1212年に始まるJohnny D帝の時代は、帝国にとって苦難の時代であり、また、その後帝国は何世代かにわたり地中海世界の覇権から大きく遠のくことになった。
(即位時のジョニーD、天才か。)
(成人時のジョニーD、アラビア戦争に忙しくて教育を忘れ、ただの器用貧乏に。)
成人後に祖父の代から続くアラビア戦争に終止符を打ち、ビザンツ帝国よりキプロス島を獲得したJohnny Dは、鉄槌帝とあだ名された。
しかし1217年より始まるシーア派のジハードにより帝国は苦境に立たされることになる。
(なすすべもないジョニーの図)
Johnny D帝がジハードに対して抵抗できなかった理由は二つある。
一つに、相次ぐ分割相続で所領が失われ、2伯領しか直轄していなかったこと。
そして、国内最大の家臣であるアンダルシア王が王権の制限を求めて反旗を翻し、帝国が内乱の最中であったことなどがあげられる。
(長子相続を目指していたので到底受け入れられない。)
この隙をついてファーティマ朝はジハードを宣言し、攻撃を仕掛けてきたのである。
結果から言えば、1219年に帝都イェルサレムは陥落し、皇帝は直轄領をすべて失うも、アナトリア王からの1伯領の寄進を受けてどうにか落ち延びた。 首都陥落によってJohnny Dの治世前期やSharaf帝の時代についての資料の多くが失われており、未だよくわかっていないことも多い。
さらに1228年にはセルジューク朝の聖戦により
イスラムの聖都メッカを含む広大なメディナ公領を奪還されてしまう。
しかし、彼はまだあきらめていなかった。 Johnny Dにはまだ起死回生の可能性が残されていた。 後世、彼が暗君とされていないのにも理由があるのだ。 それは...