西暦880年8月17日、ギルバートは先王クリストファー1世の崩御を受けてイングランド王位を継承し、イングランド王ギルバート1世として即位した。
西暦880年12月28日、 ギルバートは、まず先王の代から継続しているウィッチェ王国との戦争を、イングランド王国の勝利で終結させて、ウィッチェ王国を滅亡させ、ウィルトシャーを獲得した。
そのすぐ後、ギルバートは王権強化の法案を提出し、西暦883年8月15日これが認められ、王権法がMediumからHighに上昇した。 この時、諸侯を懐柔するため多額の金銭がばらまかれたという。
先代の弔い合戦を、自らの勝利という最高の形で終結させ国内も一応の安定を見せたことから、 ギルバートはここでその目をウェールズに向けた。
西暦886年5月1日、イングランド王ギルバート1世は捏造してあった請求権を使い、グウィネズ小王Gwerstanに対して、グウィネズ伯領とペルフェドゥラド伯領を要求して宣戦を布告した。
イングランド王ギルバート1世は、BangorFawrの戦いにおいて勝利、その後敵地を順調に占領していき、西暦887年12月14日、イングランド=グウィネズ戦争はイングランド王ギルバート1世がグウィネズ伯領とペルフェドゥラド伯領を獲得して終結した。
つづいて、ギルバートは西暦892年10月18日、デフィード小王国に対しデフィード伯領を要求して宣戦を布告した。
一伯領しか持たない小領主が王国に敵うはずもなく、西暦893年9月21日この戦争もイングランド王ギルバート1世の勝利で終結した。
その後、ギルバートは西暦900年2月1日にデハイバース小王国に対しても宣戦布告、
西暦901年8月11日、特筆する事も無くグラモーガン伯領をギルバートが獲得し、この戦争もギルバートの勝利で終結した。
同日の西暦901年8月11日、ウェールズ王国の慣習的領土を半分以上制圧したイングランド王ギルバート1世はこの日、ウェールズ王位を創設した。
このたびのウェールズ遠征にて獲得した領土を以下に示す。
1、ウィルトシャー伯領 西暦879年4月15日 開戦、 西暦880年12月28日 獲得。
2、グウィネズ伯領(南)とペルフェドゥラド伯領(北) 西暦886年5月1日 開戦、 西暦887年12月14日 獲得。
3、デフィード伯領 西暦892年10月18日 開戦、 西暦893年9月21日 獲得。
4、グラモーガン伯領 西暦900年2月1日 開戦、 西暦901年8月11日 獲得。
以上、20年の間に起った四つの戦争はまとめてウェールズ遠征と呼ばれているが、後世の歴史家によっては初めの対ウィッチェ戦争をこのウェールズ遠征に含めないこともある。
また、対デハイバース戦争中の西暦900年3月9日、第1回十字軍が宣言され多数の十字軍戦士がイスラムに占領されたアキテーヌに向かっていった。
ウェールズ王位を創設したギルバートはつづいてアイルランドの遠征をはじめた。 以下にその概要を示す。
1、レンスター伯領 西暦908年8月27日 獲得。
2、Ossory伯領 西暦911年4月13日 開戦、 西暦911年12月11日 獲得。
3、ダブリン伯領 西暦913年2月14日 開戦、 西暦915年6月19日 獲得。
西暦920年12月22日、イングランド王ギルバート1世大胆王はロンドンの宮殿で崩御した。享年76歳、自然死であった。 彼の治世は40年にも及び、彼はその間に7度の外征と2度の内戦を制したため、民衆の間から"The Bold 大胆王"と呼ばれ称賛された。しかし、近隣のウェールズ人やアイルランド人には対照的に侵略者として恐れられた。 ギルバートは、その治世の間にこれから対外政策の主柱になる対ウェールズ・アイルランド拡張、対フランス協調を決定づけた点でも称賛されている。 そして、王位はギルバートの長男の長男であるギルバートが継ぎ、ギルバート2世として即位した。
偉大なるイングランド王ギルバート1世大胆王万歳! そしてイングランド王ギルバート2世に栄光あれ!!
西暦921年5月21日現在のイングランド なんか、ヨーク伯領が独立している。
西暦921年5月21日現在のフランス地方 東フランク王国が拡大している。対して西フランク王国は先の十字軍でアキテーヌを獲得した。
現在の血族スコア 642 現在のスコア 14188
イングランド王ギルバート1世大胆王の治世終わり