この物語は、ある宗教の荒廃に戦いを挑んだ熱血一族の記録である。 宗教界においてまったくの弱小宗教が荒廃の中から健全な精神を培いわずか700年で全国制覇をなし遂げた奇跡を通じて、その原動力となった愛と野望を余すところいっぱいに書き記したフィクション(パクリ)である。
853年、かつては隆盛を誇り初代Philemonを挑発した公爵ARWADID家、今では落ちぶれ1州を残すのみ この公爵ARWADID家との戦の口実を探しつづけて10年ついに戦争の口実を捏造することに成功。
これを滅ぼし己が公爵となるため4000の軍勢を率いて出陣した。
854年 ついに公爵ARWADID家は降伏その歴史に幕を閉じた。
854年 ついに公爵に就任する時が来たとTepodonは喜び宴を催した。 Tepodonは宣言した皆の者よろこべ! ついに憎きARWADID公爵家を滅亡させ当家が公爵になる時がきたのだ!! しかし、場はいっせいにしずまりかえった。 後継者のAseope宰相が静かに近寄りささやいた「当家が公爵になるにはあと1州必要です」 Tepodonは言った、馬鹿な たかが公爵になるのに4州も必要なのか! Aseope宰相は静かにうなづいた。 この時Tepodonの管理能力は限界が来ていた。 そこで一族会議で一門に城の授与が決定された。
特に、一族の分家筆頭、3代目の非嫡出子でAnakinn家(母系の先祖にアナキンスカイウォーカーと言う人物がいてそこから取ったらしい。)の祖である市長の息子を城主に取り立てた。
858年恐れていた事が起こった。公爵家を滅ぼしたため直参から陪臣に身を落としてしまった。 しかし、公爵でなく王の臣下になったことが不幸中の幸いであった。
当家の慣習的公爵領に属する州の要求権の捏造が成功した。 しかし、その州の支配者は南方の王者であった、 通称は城南広大公(南方の広大な領地に城を多くもつことから)と言う。 宿敵、城南広大公との公爵領の全国制覇を懸けた戦いが今始まろうとしていた。
当家は7000の軍勢を率いて出陣、目的の州の陥落に成功。 しかし、そこに城南広大公率いる6500の軍勢が襲いかかってきた。 予想より遥かに多い数である、相模一公の残党が加担していることは明白であった。 地の利により圧勝するかに思われた当家であったが、お家再興を目指す相模一公の軍勢に押される。
辛勝ではあったがなんとか勝利し、これにより一気に決着がつく。 859年ついにTepodonは公爵に登りつめたのであった。 しかし、未だ勢力は小さく南方の王者は城南広大公であると皆が思っていた。 また、この時Tepodonは首都の移転を断行した。
運が向いてきた隣国の王は女性でかつホモで神官、夫は老人の伯爵。 子供は多くはのぞめないであろう。 王の後継者の子供は娘のみで当家より格下の夫の伯爵が育てている。 格下の伯爵との婚約は簡単であり通常婚の約束がされた。 当家の王家乗っ取り計画が発動されたのである。
Tepodonは52歳になっていたが当家の分家を作るため隣国の女性公爵と通常婚の約束を交わした。 はじめは嫌がられたが贈り物でご機嫌を取ると子供の公爵はよろこんで受け入れた。
Tepodonはある令嬢に目をつけた公爵家の跡取り娘である
そして自分の宮廷に招き入れたのである
ある夜Tepodonが強引に部屋に入ってきた。 令嬢は自分の過ちに気づいたがもはやTepodonの愛(野望)を断ることはできなかった。
しかし、Tepodonの愛を受け入れただけではすまなかった。 令嬢はTepodonの命で一族の未成年と無理やり婚約させられたのである。
数日後、令嬢の元に迎えが来た。
父の事故死により令嬢はおんな公爵になったのである。 しかし、Tepodonの仕業である事は誰の目にもあきらかであり、令嬢は愛と憎しみの両方を抱くこととなった。
南方の王者、城南広大公との戦いから4年後の863年、後継者の宰相Aseopeが要求権を捏造した。
しかし、Tepodonは動かなかった。 先の戦いは危なかった、決定的な差をつけるには2州は奪う必要がある。 僅か1州ではリスクの方が高いと考えたのである。
後継者の宰相Aseopeの動きは早かった。たった1年で要求権を捏造したのである。
ついにTepodonは動いた。 864年 南方の王者を決定する決勝戦が始まろうとしていた。
南方の王者、城南広大公の首都は通常強襲が不可能な要塞である。 しかし、将軍であるAnakinn家(分家)当主が海上からの急襲案を立案。 Tepodonは危険は高いが勝機も高いと判断、出撃を許可した。 将軍Anakinn家当主は1つ隠し事をしていた、それは急襲部隊をすべて運ぶ船がない事である。 現地についた将軍は2段階急襲をすることにした、もし事前にTepodonに報告していれば 各個撃破されると出撃は却下されていただろう。
決戦の地は首都手前の荒廃しきった砂漠で水原という。かつてはオアシスであった伝説にもとづく。 城南広大公は暴力的組織をバックにつけ対抗してきた。 第一急襲部隊との激戦が繰り広げられた。さらに首都には両方の援軍が到着しつつあった。
首都では当家の3200が城南4200を相手に健闘していた、すべてはどちらの援軍が先に来るかであった。 そして先に姿を現したのは海上より来た第二急襲部隊であった。 しかし、城南本隊を撃滅するまえに城南軍1200が到着戦いの行方は分からなくなった。 時はすぎ双方傷つき立っていたのは旗は当家のものであった。 (異説があり第二急襲部隊到着前に勝利したとも言われる、近年この説が有力となっている)
すべては決したかに見えたが突如、当家に暗雲がのし掛かった。
開戦前には国庫からあふれでていた資金が底をついたのである。 これにより当家は財政破綻しユダヤ人に借金をすることとなった。
戦の最中よきこともあった
公爵級将軍の捕縛である、これにより国庫が少しうるおった。 しかし、当家は忘れていたのである。人質という存在を。 後年それに気付き莫大な身代金が入った。
戦乱の最中、Tepodonの愛人のおんな公爵が男の子を産み、Tepodonは喜んで正式な子として認知した。 しかし、何日たってもおんな公爵家の世継ぎとして認知されずTepodonはがっかりした。
後日、おんな公爵は公爵位を奪われ伯爵に身を落とすがこの時は伯爵の世継ぎとして認知されている。
865年 城南広大公との和解が成立。南方の王者と当家が並び立った瞬間であった。
しかし、戦いは終わりではなかったTepodonは決めていたのだ徹底的に叩き潰すと! 第三回完