運動の途上で25歳の若さで戦死する。
後継者はまた未成年。
スレイマンの戦死はバハディールにとっても寝耳に水の出来事だったらしい。
摂政は...。
バハディールとは違う人物だった。
バハディールのライバルであるシナン市長がここで登場する。 彼もまたバハディールと同じく陰謀17の男で、野心的な学者だった。 バハディールは密偵頭としても摂政としてもその地位を脅かされることになったのである。
あやうしバハディール!
だが結局バハディールが摂政に。
だが数年もしないうちにバハディールが摂政となった。 おそらくこの当時、オスマン内部では市長派と密偵頭派のあいだで激しい党争が繰り広げられたに違いない。 だが結局バハディールが勝利し、市長派はつぎつぎに失脚していくことになる。
壮年期のバハディール。この頃が彼の絶頂期。
だが...
「同意せざるを得ない...。」
五代目スルタンとなったアラエッディーン。
だがバハディールの天下は長くは続かなかった。 バハディールに牛耳られる宮廷を面白く思わないオスマン眷属の地方長官たちがアラエッディーンという一族の者*2を担いで反乱を起こしたのだ。 このアラエッディーンは大宰相で、勤勉で信頼に満ち足りた学者だった。 だが彼は高齢で(64歳だった)、しかも満足に歩けない障害者でもあった。 また彼には子供がいなかった。
バハディールが内戦の道を選ばず、彼にスルタンの座を譲ったのは、結局のところ彼は子を残さずに死に、後継者はオルハン2世になるだろうという読みのうえでのことだった。そしてそのとおりになった。
結局オルハン2世がスルタンの座に返り咲く。
摂政はまたしてもバハディール。
だがこれはバハディールの天下の最後だった。 バハディールはこのあとしばらくして不具となり、摂政は若きスルタンの母君に取って代わった。 バハディールはその波乱の生涯を畳のうえで閉じることになるのであろうか。
わずか十年あまりの権勢であった。
(終わり)