AAR/スクショで見る十字軍物語

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環境

・ver1.06 ・Normal ・1076.12.31 ・Holy Roman Empire

コメント


イントロダクション

このAARは1076年、「カノッサの屈辱」の直前からはじまる。

神聖ローマ皇帝ハインリヒ4世は、帝国の聖職叙任権問題でローマ教皇と対立し、破門された。 諸外国や帝国の諸侯は破門された皇帝を玉座からひきずりおろそうと画策し、ハインリヒ4世は政治的窮地に陥った。

史実ではハインリヒ4世はイタリアに赴き、ローマ教皇の前に跪き、みじめに嘆願して赦免を乞うことになる。

しかし今回は、ハインリヒ4世がもし違う選択肢を決断していたら、というコンセプトではじめたい。

このAARにおけるハウスルールは次の三つだ。

・聖職叙任権はローマ教皇にわたさない。 ・王権は可能な限り、これを強化する。 ・イタリア政策は、これを継続する。

ローマ教皇グレゴリウス7世

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ローマ教皇グレゴリウス7世。史実では「史上最強の教皇の一人」とも呼ばれた。

神聖ローマ帝国内の聖職叙任権をめぐり、皇帝と敵対したローマ教皇グレゴリウス7世。 彼はイタリアの諸都市や、トスカナ女公マチルダの庇護を得て皇帝ハインリヒ4世に強気に臨んだが、ハインリヒが一向に屈しないことに苛立ちを覚えていた。

教皇と皇帝の対立は日に日に激しくなり、それは教皇が皇帝を破門するという頂点に達した。 教皇はこれで皇帝も譲歩してくるだろうと考えたが、皇帝はまったく意に介さず、中部ドイツの居城で悠々自適に執務をとりおこなっていた。

1077年、ハインリヒ4世は兵をあげてイタリア遠征の途についた。 目的はもちろん教皇に対して軍事的圧力をかけることにある。 教皇はイタリアの諸共和国と諸侯に連絡を取り、皇帝の軍隊から自分を庇護してくれるよう頼んだ。 教皇派の共和国や諸侯はこれを快諾し、皇帝との対決姿勢を強めたが、ハインリヒ4世は断固として反逆者の処置に臨み、町を略奪し、城を開城させ、謀反人たちを処分した。

教皇はおそれおののいてフランスに亡命した。

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フランス王国の重臣たち

フランスの諸侯は教皇を歓迎した。 また、教皇も彼らを利用できると計算し、彼らを説き伏せ、ハインリヒ4世の暴虐と悪辣を信じ込ませようとした。 フランク貴族たちはハインリヒ4世を退位させ、自分たちに都合のいい皇帝を擁立することで、神聖ローマ帝国とローマ教皇庁をフランスの影響下に置くことができると考えた。 そこでフランス王国は兵をあげてハインリヒ4世の退位を帝国に強制しようとした。1079年のことである。

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フランス戦役。

フランク貴族たちにとって誤算だったのは、ハインリヒ4世が、彼らが考えていたよりもずっと強靭で、知略にあふれた皇帝だったということだ。 ハインリヒ4世は自分の直轄領から兵を動員し、また傭兵たちを雇用して一路パリを目指した。 彼はこの戦争で、勇敢な、素晴らしい戦略家として名を馳せた*1

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ハインリヒ4世はフランスとの戦争で素晴らしい戦略家としての素質を開花させた。

フランス軍は野戦で敗北し、国境の城をほうぼうで開城させられ、ついに戦闘不能に陥った。

この戦役をつうじて、ハインリヒ4世の権威は否が応にも高まることになる。

神聖ローマ皇帝ハインリヒ4世


*1 フランスとの戦争でハインリヒ4世は、「勇敢」、「素晴らしい戦略家」のtraitを得た。

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