バグラト4世。在位1027-1090
1072年の東地中海の情勢。
グルジア王国の国名は古代の聖人、聖ゲオルギウスからとられている。 ゲオルギウスはローマの軍人で、異教の村を襲撃していたドラゴンを退治し、村人たちをキリスト教徒に改宗させたという逸話をもつ。
グルジアはヴォルガやアジアといった異教国のなかに食い込むように位置するキリスト教国である。 こうした地勢的条件から、グルジアは「聖ゲオルギウスの腕(かいな)」とも呼ばれている。
同盟国のアラニア公国を除けば、グルジアは他のキリスト教世界から隔絶されている。 ビザンチウムには東ローマ帝国が存在するが、御家騒動と異教徒の侵略の対処で忙しく、同盟国としては期待できない。 はるか西方にはラテンの異端-カトリックの諸王朝があるものの、彼らがローマ教皇の号令にしたがって海を越えてやってくるのはまださきの話である。
敵は多い。
北のヴォルガ川流域にはクマン族が広大な領土を保有している。 南にはセルジュークトルコがペルシャを支配して、その権益をメソポタミアからシリア、アルメニアにのばそうとしている。 カスピ海の両岸には幾多のムスリム国家がひしめいているが、彼らはセルジュークと、あるいは互いに同盟しあってカスピ海貿易の権益をまもっている。
バグラト4世。honest、just、kind、diligent、braveのtraitをもつ。
彼がバグラト4世である。 誠実、公正、親切、勤勉、勇敢といった彼の性格は、キリスト教国家の君主として模範となろう*1。
***
バグラト4世は11世紀中葉にグルジア王国をおさめた名君で、 当時、カフカス山脈に点在していたグルジア貴族たちを糾合して王国の中興の祖となった。
バグラト4世は王権の強化をはかり*2、貴族の兵役義務も強化した。
さらに1072年からはカフカス東部でいまだ服属しない貴族たちに対する軍事討伐をおこない、王国の版図を広げている。 また外交政策では、北方のアラニア公国と同盟してクマン族を牽制し、南方のセルジュークトルコに対しては融和政策をとっている。セルジュークがビザンツにジハードを仕掛けたときも、関係の悪化をおそれて援軍をおくっていない。
有名な芸術家がキリスト教美術をつくってくれるイベント。
有名な著述家がグルジア王家の年代記を書いてくれるとのこと。
また、文化的にもこの時期のグルジアは隆盛をむかえる。 バグラト4世は芸術家や著述家を保護し、グルジア風のキリスト教美術や王家の年代記などをつくった。
バグラト4世は王権を強化し、同盟国とよく付き合って周辺諸国を併合した。 人格もキリスト教徒の模範であり、文化的にもグルジア王国は隆盛をむかえる。
バグラト4世は1090年に肺炎で死亡した。
彼には一男一女がいた。 長男ギオルギが後継者になった。 ギオルギの嫁はアナトリアのアルメニア王国の王妃であり、アルメニア王国のクレームをもっていた。 また、バグラト4世の嫁はドゥカス朝ビザンチウムの王妃だった。しかしビザンチウムでは11世紀後半に反乱がおこってドゥカス朝から王朝交代がおこったため(また、前述のようにビザンツとセルジュークの戦争に対してグルジアが中立政策をとったため)、グルジアとビザンツの関係はこの時期、疎遠になっている。