AAR/フレイヤの末裔 AAR/フレイヤの末裔/盟主ギュリド(完結編)
奇妙なもので、彼らは素面であっても危険なゲームによって時間を費やす事を躊躇わず 全ての財産を失っても、自らの最後の自由が尽きるまで、奪ったり奪われたりする事をやめないのだ。
――タキトゥス『ゲルマニア』 24
寝室に駒を打つ音が響く。
グンヒルドの駒を挟み打ち、シグルドはそれを獲る。妻が微笑みさえ浮かべているのを怪訝に思いながらも、手を進めていく。
気が付けば、盤の南東で孤立していた
……追い立てられ果て、北東・北西の出口を固めていた略奪者達さえ包囲に加わり、遂にシグルドは投了を強いられる。
「シグルドはね、攻め過ぎなのよ。臆病だからかしらね……敵を減らしたいのが見え過ぎてるわ」
顎鬚を指で弄りながら棋譜を思い返すも、シグルドには自分の何が悪手だったのか今一つ把握できていない。その様子を見て、逆にグンヒルドが質問する。
何を当たり前の事を、とシグルドは思うが、熟達の盤戯者であるグンヒルドは何の意図も無くそんな基本的な事を訊いている訳でもない。グンヒルドは続ける。
「そうね……でも、戦争にはいろんな相があるわ。野戦、攻囲戦、防衛戦……この場合は?」
「盤面は城だ。だから僕からすれば防衛戦、君からすれば攻囲戦、じゃないのかな?」
ネファタフルは王側と略奪者側に分かれて打たれる。盤の中央部に陣を取って始める王側の目的は、盤の隅にある出口へ王を送る事。盤の偏に並んで始める略奪者の目的は、王を捕獲する事である。 これはつまり、城砦を囲まれた王を逃げ存えさせるゲームだと考えるのが普通だった。ところが、グンヒルドの所見は少々異なる様だった。
「……いいえ、シグルド。これは、もっと大きな戦いを擬えているのだと私は考えているわ」
「一見して攻めているのは略奪者で、王の逃げ回る戦いの様に見えるけれど……本当は、そんな臆病なゲームじゃなくて」
「これは生殺与奪のゲームなのよ。誰を殺し、誰を殺さないかを決める、王者の遊戯」
グンヒルドが棋譜を差し戻しながら語り始める。シグルドが連続で2つの駒を獲る直前まで戻った所で、その手が止まる。
「この局面だと、南西の乱戦に護衛を加えるのじゃなくて、王を一旦中央に戻すのが正解ね」
「でも、真ん中にいるって事は、囲まれる、って事じゃあないかい?」
今度はシグルドとは異なる手で進め始めるグンヒルドに、シグルドはまたも当たり前に思っていた事を言う。しかし、グンヒルドの作る盤面は、中央に陣取る王と、その周囲に残された護衛の駒で守りが厚く、それを囲おうとする略奪者達の方が攻めあぐね、連携を取り兼ねている様に思われた。
「辺境の戦いは家臣達にやらせなさい。余力を残しながらね。急いで敵の駒を減らす必要なんてないのよ」
「辺境には王もいないけれど、中央も無いわ。こうして、どこかの争いが熱くなると……」
シグルドが息を呑む間に、盤の南西に加勢させる形で略奪者の駒が動かされる。自然と、盤面のバランスが偏る。
そして漸く、グンヒルドは王を直南へ動かす。その一手はたった一つの駒を獲るに過ぎなかったが、略奪者の左右の陣を分断し、合流を妨害した。
シグルドは思わず嘆息した。獲れる駒を迷わずに獲り、近付く敵からは真直ぐに逃れる、という自分の打ち筋とは異なった、王側が当に王としての泰然を示す様な戦略美がそこにはあった。
「しかし、意地悪だなグンヒルドは……つまり、ブリタニエにかまけ過ぎるな、って事かい?」
「私、結構嫉妬深いのよ? ホローレクやハーラルだってまだ子供なのだし……それに、その傷の事だって……」
グンヒルドが、シグルドの右頬に触れる。深く抉れたその傷痕は、ケントの戦いで受けたものだ。
「大丈夫、こんなのほんの掠り傷さ。ノルドの男なら誰だってこれくらいのものは持ってる」
シグルドは務めて笑ってみせるが、心からの言葉ではない。この傷の原因となった鏃は治療師によって摘出され、もう傷も塞がったにも関わらず、その後に何度も頭痛に襲われていた。後遺症の疑いが無いかといえば嘘になる。
労わりを篭めて、グンヒルドが口付ける。妻を抱き締めながら、シグルドは考えていた。
(母さんは長くこの国を治めて、大異教軍を再開させた名君だったかも知れない……けれど、ビルゲルを殺して、父さんを悲しませた人だ……)
(僕はそうはならない。考えなきゃダメだ。仮に、僕の命がとても短いものになってしまうとして……)
(グンヒルドやホローレクの為に、僕が打つべき一手は、何だ?)
打たれたままの盤面を横目にしながら、シグルドは眼の奥で脈を打つ鈍痛を堪えていた。
中世三大戦争の一つ「北海戦争」の始まりをいつとするかについては諸説あるが、ギュリドによるイングランド征服が全ての引き金であった事は間違いない。 しかし、この戦いは第二・第三の引き金を引く者が現れなければ、歴史が伝える程長期化する事はなかっただろう。
その短い治世からフローニ史の中でも余り重要視されない人物ではあるが、五代盟主・"聖帝"シグルドは第二の引き金を引いて、戦乱の長期化を引き起こした人物として特筆されるべきである。
因みに、これまでの年代記では一種執拗に描写されていた「フローニの美貌」が、このシグルドの代からは鳴りを潜めている。
盟主・ギュリドとその皇配・ウルフの間には四人の子供がいた。双子の王子・ビルゲルにシグルド、3歳離れてギュラ姫、更に8歳離れてウルフヒルデの四人である。 シグルドは兄・ビルゲルと共に、幼少期をスヴィドヨッドで父・ウルフと共に過ごしたが、二人の性格は正反対で、ビルゲルが嫉妬深く強欲であったのに対して、シグルドは慈悲深く寛大、少々臆病な所はあったが、没交渉の過ぎる母とも異なって人並み以上の社交性を身に付けてもいた。皮肉屋な所もあったが、機知の利いた言い回しを好む事から却って賞賛の対象となったり、概ね臣民には好かれていた様である。
彼とビルゲルの教育をウルフから取り上げてギュリドが行う様になったのが12歳頃の事で、ビルゲルが最期までスヴェア訛りが抜けなかったのに対して、かなり早い段階でいわゆる"標準語"を身に付けたらしく、ビルゲルが暗殺されてシグルドが後継者に選ばれた理由は、その"訛り"の差であった、という言い伝えもある。
妻はリトアニアのマリエンブルク族長・"好色なる"バッゲの娘、カウピング氏族のグンヒルド。
シグルドが19歳の頃、スカンジナヴィア帝国はイングランドを獲得し、民会整理の為に東方領域の切り離しが行われたが、この際にシグルドはスコーネ大族長に封じられ、その二年半後、ビルゲルの死の直後にイングランド総督に任命されている。 ケント聖戦が始まると、シグルドは臆病を払拭しようとしたのか自ら指揮を取って先陣を切った。しかし、その際にケント軍の準備射撃で矢を右目の下に受ける重症を負い、一命は取り留めたものの、以降は酷い頭痛に悩まされる様になったという。
ギュリドが崩御し、シグルドが盟主座を継承したのは、その傷をヘルシンボーの宮廷で癒している頃の事だった。 予断を許さない状況であった為にホーセンスやハートゥナではなく、式典はそのままスコーネで執り行われ、前盟主・ギュリドから全ての称号が継承が認められた(この際にヨムス・ヴァイキングへの寄進も行われている)。その後、シグルドは宮廷をホーセンス城に移して国政を司る事になるが、その際に、自身が務めていたイングランド総督を、ランカスター大族長であるウィルクス氏族のボトゥルフに預けている。
ランカスター大族長・ボトゥルフ。妻や愛妾に手を付ける事なく、こと40歳に到っても子が一人も無かった事から同性愛者の疑惑を掛けられていた。
イングランドには五人の大族長がいたが、その中で彼が選ばれた理由についてシグルドは「あいつなら程よく嫌われてくれるだろう」と側近達に語っていたという。 イングランドは属州とはいえ、古代にはローマ支配を受けていた事でスカンジナヴィアと較べれば遥かに基礎的な開発が進んでおり、フィンランドやポメラニアとは比較にならない程地力が強い為、仮に反動的な派閥に与される様な事があれば危険度は非常に大きなものとなる。ボルトゥフは社交的とは言い難い性格で、且つ同性愛者の疑惑を掛けられていた事から家臣達と「程よく距離を置き、置かれてくれる」だろうと考えたのだろうと思われる。
後の事績も合わせると、こういった「周囲を弱体化させる」というのがシグルドの基本的思考であったのだろう。
さて、この頃のブリテン島で悲鳴の上がらない日はなかった。盟約軍とキリスト教国の戦いは苛烈さを増し続けている。 同時に幾つもの戦いが行われていた複雑な時勢であるので、それぞれの戦いについて小分けにして記述していこう。
一番最初に終わったのは、エイリフによるノーサンブリア服属である。
シグルドの戴冠から2ヶ月、1045年3月。スカンジナヴィア帝国はブリテン島の最大版図を擁する勢力となる。中には改宗と服従を選んだ領主もいたが、ノーサンブリア王・サイネルフはスコットランド内に有していた領地・ダンバーに逃れ、以降ローシアン王を名乗る。しかし、ローシアン小王国の
エグフリート・モルガンとスコットランド王国。モルガン家は人種的にはウェールズ系だが、エグフリートはスコットランド文化を受容してスコットランド人を名乗っている。 この事からアルバ王国はスコットランド王国と国号が改められた様である。
こうして氏族の悲願を達成した事を称えて、シグルドは無実化したサイネルフのノーサンブリア王位の剥奪を宣言し、エイリフを大族長としてこれに封じ、イングランド領ではあるが総督による管理を受けず、エイリフ自らの版図とする事をよしとした。 エイリフの復讐劇は"勝利者"エイリフの物語として今日にも語り継がれている。
エストニア=ノーサンブリア大族長にして"勝利者"となったエイリフ。2世紀弱もの時を超えて、"白シャツ"の勇名をブリテン島に轟かせた。
ケント聖戦は帝国軍本隊によって行われていた事もあり、圧倒的な兵力差によってこれも1046年の6月頃に完遂されている。
この聖戦最大の被害者であるケント王・イアン・デ・ギードの最期は憐れなものである。彼はなんと……
"無策女王"オステルヒルド。一見忍耐強く、謙虚な人物であったというが、軽率な虚言や陰謀で周囲を混乱させていたという。 フレイヤやギュリドと同じ"無策"の異名を、しかし全く異なるニュアンスで用いられ、ボヘミアとの係争の原因になった事もあって暗君の代名詞としても語られる。
同じキリスト教徒である東フランク女王・オステルヒルドによって暗殺されたのである。
そうというのも、ケント王国は年長者相続を採用しており、この時の第一継承予定者は従甥であるサリー伯・マーツィンで、そのマーツィンの配偶者こそ、彼女であったのだ。 彼女がこの挙に及んだのには、この時に東フランクとボヘミアの間で発生していた「ドイツ継承戦争」が深く関係しているのだが、この戦いについてはスカンジナヴィア史には直接は関係しないが、非常に興味深い背景を持つので、外伝としていずれ紹介したい。
ともかく、ケント王・マーツィン2世は結局、ケントの領土を全てスカンジナヴィアに奪われ、アイルランドに有していたレンスター伯領に逃れる。 シグルドは無実化しているケント王位の移譲を求めたが、マーツィン2世は東フランクに援軍を出した事で戦争状態が続いている事を理由にこれを拒否し、当分は剥奪の適わない状態が続いたが、最早無視できるレベルの兵力しか持たない事から大して問題視されず、実際に問題にならなかった。
また、ケントに有るブリテン島最古の大司教座・カンタベリー大聖堂は
イングランド総督に任命されたボトゥルフが最初に行ったのは、イングランド最西南の独立勢力・コーンウォール伯領への聖戦である。
1048年時点のコーンウォール伯・グレモール・ゲネックとコーンウォール。グレモールは農民出身である。 コーンウォールは元々はエーガナクト・レースリン家によって支配されていたが、グレモールは1028年に農民一揆を率いてその支配権を奪っている。
所詮は農民出の独立伯爵、と侮られていたが、グレモールはサンチアゴ騎士団を召喚してボトゥルフの軍を迎撃し、本隊を瓦解させる事に成功する。また、ウライド王・ナフライクを初めとしたアイルランド諸侯とウェセックス王・エゼルリック2世の助力を受け、逆にイングランドへ侵攻を開始。1048年の10月頃にはボトゥルフに対して賠償金の支払いと5年の停戦を認めさせている。
所でこの戦いで最も恐れられたのは実は騎士団ではなく、ある一人の老人である。
デスムンヘーン伯・フォーガルタッハ。77歳という老齢にも関わらず現役バリバリの前線指揮官である。
デスムンヘーン伯・フォーガルタッハ・エーガナクト・レースリン。別名・フォーガルタッハ雷鳴伯。彼は嘗てコーンウォールを支配していたエーガナクト・レースリン家の当代当主であるが、異教軍を滅ぼすべく2000名を率いてアイルランドから参戦した。 勇敢さと残酷さを兼ね合わせたこの老人は、しかしその偏執的な人格で敵にも味方にも恐れられた。彼の率いる重装歩兵隊はこの老人の雷鳴の如き奇声と共に突撃し、長鑓で敵を串刺しにすると、生きたまま旗印の様に掲げて進撃するのである。恐怖のみを信仰するかの様なこの老人の戦作法に、歴戦のヴァイキング達さえ震え上がったという。
ブリテン島最大の、いや、北海戦争最大の激戦区となったのは間違いなくウェールズ、つまり当時のブリソニア王国である。
1046年時点のクステニン2世とブリソニア王国。ゲルレ大族長・シグビョルンの軍勢に服属戦争をしかけられている。 クステニンはあらゆる戦術・陰謀・外交を駆使してノルドに対して抵抗し続け、その英雄的な活躍はノルドの中にさえファンが生まれる程だったという。
所でこの時代、ブリソニア王国とスコットランド王国は共にモルガン朝で、半恒久的な同盟関係にあった。 ウェールズ人とスコットランド人は共に自身をケルト系人種と看做しており、この二人種は個人の野心によって時に争い合う事もあったが、カイ1世(940~997)の時代には同君連合国であったし、イドワル3世(1000~1019)の時代に「ラハランとクステニンの変」が起きて分離してからも概ね兄弟関係にあると考えられて、婚姻によって同王朝を頂くに到っている。
だから、ブリソニアを舞台に続いた「ウェールズ戦役」は実質、ノルドvsケルトの構図で行われた戦いであった、ともいえるだろう。
最初にウェールズを攻撃したのは、シグルドの従弟、つまり"賢明なる"アルフリドの息子、ゲルレ大族長・"若き"シグビョルンである。
1046年時点の"若き"シグビョルン。隆々たる肉体に猛る野心を備えた青年に育っていたというが、妙な所で小心者でもあったという。
彼は入念に5000名を超える兵員を集め、協力者を募り、ギュリドが崩御する前後頃に、ウェールズ王国全土を服属するべく出航している。 この時クステニン2世はノーサンブリアに援軍を出しており、防衛に1000名以下の戦力しか残されておらず、服属は容易に完遂されるものと考えられた。シグルドもその様に考えており、丁度この頃にユランで反盟主の暴動が起こっていた為、ケント聖戦を戦わせた徴収兵を援軍に出すのではなく、そのまま本土に向かわせてその鎮圧に当たらせている。 実際、1046年の10月頃までにはマスラファル城やランゴレン司教領を占領し、早期に敵援軍に加わったスコットランド王・エグフリートの捕縛に成功するなど、シグビョルンの優勢で進んでいた。
しかし状況は、方々からの増援が上陸した事で拮抗する。
最終的には、ウェールズという辺境を巡る争いであるにも関わらず、この戦いにはかなりの勢力数が関わる事となる。
1048年時点での参戦勢力は……
<ノルド勢力>(全てフローニ氏族) ゲルレ大族長・シグビョルン("若き"シグビョルン) ナルヴァ族長・トリュッヴェ ヘルシングランド族長・トリュッヴェ ポメラニア女王・サガ サフォーク女族長・ローンフリド フィンランド女大族長・ビョルグ
<キリスト教勢力> ブリソニア王・クステニン・モルガン(クステニン2世肥満王) スコットランド王・エグフリート・モルガン アストゥリアス王・ヌーノ・ド・オーヴェルニュ 中フランク王・ズビネック・モイミル(ズビネック2世) ローシアン王・サイネルフ・オヴ・ノーサンブリア ムーム女王・マルタ・エーガナクト・カイシル(マルタ公正女王) ウェセックス王・エゼルリック・オヴ・ウェセックス(エゼルリック2世) カラトラバ騎士団団長・ロドリゴ・モルガン
特筆するべきはカラトラバ騎士団のロドリゴ・モルガンである。彼はその名の通りモルガン家出身……正確には、スコットランド王・エグフリートの弟である。
カラトラバ騎士団団長・ロドリゴ。兄の窮地を救う為、イベリア半島から5000名を超える手勢を率いて助勢した。
カラトラバ騎士団初代団長・ファドリケは1047年に不審死し、このロドリゴが新団長に選任されているのである。これを偶然で済ませる事はできないだろう。
そして、イベリア半島でクタミ朝からの
アストゥリアス=カスティーリヤ=アラゴン同君連合王国の若き君主・ヌーノ。家族想いの人物で知られ、遥々海を越えて援軍を送った。
この戦いが始まって直ぐの頃、クステニン2世は妹・カトリンが成人した時にヌーノが未婚である事を確かめると、大急ぎで婚姻を調えさせた。アストゥリアスは動員力約1万名に及び、その練度は繰り返されるムスリムとの戦いで鍛えられ、精強を誇ってもいたから、この婚姻が援軍目当てのものであるのは確実だろう。 結局、カトリンはイベリアの慣れない気候で肺炎を拗らせ、満足な結婚生活も無いまま半年で命を落とすが、ヌーノは「義兄」であるクステニン2世への援護を惜しむ事なく兵員を送り続けた。この頃、クタミ朝はアラゴン王国に侵攻しており、カソリック守護の為に助勢したイタリア軍との戦いで消耗していた事もあって、防衛を理由に出し渋る必要もなかったのである。
因みにクステニン2世の前妻・ペリーヌは中フランク王・ズビネック2世の姉であったが、カトリンの婚姻とほぼ同時期に身罷っている。ズビネック2世は当時12歳で、戴冠してから何年も経っておらず、国内は安定には程遠かった為、摂政・ルーボーは「末期的な危機状況に於いては援軍を送る」という約束に留め、実際には兵を送っていない(尤も、貴族達への牽制を兼ねて徴収兵の編成そのものは済ませ、いつでも動かせる様に待機させてはいた様である)。
これら勢力の参戦によって拮抗している状況に後押しをするつもりでそうしたのか、横槍を入れたのはウィッチェ大族長・スヴェンである。
1048年4月時点の、ウィッチェ大族長・スヴェンと、ウェールズの様子。 カンブリア山脈連なるウェールズの地形では攻め側は常に不利を強いられる為、ノルド軍もキリスト教軍も占領と解放に掛かり切りの睨み合いが続いている。
スヴェンはウィッチェ大族領の慣習領土と看做されているグウェントの獲得を目当てに聖戦を宣言したのである。 これはシグビョルンにとって幸運となり得ると考えられたが、皮肉にも、これによってウェールズ戦役は更に混迷の度合いを増していくのである。
ブリテン島の戦いについて長くなってしまったが、スカンジナヴィア本土で起こった事についても述べよう。
シグルドが戴冠して直ぐの事、何者かがギュリドの書斎を襲撃し、他の物品には全く手を付けず、恐らくは中東留学時に入手した一冊の本のみが盗み出されたのだという。 書斎の管理を負かされていた二人の奴隷が殺害されていたが、その死体は「語る事もできない有様」であったという。
その本の正体は未だに研究者の間でも定説が無く、留学以降にギュリドの遺した多くの手稿が如何なる資料に基づくもので、何を意味するものであったのかは謎のままとなっている。何らかの天文学に関する学術書であるのだろう、とは言われているが、この事件を題材にした多くのフィクションでは決まって「禁じられた知識の綴られた魔術書」とされている。真相は闇の中である。
1047年、ユランでトールフィンなる男に率いられた反盟主の暴動が起こるが、ケント聖戦を終えた帝軍本隊はそのままユランに移送され、これを10月頃に鎮圧している。
シグルドは改めて盟主座の威光を示す為、この直後に
また、母・ギュリドを讃えるルーン石碑もこの頃に完成している。
こうして信望を高めたシグルドはスヴィドヨッド民会に王権の拡大を認めさせている。これは未だ分割相続として扱われているスヴィドヨッド王冠の相続法の改正も視野に入れての事だっただろうが、結局それはシグルドの治世のうちには果たされなかった。
トールフィンの乱が鎮圧されるのとほぼ同時期、フィンランドでは女王・ビョルグが、ユート氏族のクラーカに王位を禅譲するという事件が起こっている。
ユート氏族のクラーカと、その夫・インリング氏族のアンラウフ。
クラーカは初代盟主・カルルによってフィンランド王位を与えられ、フレイの代に不審死したアヌンドル王の孫娘である。 クラーカ本人は大して王位に興味は無かった様だが、夫のアンラウフは我が子に王位を与える事に多大な野心を抱いており、派閥形成を躊躇わなかった。しかも、ギュリドによってされた「三王冠の宣言」はこれに大義名分を与えてしまっており、要求するのがユートとインリングという、ノルド世界ではフローニ家に続く大氏族であった事もあって、ビョルグは渋々ながらフィンランド大族長位に退いている。
シグルドはというと、従順な性格のクラーカの方が扱い易いと見たのか、戴冠の挨拶に来たクラーカに「よく仕え、よく統べよ」とのみ伝えたという。しかし、この禅譲に対して異議を唱える者もフィンランドにはおり、コーラ大族長・ユート氏族のヴァーンなどは反乱を起こしている(尤も、直ぐに鎮圧された様ではあるが)。
1048年、ブリテン島の戦いが加熱し続ける中、兵力の回復した(といっても殆ど消耗らしい消耗はしていなかった筈であるが)シグルドは中フランクへ宣戦布告した。
モイミル朝5代目の中フランク王・ズビネック2世。インガの代にスカンジナヴィア帝国に宣戦布告したクロターレ不徳王の曾孫である。 彼の父・クロターレ2世は「公正王」と号された名君で、請求権の行使によってバイエルンを再獲得していた。
しかし、その声明にキリスト教徒のみならず、ノルド達さえ困惑を隠せなくなる。それは単なる征服戦争でも、盟約による「聖戦」でも無かったのである。
「不徳なるクロターレの末裔、ズビネック2世に告ぐ。これは正式な宣戦布告である」
「自らの未熟も解せず二王冠を戴こうというその大悪徳、このシグルドが断ずる」
「我らはロタンギリアにより相応しい女王を知る。その者は頑たる信心を以って十字を抱く女傑、エルフスウィスなり」
「汝その地をエルフスウィスに明け渡し、分相応にバイエルンのみを統べるが良い」
ズビネック2世はこの時15歳、少年王の未熟を理由に家臣の請求権を行使した……という構図なのは解り易いのであるが、その「家臣」の素性が奇怪だったのである。
エルフスウィス・オヴ・ノーサンブリア。エイリフに服属された事で改宗を選び、ヨルヴィク族長となった元ヨーク伯・ウルフマエルの妻である。
彼女は旧・ノーサンブリア王家の出身ではあるが(因みに夫のウルフマエルもノーサンブリア王家である)、祖父にクロターレ不徳王を持ち、女系ではあるものの中フランク王位への請求権を有していた。しかし、問題は彼女の信仰……彼女は、夫が改宗を選んだにも関わらず譲る事の無かった、熱心なカソリック信徒だったのである。
そもそも中フランクは帝国の慣習領土外、家臣とは言ってもシグルドやその封臣との封建契約も持たない彼女の請求権を行使した所で、帝国が中フランク領を獲得できるわけではないにも関わらず、この宣戦だったのである。
無論、エルフスウィスは歓喜していた。汚らしい蛮族どもに囲まれてブリテン島で暮らす事になるとばかり考えていた所が、なぜか突然に北海最強の軍事力を有する
シグルドはこの疑問に対して、民会でこう答えたという。
……それが何を意味しているのかを理解した族長達は、大いに喜んで仕度に掛かった。
こうして、ブリテン島のみならず、大陸部においても、北海沿岸を西に南に広く舞台にして、
因みに、この頃にシグルドの公認を得たシソ・クイムシソン3世なる人物によって「北海戦争記」の記述が開始されており、本稿に於いても大いに参考にしている。
妙に、身体が軽かった。昨夜、自分の寝入りを苛んだ深刻な頭痛が嘘の様に消え去って、何もかもが、とても清々しく感じられた。
そう予感して、シグルドは長男・ホローレクを呼び出したのだ。
背筋を伸ばしてしっかりと返事をする息子を、シグルドは強く抱擁する。
「そうか……早いものだね。良く育ってくれた。トールビョルンに教育を任せたのは正解だったよ」
シグルドは身体を離すと、息子の眼を真直ぐに見る。
ホローレクは真直ぐに父の眼を見返す。我が子の眼差しに利発さと気品を見ると、シグルドは一つ小さく頷いて、本題を始めた。
「家祖・フレイヤ様から始まったノルドの戦いの目的は、何だったと思う?」
「古き神々を尊ばぬキリスト教徒に対する反抗戦争、つまり復讐です」
"
全ては初代盟主・カルルとその息子・フレイによって著された『
「ああ、その通りだよ。じゃあ、それは今も変わらないと思うかい?」
ホローレクは心なしか声の調子を低くして、自分の見て来た限りの事から、意見を述べる。
「今、
「最早キリスト教徒を脅威と見るのではなく、その領土を欲しい侭に略奪し、奪い尽くし、他の族長達に優勢を取るべく争っている様に思えます」
シグルドは真剣に答えてくれた息子を誇らしく思って、微笑んだ。「この子なら大丈夫だ」、そう思えた。
「その通り、『盟約』がどうだと言っても、ノルドの本質は冒険と略奪だからね」
「はい、この戦いは当分は終わりません。奪えるべきものが奪い尽くされるまで」
「そうして奪われた者達……キリスト教徒には、何が残ると思う?」
ホローレクは、父が何を言わんとしているのかを察して、驚愕する。シグルドは構わずに続ける。その右目からは、薄っすらと赤い滴が流れ始めていた。
「丁度、僕がお前の歳くらいの頃の事だ。キリスト教徒はサラセン人に大きな戦いを挑んだ」
「全ての騎士団がそれに加わり、何万もの軍勢によって戦われたそれは
「……僕は、あの十字軍がたった一度の事だとは思わない。成功の記憶は同じ事を繰り返させる」
「彼らの憎しみは……いずれ新たな十字軍となって、きっとお前を襲うだろう」
「だが、恐れるな。ブリタニエの戦いと、中フランクに撒いた餌が、お前を守る」
笑んだまま語るシグルドの右眼から流れる血はその量を増して、衣服を真赤に染めながら、留まる事が無い。 ホローレクは誰かを呼ぼうとするが、シグルドはそれを片手で制する。
そう呟くと、シグルドの身体からは全ての力が失われた。その日、ホーセンスでは無数のワタリガラスが鳴き声を上げ続けていたという。
シグルドの治世は僅か3年で、ケント聖戦で受けた傷の後遺症によって倒れた、と言われている。 功績らしい功績といえばスヴィドヨッド王冠の権威拡大くらい……と思われがちであるが、中フランク分割戦争を始めたのがこの人物である事も忘れてはならないだろう。また、後にホローレクを助けるグンヒルドという人物を妻にした事も重要である。
継承については、相続法の改正が成されなかったスヴィドヨッド王冠は次男・ハーラルに分割され、ギュリドの「三王冠宣言」についての議論が国内で始まる事になる。
次回はいよいよ本稿で紹介する最後のフローニ氏族長の治世である。
"大鴉の王"、"
1048年時点の欧州勢力図。スカンジナヴィア帝国がブリテン島の半分を制圧したのが解る(リンカンのみ、継承によってリトアニアに領有権が移ってしまっている)。