スルタン・サディクは、アラビア、エジプトの地を平定し、 シリアに壮大な領土をもたらした偉大なる君主であった。
だが最後に神の恩寵は得られず、バールベックの戦いで十字軍に敗れると屈辱の中で死んだ。
-Ibn al-Juwayni-
ファーティマ朝4代スルタン・タリブの死後、後を継いだのはタリブの長男サディクであった。
スルタンサディクは即位すると、スンニ派をアラビアから追い出し、 フランク人からエルサレムを奪還する事を、諸侯に力強く宣言した。
スルタンサディクはこの言を、自身の生涯を捧げるべき使命と考え、各地の征服に着手していった。
この年、イドリース朝モーリタニアの君主でありシーア派教徒の指導者たるカリフ・イクシ(Ixzi)が、 アンダルシアをキリスト教徒から再びイスラム教徒の手に取り戻す為、全ての忠実なるシーア派教徒に この聖戦に参加するよう呼びかけが行われた。
歴史上初となるシーア派によるジハード(JIHAD)の始まりである。
ジハードを宣言するイクシ・イドリース。 イドリース朝はファーティマとアリーの子孫イドリースが、アッバース朝からモーリタニアに落ち延びて開いた王朝であり、 それ故にファーティマ朝と同じくシーア派の国家であった。
しかし、このジハードにファーティマ朝は大きく出遅れてしまう事になった。 ジハードが宣言された1011年に、ファーティマ朝はエジプトのダミエッタ征服に着手したばかりであり、 また弟ニザームとの対立(最終的に退廃を理由に処刑)や異端者(ドルーズ派)による反乱など、 国内も安定しておらず、とても遠征が行える状態ではなかった。
結局、このジハードにファーティマ朝が参戦を表明したのは3年後の1014年であり、 アレクサンドリアから軍隊を乗せた船団が出立した、ちょうどその日に カリフ・イクシとアンダルシアを領するホスピタル騎士団との間で和平が成立し、 ジハードの敗北が宣言された。
敗北の原因はファーティマ朝の不参戦が大きい部分ではあった為、 収まりのつかないカリフ・イクシは、サディクに対する非難を公然と行ない、 それを伝え聞いたスルタンサディクも、カリフ・イクシに対して指導者として力不足である事を非難した。
後年、カリフ・イクシは世界で二つしかないシーア派国家同士が対立し続ける事を危惧し、 40代にして未だに妻を娶っていなかったサディクに、自身の娘との婚姻を提案。
スルタンサディクは、この婚姻によりアフリカのアグラブ朝を牽制できると考え、 今までのカリフに対する無礼を謝罪し、喜んで婚姻を了承した。
エルサレムを領するホスピタル騎士団は、先のジハードにより疲弊しきっており、 騎士団の統治に不満をもっていた封建領主達が一斉に反乱を起こし、各地で独立領主が生まれていた。
スルタンサディクは、これをエルサレム奪還の好機と見て、大軍を発すると ダルム(darum)、ベイルート(beirut)、スール(sur)、アクレ(acre)と次々と征服。 エルサレムのホスピタル騎士団領を切り崩していった。
スルタンサディクは、未だアッバース朝の影響下にあったアラビア半島への遠征を始めた。
抵抗は微々たるものであり、1024年にはスンニ派領主の追放と 新たにサナア、イマーン、ダムマン、メディナの太守領を設置する旨を公布。
この遠征によって、内外にファーティマ朝の威容を示したスルタンサディクは この頃から、"壮大なるサディク"と畏怖をこめて呼ばれるようになったという。
全てのシーア派教徒の指導者であるカリフ・イクシが、身体障害の悪化により崩御した。
そして、ちょうどその年にスルタンサディクに待望の男子が誕生した。 ミルザ(王子)と名づけられた赤ん坊を眺めながら、スルタンサディクはこう呟いた。
「この子はカリフの生まれ変わりに違いない。将来はきっと全シーア派教徒を率いる偉大な存在になるだろう」
この頃、スルタンサディクはアラビアの征服で過剰な自信をもち、元から大言壮語をよく口にする性格だったのが 悪化し、自らの大きすぎる野心を口にしては群臣を困惑させるようになっていた。
もっとも大きなものでは 「西はモーリタニア、東はペルシア、北はビザンティン、そして最後はイスラム世界の頂点へ」 とまで息子ミルザに語っていたという。
このカリフ位を狙うような発言は、新たにカリフに即位したウグワイスタン(Ugwistan)の耳にも 入っていたが、サディクの妄言と取り合う事は無かった。
1030年にトゥールーン朝エジプト王国を滅ぼし、エジプト全土を手中に収めたスルタンサディクは メソポタミア地方で未だアッバース朝を支持していたバスラ太守領に攻め込んでいた。
ファーティマ朝の軍勢は二つに別れ、クェート城、バスラ城をそれぞれ包囲していたが、シナイ共和国から凶報が訪れる。
ホスピタル騎士団のエルサレム防衛を手ぬるいと考えていたカトリック教会の長・教皇マリナスが 再びエルサレムに対する十字軍を宣言。ベニスやジェノアの船団を借用しフランク人が大挙して押し寄せようとしているという。
この報告を受けたサディクは、自国の国力を過大に、フランク人勢力を過小に評価し、 誤った判断を下した。
「クウェート城の一手をガリラヤへ、バスラ城の一手はこのまま包囲を継続とする」
スルタンサディクの命令を受け、クウェート城を包囲していた将軍イスマイール・ハーシムの軍勢は、ガリラヤの地に急行。
集結中だったフランク人の軍隊をバールベックの地で撃破に成功。その後も各地で十字軍を撃破したが 続々と現れる十字軍に徐々に押されていき、1035年についにイスマイールが戦死し、軍勢も壊滅した。
バスラ太守を降伏させ、ガリラヤに向かっていたスルタンサディクはこの報告を聞くと、ようやく事態の深刻さを理解した。
「シリア単独ではフランク人に対抗できない」
そこでスルタンサディクは、サッファール朝スルタン・ヴィスタブ(vishtasb)と同盟を結び、助力を得ようと画策した。
かつてサッファール朝はアッバース朝に味方しては、ファーティマ朝と激突してきた仲ではあったが、 この頃には、アッバース朝を見限り始めており、サッファール朝側でもファーティマ朝との関係修復は望ましかった。
スルタンサディクの三女がヴィスタブに嫁ぎ同盟は成立し、ヴィスタブは4万の兵をガリラヤ防衛の援軍に派遣した。 これでファーティマ朝は一時持ち直し、ベイルートなど一部の城を十字軍から取り戻した。
が、バールベックの地に集結していた十字軍か、ダマスカスを包囲中の十字軍か どちらを攻めるかで、サッファール朝とファーティマ朝の間で意見が対立。
ついにはヴィスタブに嫁いだ娘が死んでしまった事を口実に、同盟の解消を宣言すると軍を引き上げてしまった。
単独で十字軍に当たる事となってしまったファーティマ朝ではあったが、 スルタンサディクは全土から3万の兵をかき集めるとバールベックの地へ進軍。十字軍4万と激突した。
「神は偉大なり」
ファーティマ朝の全兵士がそう雄叫びを上げ、十字軍への突撃を開始。 スルタンサディクも自ら騎馬で駆り、先頭に立って奮闘した。
長い攻城戦を行っていたからか意外にも十字軍の士気は低く、あちこちで十字軍の隊列が崩れていった。
サディクの脳裏に勝利の言葉が浮かんだその瞬間、兵士がこう叫んだ。
「南方より軍勢!!赤地に獅子紋・・・イングランド勢だ!」
その言葉の意味は、首都ダマスカスの陥落と、それを包囲していた十字軍6万の来襲を意味していた。
教皇マリナスは十字軍の勝利を宣言。 ファーティマ朝の領していたエルサレム領は、功績著しいマーシア朝イングランド王国のヘアバート豪胆王が任される事となり、 以降はエルサレム王も兼ねる事となった。その名は歴史上に輝かしく載る事となるだろう。
マーシア朝イングランド初代国王ヘアバード豪胆王。 アングロサクソン族による最初の王国イングランドを建国し、宗教的情熱から エルサレムにまで遠征し、ファーティマ朝スルタン・サディクを破った。 掛け値なしの英雄。
一方、敗戦となったスルタンサディクはもはや見る影もなく憔悴していた。
塞ぎこみ続けた末にサディクは気が触れたのか、悪魔に取り憑かれたかのように 数々の奇行を起こし、そのスルタンの姿に、臣民のスルタンに対する信頼は失墜していった。
"壮大なるサディク"、かつてそう呼ばれた偉大なる君主は、晩節を自ら汚し その栄光に泥を塗っていった。
ファーティマ朝5代目スルタン・サディクは、8月4日に梅毒により崩御した。
サディクの栄光は余りに大きく、それ故に晩年には目を覆いたくなる。 それまで神の恩寵を一身に受けていたサディクが、バスラ城での判断を誤った事で 神から見放され、スンニ派のサッファール朝などを頼ったが故に裏切られ、フランク人に敗北したのだ。 しかし、それでも尚、サディクは壮大なる者であったといえる。 サディクによって膨れ上がった国土はすぐに豊かさを取り戻し、報復の時はすぐにでも訪れよう。
それを為すのが、新たにスルタンとして即位したサディクの子ミルザの使命である。
シリア王国第6代スルタン"栄光のミルザ"の時代が始まろうとしていた。