1337年のデンマーク王冠。フュン島、シェラン島とスコーネの一部が外国に奪われている
ユラン北部を治めるヴァルデマ王子
海外領エストラントを治めるオト王子
ユラン南部を治めるスリースヴィ公ヴァルデマ5世。野心的でデンマークの内憂である
スコーネは大司教が統治している
HIPのみ登場のフリーシアン人。陰謀能力が光る
先王クリストファ二世から譲り受けた土地を支配するドイツ人諸侯の一人。 本名ゲアハルトだがデンマーク人にはギアトと呼ばれていたらしい 史実ではホルシュタイン・レンツブルク伯爵だったがゲームでの称号はホルスティーン公。
シェラン島東部を支配するドイツ人諸侯。あんまり温和に見えない
ヴァルデマ再興王は、先王クリストファ二世の第三子である。 幼少より聡明で、思索は深遠、立ち振る舞いには聖の徴があった。 主の1337年正月、Valdemarはフローゼを宰相、スリースヴィ公ヴァルデマを王国元帥、オールボー市長ヤルマを宮廷長官、ウトランデ総督エズルフを密偵頭、ヴェステヴィク司教ゴズフレズ→ペーザを宮廷司祭に任じた。
正月12日、ザクセン選帝侯ルドルフの娘ビアトリクス・フォン・アスカンを立てて后とした。一男四女を生み、
第一子をマウダリーネ、第二子をスィスィーリェ、第三子をイリザベト、第四子をソフィーイ、第五子をイーレクという。
14日、王子は野心的であるスリースヴィ公ヴァルデマ5世に給仕長の職を賜り、関係の改善を図られた。
1337年11月17日、ヴァルデマ王子はスナボー城にて宴を開き、エストラント公、スリースヴィ公、スコーネ大司教らを招いた。
王子は兄であるエストラント公オトとは久しくの対面であった。
二人の間にどのような会話があったのか、どの文献も詳しくは伝えてはいない。
だが、二人はこの宴会において一層絆を深め、共に王国の再興を誓われたとされる。
1338年5月2日、マータ・エストリズセンが薨去された。
イーレク5世の子で、ヴァルデマ王子の叔母にあたる。スウェーデン王ビルイェルと結婚し、二男二女を生んだ。
長女アウネスはエストラント公オトの妃である。
1338年6月23日、ウトランデ総督エズルフ密偵頭が奏上した。
先ほど私の配下の商人が言うには、殿下の姉マグダレーネ殿下から殿下の宮廷の者へ書状を届けるよう頼まれることが多々あり、
不審に思い書状を見るとマグダレーネ殿下が王子殿下を暗殺するべく賛同者を募っていたとの事です
王子は意外に思われ、
余を殺したところでユランは姉君ではなく兄君の物になるだけだ。姉君は気が狂われたか。また、誰が賛同しているのか。
とのたまわれた。
殿下の後に、エストラント公殿下も弑すのであるかもしれません。幸い未だ賛同者は少数です
7月20日、ヴァルデマは詔をもって応えた。
今申しわたすが、近ごろ諸臣のうちに無礼なうえに逆心をもつものがいると聞く。
慈悲のある政治は行うに容易いが、陰謀は国家の大事であるゆえにこの際迷っている頑なな者の心を慈しみ、諭して、矯正するべきであると思いこのように申しわたすものである。
身に覚えのあるものは存亡の機にあることを悟り、人に咎められるような事をしてはならない。汝ら己の家や祖先の名を辱めること無き様に勤務されよと言う余の詔を皆承れと申しわたす。
7月25日、アナ・フォン・ハプスボーら宮廷内の賛同者が深々と頭を下げ殿下の御恩に感謝し、王子は満足された。
ウトランデ総督エズルフ密偵頭が奏すには、
国外の姉君殿下にも陰謀を止めるよう諭すべきではありませんか
王子、答えて曰く
もし余が諭したとしても、姉君は今度は兄君に刃を向けるかもしれぬし、もっとほかの者を陥れようとするかもしれぬ。
そうであれば姉君は構わずに宮廷内で賛同するものがいないか見張るに留めておくべきであろう
エズルフは王の御配慮に深く感服した。
10月20日、ヴァルデマ王子は詔を発した。
今思うに、余は非才で、その行いにも見通しがないのに、ひとえに主の恩寵によってユランに封を賜りし身である。
この聖徳に少しでも応えるべく余はローマに詣で、全き信仰の加護を受けんと欲す。
行幸の理由は信仰上の面も確かにあるが、その他にローマ教皇との関係改善もあったであろうと言われる。
当時の教皇ベネティクトゥス12世は神聖ローマ皇帝ルードヴィヒ4世と対立してアヴィニョンに教皇庁をおいており、
占領地の返還を求めて同じく神聖ローマ帝国と対立することになるヴァルデマ王子は教皇の支持がほしいものであったが、
ヴァルデマ王子はその浅薄な性格により教皇庁から嫌われていた。
そこでローマで教皇に謁える事により関係改善を望もうとしたとされている。
ところが当時はアヴィニョン教皇庁時代であり、ローマに教皇はおられないのだが廷臣のうちそのことを指摘したものは誰もいなかった。
11月5日、密偵頭ウトランデ総督エズルフが行啓中の摂政に任じられ、王子はローマへ進発した。
12月4日、王子はローマに達した。王子は教皇への謁見を望んだが上記のように教皇はアヴィニョンにおわしたので会うことはできなかった。
教皇が識学者であると聞き及んでいた王子はローマにおいて古典に触れ、
多くの教養を身につけたが、教皇は王子が敬虔にして顕学であるとの認識を受けたがそれ以上の関心は持たなかった。
一応マシにはなった
1339年5月29日、イングランド王エドワード三世の長子エドワードが薨去した。
”黒太子”の名はこの世界では轟かなかった。
ケント伯ジョンとその母親マーガレットの陰謀である。
1339年10月26日、フランス王フィリップ6世が暗殺された。
跡を継いだ先王の嫡子ジャン2世が初めて行った政務は、ベネディクトゥス12世をアヴィニョンから追放し対立教皇を擁立することであった。
ベネティクトゥス12世はフランス人で、先王フィリップ6世の貢献により即位したにもかかわらず敢えて新しい教皇を擁立した理由は不明であり、多くの風聞が立った。
フィリップ6世暗殺の首謀者”賢公”アルベルト・フォン・ハプスブルク2世と教皇は懇意であり、彼を破門をしようとしなかったからという説、
それどころか教皇が暗殺の資金提供を行っていたことが発覚したからだという説、
逆にこれらの風聞を流しているのは対立教皇ボニファティウス9世であり、自らの野望を達成するために彼がジャン2世をそそのかしたのだという説まであった。
対立教皇ボニファティウス9世。教皇よりも友好的である
8月28日、ウトランデ総督エズルフ密偵頭が妻を刺殺するという事件が発生したが、王子は気にせず頭を任用し続けた。
1341年、エストラント公オトはロタリアを巡り係争しているエーゼル=ヴィーク公ヤーコプと交戦状態にあった。
王子は兄の戦争に加入することを決意し、2000の兵と共に王子自ら将軍として出征された。
王子はエストラント公の軍勢と合流し、
10月15日のムフ島の戦いにおいて敵兵を撃破した。
この戦いで王子はエーゼル=ヴィーク公位を、エストラント公はロタリア伯領を手に入れた。
エストラント公はロタリアをウルフェルト家のアンデレスをして治めさせた。
1342年6月25日、シェラン島、フュン島を支配している禿伯爵ギアトの第二子ニコレースが転落死した。
これまでにも兄ハインリイ、弟エードルフとアルメリイが不審な形で死亡しており、その暗殺指令者ではないかとにわかに噂されていたところの死であった。
ニコレースは殺害に関与していた…ただしヴァルデマの手先として
ギアトはニコレースの死の間際に駆けつけ、何事かと問うた。
なぜだ、我が息子よ…!誰の手によるものだ!汝の兄や弟らの命を奪った者にやられたか?!
ヴァルデマです…クリストファのせがれの…奴に載せられ、を弑して回った付けが来たのです。私利に走り家名を汚す事申し訳なく思います
やはり彼奴あやつであったか…
ホルスティーン公ギアトは大いに怒り王に抗議した。
我が子らを殺めた悪魔め!この件は陛下に奏上し奉る!
身を清めて御沙汰を待つが良い!貴様の血にまみれた手では決して王冠を攫めまい!
これに応えるヴァルデマはホスルテイン公ギアトの抗議を根拠のない妄言だと否定した。
何を仰せられる、このヴァルデマ、天地神明に誓い無実でございます。
貴公の子息が何と申されたかは知らぬがそれは僻事でしょう」
この後、皇帝ルードヴィヒ4世は何もヴァルデマにのたまうことがなかった。 姉殿下マグダレーナはこの件を口実にヴァルデマをユランより追放し自身をその後継とするよう強く奏上されたと伝わるが、 皇帝は聞き入れなかったようである。一説によるとここでヴァルデマに恩を売ることで 息子・ルードヴィヒの代でヴァルデマが彼の良き同盟者となることを期待したからとされる。
だが、風聞は広まり、人々は”狡兎死して走狗煮らる”とはまさにこのことだと噂し合い、果てには教皇の耳にまで入るようになった。
「ヴァルデマよ、汝の汚名はローマにまで届いておるぞ」
このことは王の御心に大いに負担をかけた。
8月2日、王は塞ぎ込むようになり、評議に顔を出されないことが多くなった。
1343年3月24日、予てよりシェラン島を非道に統治していた”禿伯爵”ギアトがラナス(Randers)のギアト邸にて暗殺された。
ギアト・フォン・シャウエンボーは幼少より凶悪で、成長するに及んでよく人を偽り陥れるようになった。 気性荒く、1332年に先王クリストファ2世から譲り受けたフュン島とシェラン島の西部においても租税を民衆のために使わず 自らの懐に入れ、彼と彼の気に入る者のみにその富を分け与え、民衆には怨嗟がたまっていた。このような者を主は深く考えられ、義の者を遣わしになられた。
其の名はニルス・エベッセン*1。ナアアリースの領主であった彼は禿伯の行為に心を痛めていた。 彼は禿伯が3月23日にラナスにて宴を開くという情報を攫んでおり、この日は折しも雪の降る日であり、月もほとんど出なかった。 彼は揃いの陣羽織を着た47人の同志を率い、陣太鼓を鳴らし禿伯邸に討ち入り、見事禿伯ギアトを討ち取ったのである。 ところでナアアリース義士47人には一人グーゼンオー川を超える途中で姿を消した者が居る。 この者は怖気づいて逃げたのであろうか? 否、彼はグーゼンオー川に架かる橋の楔と釘を抜き、義士が橋を渡ったあとに追手が来れぬ様に橋板を投げ捨てるという使命の為にこの地に残ったのである。 彼はその使命を十分に果たし、義士たちは逃げ切ることに成功した。
ヴァルデマ王子はこのことを聞いて大いにお喜びになられた。 王子だけでなく国中の聖職者・騎士・市民全てが非情な支配者の死を喜んだ。
禿伯ギアトの息子たちは皆事故により早世していたので次の後継者は兄であるギゼルベレヒトのはずであったが、
ギゼルベレヒトはデンマーク人のシャウエンボー家への怨嗟がすさまじいことを悟ると、
禿伯の土地を継承する気はなく、妹の息子にあたるスリースヴィ公爵ヴァルデマに譲ると王に申し上げた。
この時を持って、シェラン・フュンの両島はデンマーク王冠の元に戻ったのである。
全デンマーク中で祝賀が開かれ、民衆は皆正当たる王を迎えることを望んだ。
兄オトは弟ヴァルデマにこう語りかけた。
汝がシェラン・フュン両島を取り戻すため、さまざまな努力をしていたことは皆が知っている。
王は功ある者がなるべきであるから、汝が王になるべきだ。
そう、皆が知っている
1343年4月1日、諸臣はスカナボー城に詣で、奏上して曰く、
デンマーク王子オト殿下におかせられましては、聖徳の心を持たれまして殿下に王位を譲り奉られました。殿下こそ正当な継承者におわします。
この国の主となりて、祖先の窮まりなき勢いを受け継ぎて、上は主の御心に向かい、下は民の望みを叶え賜りますよう。
そして遠近の諸国の群臣をして我が国に失望させることがありませんようにと主の御高配され、兄殿下もお譲りになられた
殿下におかせられましては、その徳が更に益し、吉兆も甚だ明らかとなり、幼少より忠孝に勤しまれ、恭しく慈の心をお持ちでございます。
兄殿下の御心を受けて、大業をお受け継ぎください。
これに対し王は
可(ゆるす)
とのたまわれ、ヴァルデマ四世として即位された。