ターヒル家はホラーサーン地方(ペルシャ中央部)を治めていた王家である*1。 イスラム帝国に前に屈したペルシャ人であったが、歴史深いペルシャ人の民族意識は消えることなく、ついにアッバース朝からターヒル朝を頂いて独立した。 周辺のゾロアスター教地域に聖戦を仕掛けながら領土を拡大してペルシャ全域に影響を及ぼす勢いだったが、867年時点で臣下サーマーン朝の独立や、サッファール朝の猛攻によって王朝の命運は風前の灯火であった。
Tahirid・・・ターヒル朝 Saffarid・・・サッファール朝 Samanid・・・サーマーン朝(画面中央上見切れている緑) Abbasid・・・アッバース朝
867年5月、コーイスタンでターヒル軍はサッファール軍と戦い壊滅、抵抗力を完全に失った。
ターヒル家の一族でファールス地方*2を治めていたスレイマンは、自領の軍を総動員して抵抗したが多勢に無勢であり彼の軍も壊滅した。
872年までに軍事的天才にして一代の英雄サッファール家のヤアクーブ王は完全勝利を宣言、ターヒル家家長ムハンマドはこれに応じ屈服した。
ターヒル家はサッファール朝の元で存続を許されたものの、前王ムハンマドはクィヴィルに封じ込められ王国復活は不可能に近かった。
スレイマンは敗戦の原因をいがみあってばかりで連携を取らない兄弟たちであると冷静に分析した。 そしてこの兄弟たちを滅ぼしてサッファール朝に対抗出来る軍を作ることを誓った。
機会はすぐに巡ってきた。なんと873年にヤアクーブが病死、1歳の長男が継いだがこれも874年に親族に殺害され、0歳の次男が即位した。
サッファール朝はもはや東ペルシャにかまけている場合ではなくなった。
スレイマンはまずサッファール朝に多額の献金を行ってファールスの公爵となることに成功した。さらにファールスの慣習的領土であるフーゼスターンを腹違いの兄に要求。
拒否されるとユダヤ人から金を借りて軍を編成し、875年、これを強奪した。
次に狙いをつけたのはホラーサーンの公爵位である。これは元々ターヒル家のものであったが先の征服戦争でサッファール朝の雇われ貴族に授与されていた。
この雇われ公爵は地盤が弱く、王家が混乱しているなかで自活できるほど強くはなかった。 これに対し875年に宣戦布告し、879年までには全土を屈服させた。
こうして瞬く間に旧ターヒル王家領の半分までを取り返したスレイマンであったが、悲願を達成するには最も豊かなイスファハンの土地を征服しなければならない。
腹違いの兄が支配するイスファハン伯領に侵攻。兄は戦争中抑うつによって死亡、その子が地位を継承した。
しかし事件は起こった。881年、王家がまたしても雇われ貴族をイスファハン公にすることで、ファールス公スレイマンを牽制してきたのだ。
これにより一旦スレイマンは軍を解散しなければならなかった。
スレイマンは体勢を立てなおすと、別の切り口から侵攻の口実を作った。兄が死んだことで弟である自分に領土を継承する権利がある。イスファハン伯領及びアスファーブ伯領は自分に帰するべきである、と。
より正当な大義名分を得、かつ隣国のシールジャーン公と手を結んだスレイマンは、881年にイスファハン公へ宣戦布告し885年まではに全ての要求を飲ませることに成功した。
885年にはイスファハンに遷都、この頃には4千人の動員兵力を誇った。 887年、サーマーン朝の王に自分の娘を嫁がせ威信は全ペルシャへと広まった。 889年、自然死。67歳であった。ファールス公及びホラーサーン公の地位は実務能力に長けた次男が継いだ。
スレイマンは外交にも内治にも傑出した才能を示し、次々と政敵が死ぬなど幸運に恵まれながら、一部を除く旧ターヒル家の領土を奪回した。彼が育て上げた軍事力は次代の飛躍に大きく貢献することになる。