これは、偉大なる預言者の一族であるファーティマ家による シリアにおける覇権の確立と、そこに至るまでの運命、栄光と困難を記録した物語である。 -Ibn al-Juwayni-
最初の主人公となるダマスカス太守フサイン(Hussayn)は、西暦867年時点ではアッバース朝アラビア帝国に仕える一家臣に過ぎなかった。
フサインは狂信的なシーア派イスラム教徒であり、スンニ派である主君を快く思っておらず、 いつかはアッバース朝の支配を脱し、シーア派の国家を築こうと考えていた。
そこでフサインは、まずはシーア派の中で分派していたイスマイール派と 十二イマーム派とを一つに纏め上げ、シーア派の力を結集する事を考えた。
※シーア派における指導者を【イマーム】という。 (図はイマームの継承の流れがわかるものだが、7代目イマームであるムーサ(Musa)を認めずに イスマイール(Ismail)こそが正統なるイマームと唱えた一派がいた。それがイスマイール派である。
そしてムーサを認めた主流派が十二イマーム派であり、ついでに5代目イマームの正統はザイト(Zayd)といっているのがザイド派であり、 1代目イマームであるアリーの末子ムハンマドこそ真のイマームと唱えたカイサーン派などがある。
当時、独身であったフサインは、妻を生涯娶らないことをアッラーに誓うと共に 9代目シーア派カリフ・ムハンマドの孫アリーを後継者とする事を配下の諸将に宣言した。
この9代目シーア派カリフ・ムハンマドとは7代目イマーム・ムーサの子孫であり、 ダマスカス太守であるフサインは、イスマイールの子孫であった。
これはイスマイール派から十ニイマーム派への一方的な譲歩となる事から、 配下の多くがフサインを非難する事となったが、フサインが
「ハサンは身一つで来るのだ。我らの正しき教えでハサンを導いてやれば良いだけだろう」
と言うので、配下達は不安ながらもハサンを受け入れる事とした。
ハサン・アルカリー 9代目シーア派カリフ・ムハンマドの孫であり、メディアモスクのムッラー・アリーの子。 ダマスカス太守フサインが自身の後継者として十二イマーム派から迎えた。 ※史実では11代目イマームであり、毒殺され僅か27歳で生涯を終えた。 十二イマーム派の教義によれば、彼の息子ムハンマドこそがマフディー(救世主)とされる。
フサインは失望し、家臣達はほくそ笑んでいた。 というのも、この2年間でハサンがお世辞にも君主にふさわしい人物とは言い難い事がわかったからだ。
臆病者であるのに血筋を誇った傲慢さを持ち、イマームの家系だけあり教養はあるが 多領主との外交も金の管理も満足に出来ず、剣を振れば何も無いところで躓き転び怪我をする始末。
フサインは、この頼りない後継者にシーア派の未来を任せる事は出来ないと悟り、 自身一代での大望成就を実現すべく、性急な勢力拡張策を進める事となった。
家臣「やはりここは北西部に乱立するイスラム諸侯を攻めるが上策かと」 フサイン「いいや、それよりも西のガリラヤ(galilee)太守配下であったシャイフ(伯爵)領に攻め入ろう」
※ガリラヤ太守カンタクゼノス家はギリシヤ人だった為か、皇帝から太守の地位を没収され、 この時、シャイフ領が乱立していた。
家臣「同じアッバース朝の臣であるのに宜しいので?」 フサイン「今の皇帝の王権は低い。家臣同士のいざこざに構う事は無いだろう。それに」 家臣「それに?」 フサイン「スンニーなど虐げてしかるべきだろう」
ダマスカスを出立したフサインの軍勢は、ガリラヤの各シャイフ領に攻め込み さらにその間に発生したシリア太守領の内乱に乗じて、太守側、反乱側共に攻め入り さらにさらにトリポリ太守領にまで攻めこみ、その全ての地で征服を成功させた。
※地図は後世のものを使っている為、詳しい勢力図はわかっていない。
尚、頭を下げ降ったシャイフ達はフサインの勧めに従いシーア派へと改宗。 素直に改宗したシャイフ達に感激したフサインは、彼らを古い家臣同様に厚遇する事をアッラーに誓い、 当初、嫌々改宗したシャイフ達もフサインの公平な態度に感じ入るようになり、 いつしかフサインは「公平なるフサイン」と呼ばれるようになった。
10フィートもの背の高い女性がツファットの州で十字架につけられた。
春にダマスカスの付近の川で氾濫が起こった。