AAR/ターヒル家は傷つかない

938年ペルシャ王アブダッラーが死に、バフティヤルがこの跡を襲った。

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バフティヤルは先王の末子で、外交能力に長けていたが為政者としてもっとも重要な軍事的カリスマ及び管理能力に不安があった。 また彼自身統治者となることを望んでいなかったとも言われる。

先王が始めたシールジャーン公との戦争を引き継いだが、939年シールジャーン公が再びサッファール朝に服するという事件が発生。 すわサッファール朝とターヒル朝の全面戦争かと思われたが、940年にサッファール朝のヤアクーブ2世(後大王と呼ばれる)が譲歩し、ターヒル朝が要求していたバニ伯領を割譲、この場を収めた。

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気がかりなのは武人として名高い腹違いの兄ホーシュヤールであった。 彼は先王の征服事業を前線で支え続け、その功績で自らにターヒル家の跡取りとなる権利があると思っていた。 ホーシュヤールはその野心をもってペルシャ王国内の諸伯領を征服しはじめ、941年バフティヤルはついにこれを討伐することを決めた。

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ホーシュヤールは先王の時代から率いていた強力な軍隊を擁していたが、943年までには全ての伯領を取り上げられ亡命した。 王はさらに反乱の兆しを見せていたルート伯を追放し地盤を固め、王権を中程度までに引き上げる宣言を行った。

いよいよバフティヤルは外征に乗り出すことになる。

943年にアルシャーラービー公に宣戦布告、945年にはダブリーズを奪取。

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この頃アッバース朝はカリフ・ムバラクの元地中海沿岸やカスピ海沿岸の中小領主に服属を求める戦争がほぼ成功の内に終わっており、 国力は増強されターヒル朝やエジプトのトゥールーン朝を脅かすまでに勢力復興を成し遂げていた。

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アッバース朝に対しなんらかの手を打たねばならないが、中東においてカリフの権威は強大で、これに対抗しうるのは異教徒か異端ぐらいであった。

しかしこの内異端はすでにカリフを頂き反乱を起こしていた。

シーア派である。

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シーア派は異端の中でももっとも歴史が深く、ある意味で正当性がある一派で、イエルサレム付近で8000の軍勢を率い蜂起していた。頭目は6歳のサイイドを称する少年 である。

バフティヤルは悩みに悩んだ挙句、「最後にして最大の預言者の直系子孫を保護する」という名目のもとにアッバース朝領内に進軍。第一次ペルシャ=アラビア戦争が始まった。

まだ領土の大きさに国力が追いついていなかったアッバース朝は敗北を重ね、さらにアッバース朝に不満を持つ勢力が蜂起しアラビアは大混乱に陥った。

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国内のおよそ半分が反乱に与するという有様であった。この反乱はその後10年続く。

しかし肝心のシーア派はアッバース朝本隊に打ち破られ、シーア派カリフの消息が掴めなくなってしまった。

952年もはやこれまでと思ったバフティヤルは講和によってタバリスターン伯領を手に入れこの戦争から手を引いた。

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短期的に見ればアッバース朝の勢力を混乱によって削ぎ落としたと言えるだろうが、長期的に見ればシーア派カリフを保護出来なかったことで後のアッバース朝との抗争に正当性がなくなることになり、非常に分の悪い講和となった。

この期を逃さずサッファール朝のヤアクーブ2世はアッバース朝と同盟、カリフに恩を売るべくアッバース朝反乱地域に軍を進めた。バフティヤルはこの政治的失策によって東西挟撃の危険に見舞われた。

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ヤアクーブ2世はこの頃までにはシールジャーン公の服属や国内統一、インドの北西端における聖戦を成功させ、サッファール朝の最盛期を現出し大王と呼ばれていた。

953年バフティヤルはアルシャーラービー公に最後の戦争を仕掛け、954年これをペルシャから追った。

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954年バフティヤルはアッバース朝反乱を潰させないためサッファール朝に宣戦布告した。 しかしこれはヤアクーブ2世の思う壺であり、ヘンジャンの戦いでバフティヤルは勝利しシールジャーン伯領を奪うものの、957年自力でアッバース朝が反乱時代を終わらせてしまう。

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当初の戦争目的は果たされず、貧しい土地のためにサッファール朝とアッバース朝の関係を強化した形となる。

しかしバフティヤルは最期に彼が誠実で敬虔な王であったことを知らしめた。

959年の冬、サーマーン朝のシャーロフ王が24歳にして何者かに暗殺される。

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そして首謀者不明のまま5歳の長男シャーヤーが跡を継いだ。

これに対し長年サーマーン朝と同盟関係にあったバフティヤルは、シャーヤー王と自らの娘を婚約させその上で再度同盟を結び、不穏な事態となった時は自らが必ず後見するとサーマーン朝に伝えた。 サーマーン朝首脳部はこれに感激し、すぐさま豪華な婚約式がヒヴァで行われた。

しかしサーマーン朝の動揺は収まらず、960年国内最大勢力にして王の親類であるメルブ公が王位を求めて蜂起、6000の兵を率いて王都ヒヴァへと進んだ。

バフティヤルは盟約に基づき、960年の夏までには自ら兵を率いてサーマーン朝領内に入る。そのまま敗走していたサーマーン朝軍を再結集させ、ブハラの戦いでメルブ公に決定的に勝利した。

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しかし961年ヘラートまで追撃したペルシャ軍はそこでメルブ公の激しい抵抗に遭い、戦闘には勝利したもののバフティヤル王は戦死した。40歳であった。

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ペルシャ王は長男アボルハサン(黒人国家バルバラ公国の家臣ゼイラ伯の娘を母に持ち、彼自身も黒い肌をしていた)が継いだ。

バフティヤルは政治的に無能とは言いがたいものの、その治世はサッファール朝の大王ヤアクーブ2世に踊らされ続けた形となり、政治的努力は裏目に出続けアッバース朝とサッファール朝を結びつけてしまう結果となった。 兄ホーシュヤールは猪突猛進な部分があり、これを先王が憂えたためバフティヤルが後継者に指名されたとされるが、彼自身は自分が王の重責を担えるとは思っていなかった。 人格者であったことなどが知られるが、概ね王としての評価は低い。 後世バフティヤルの時代は次代アボルハサン(賢王)の輝かしき治世の前段階として語られることになる。

番外編 961年のターヒル朝と周辺国第四回 アボルハサンの治世


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