素の能力値が低い上に「親切」「満足」などの特質の影響でIntrigueはゼロ
キャスニオは誰からも「善人」と呼ばれる人であった。 あるいは為政者でなく、農奴として生まれていた方が幸福だったのではないかと言われるほどに。
そんな彼が謀略の人として歴史に名を残すのは、母から引き継いだブリテン諸島への領土拡張方針を自身の使命と定めたこと、領土紛争で対決し続けるスコットランドが「不幸にも」あまりに脆弱だったせいと言える。
キャスニオは王位につきながら実権を掌握しておらず、彼の側近・顧問団がその治世の主役だったのではないかという説が今では支持されている。 キャスニオは王位を継承して以来、常に良心の呵責に苛まされていたと記す史料もある。
アルバニーとモーレイの公爵を兼ねる大公フラング
キャスニオが最初に狙ったのはスコットランド中部のアルバニー公爵領だった。 現アルバニー公爵でモーレイ公爵も兼ねる大公フラングは、アイネの代でのギャロウェイ公爵領平定の戦いの際にアイルランドに捕縛されていた。 執政はフラングの長男マシューが代行していたが、公が不在となれば爵位の「正当な」請求を訴える口実とできる状態であった。
次男マトゥダンと妻フィンゴラ、マトゥダンの長男ファーイク。 マトゥダンはアイルランド王の宰相を務める。
顧問団の勧めもあって、キャスニオはフラングの姪にあたるフィンゴラという娘を末子である次男マトゥダンに嫁がせていた。 フィンゴラをアルバニー公爵に即位させ、マトゥダンとフィンゴラの間に生まれたファーイクという息子に将来継がせれば良いと考えていたのである。
1168年、キャスニオがアイルランド王を継承してから6年目、キャスニオは公が不在のアルバニーについて、フィンゴラが代わって公位に就くべきとスコットランドに宣戦する。 ただでさえ軍の規模で劣るスコットランドは、近年の反乱でさらに消耗していた。 アイルランド軍がアルバニーの各地を制圧するのは時間の問題と思われた。
が、この戦いはキャスニオが予想しえなかった終わり方を迎える。 兵を挙げてわずか数日後、当の請求者であるフィンゴラがワイン中毒で死亡し、スコットランドと矛を交える大義名分を失ったのである。 キャスニオは何が起こったのかしばらく理解できなかった。 戦う前から勝ちの決まった戦いではあったが、公の座に付く前に酒に溺れて死ぬほどフィンゴラは愚かな娘であったのか?
母フィンゴラが死亡した後のファーイク。アルバニー公爵位の弱い請求権を受け継いでいる。
「大変残念なことです。フィンゴラ様の御意思はきっとファーイク様が継ぐこととなりましょう」
側近達が口にするこの類の言葉を、キャスニオは最初言葉通り弔いと励ましの現れと受け取っていた。 フィンゴラは亡くなってしまったが、公位に就く意思を示したことでその請求権はファーイクにも引き継がれていると考えられたからだ。 だが、若き妻を失った当事者である息子マトゥダンが、フィンゴラの死の前から密偵長と特に頻繁に話していたらしい。 高まる疑念を抑えられなくなったキャスニオは、とうとうマトゥダンを問い正す。
「…お前の目から見て、フィンゴラは普段から、酒の量がそれほどまでに多かったのか?」 「いいえ。そこまで派手な娘ではありませんでした。むしろあれが酒で死ぬようには思えません」 「…であれば」 「密偵長の力を借りたのです。ワインが運ばれている際、ほんの少し給仕の気を逸らせば済む話でした」
他勢力の人間を暗殺するのに比べて、自分の宮廷内の人間のそれは非常に簡単。
キャスニオが恐れた通り、フィンゴラの暗殺は顧問団主導の行いであったらしい。
「フィンゴラが一旦アルバニー公爵となってからファーイクに継承させるのを待つより、最初からファーイクの名で請求の闘争を起こしたほうがエールの領土拡大にとって確実である」
というのがマトゥダンと顧問団が出した結論だった。 息子が妻を自らの野望の贄にもする男であること、今のコンホバル王朝の中で自分は何も知らぬ「飾り」であったことを、キャスニオは受け入れるしかなかった。
4歳にして「簒奪公」と呼ばれることになってしまったファーイク
顧問団のなすがまま、ファーイクに引き継がれた請求権を改めて主張し、キャスニオは再度スコットランド攻めを命じる。 1172年、アイルランド王を継承してから10年目、スコットランド王はファーイクがアルバニー公、およびアスフォートラ伯に就くことを認め停戦する。 キャスニオはサラーズ・イェルン伯、フィオバ伯を4歳の孫に臣従させるが、すぐにファーイクから爵位を取り上げ父親であるマトゥダンに全ての爵位を移す。 幼いファーイクは目に見えぬ爵位よりも、祖父から贈られた馬や武具などを喜んだという。
強い請求権保有者が請求権を失わずに亡くなった場合、子供には弱い請求権が継承されます。 同様に弱い請求権保有者が亡くなった場合、そのままでは子供には何の請求権も継承されませんが、弱い請求権を主張して宣戦してから亡くなった場合に限り、子供にも弱い請求権が継承されます。
また、強い請求権は場面を選ばず好きな時に宣戦布告の事由にできますが、弱い請求権を行使できる場面は一定の条件下に限られます。 対象の爵位保有者が女性であったり、既に爵位を巡って戦争中、あるいは爵位保有者に摂政がついている(爵位保有者が子供・「無能力者」の特質持ち・誰かに捕縛されている)場合などです。
今回の場合、爵位保有者の大公フラングはアイルランドで捕縛しているので、大公不在で摂政政治にさせたまま、生殺与奪をアイルランドが握っている状態でした。 ただ、請求権を主張して戦争を起こそうにもアルバニー公爵位への請求権を持った人間が非常に少なく、女性しかいませんでした。 唯一自勢力へ招き入れることができたフィンゴラをアルバニー公に就かせるにも、女性に対しては事前に領地を与えて直接の臣下とすることができません。 親族でなく、かつ臣下ではない人間の請求権で起こした戦争に勝っても、戦争後にその人物は独立してしまうので使い勝手がよくありません。
そのため、一旦宣戦してからフィンゴラを死亡させることで、同親族である孫ファーイクに請求権を移しました。 しかも宣戦に使った請求者が死亡しての戦争終結の場合、通常の停戦とは扱いが違うらしく10年間の停戦期間も発生しませんでした。 このため、ファーイクに請求権を移してから即座に再度アルバニーを求めての戦争が可能でした。 (いいのかなこの仕様…)
アルバニーを巡る戦いの後、1172年から1180年頃まで、スコットランドでは立て続けに4つの戦いが起きる。 1つ目はロージアン女公爵ミランによる王権低下を要求した反乱。 2つ目はアイルランド王臣下ギャロウェイ公爵ケイレーン2世によるエィラ・ゴルテル伯爵領の請求戦争。 3つ目はアイルランド王子・アルバニー公爵マトゥダンによるゴゥリー伯の臣従要求戦争。 4つ目はマトゥダン臣下フィオバ伯マーリーによるマン島伯爵領の請求戦争。 4つの戦いのうち3つで痛み分けの停戦が成立するが、ケイレーン2世はエィラ・ゴルテルを勝ち取ることに成功する。 エィラ・ゴルテルはケイレーン2世の直轄地として加わるが、アイルランド顧問団はケイレーン2世の力が増すのを嫌いエィラ・ゴルテルをアイルランド王に差し出すよう要求、これを認めさせる。 あわや反乱かというギリギリの状況での交渉となったようだが、アイルランド本国の軍事力の前に敵わぬとみたケイレーン2世は膝を屈することとなった。
ちなみに、ケイレーン2世はアイネの代にギャロウェイ公爵へ担ぎ上げられたケンティゲンの甥で、ギャロウェイ公爵位を巡ってストラスクライド家の中でケンティゲンが対立した兄アンガスの息子である。 ケンティゲンの子息が尽く病死し、残っていたのは私生児のみだったため、ギャロウェイの継承者となったのは結局アンガスの子息となったのである。
フィンドレイの密偵長が王を裏切って暗殺に加担
アイルランド王がこれらの戦いに介在することはなかったが、この騒乱の最中に「肥満王」スコットランド王フィンドレイがワインに仕込まれた毒によって殺される。
密偵長を兼ねるスコットランド王妃が暗殺に加担
さらにその数年後、フィンドレイから王位を継いだ「博識王」スコットランド王サムラレッドもベランダから落ち事故死する。 これらは全て仕立人不明の不審死として処理されるが、どちらもアイルランド王の顧問団が引き起こした事件だった。 フィンドレイはスコットランドとアイルランドとの間に結ばれた停戦協定を無効化するため、サムラレッドはスコットランドとイングランドの間に結ばれた同盟を無効化するためにそれぞれ殺されたとされている。 スコットランドは相次ぐ騒乱と領土喪失、王の死により長期に渡って著しく弱体化していく。
他国で反乱が発生した時、第三者からは反乱軍に対して停戦協定を気にすることなく宣戦しにいける。 横槍を突いて領土を拡大するチャンスとなる。
1183年、アイルランド王を継承してから21年目、スコットランド臣下マン島公マリースがスコットランド王の領土没収に反発し反乱を起こす。 マリースはスコットランド本土内にも領地を保有しており、マルバニー公爵の慣習的領土でもあるゴバードもその一部である。 アルバニー公爵位を簒奪して以降、アイルランド王顧問団はスコットランドでの領土拡大において10年以上成果を挙げられずにいた。 「未回収」のゴダードがスコットランド王の手を離れたのをまたとない好機とみなし、アルバニー公爵の名でマリースにゴバードの割譲を要求する。 翌年の1184年にはマリースにゴバードの割譲を認めさせ停戦。アルバニー公爵領をアイルランドが全て制圧することとなった。
さらに1191年、アイルランド王を継承してから29年目、またしてもギャロウェイ公爵ケイレーン2世が今度はスコットランド南部シールセイドの領有権捏造に成功する。 キャスニオはケイレーンを後援し出兵。シールセイドをケイレーン2世の領土として併合する。 これでキャスニオの名で獲得したスコットランド領は6州となり、先代アイネから引き継いだ3州と合わせて9州、スコットランドの過半をアイルランドが制圧することとなる。
簒奪の条件を満たしていても、簒奪相手がどの勢力とも戦争していない状態にならなければ簒奪できない。 早く十字軍が終わらないかともどかしい状態だった。
1196年、キャスニオがアイルランド王を継承してから34年目、イスラエルを舞台とした十字軍の終了を待って、キャスニオはスコットランド王位を簒奪。 自らがアイルランドとスコットランドの2つの王を兼ねることを宣言し、スコットランドの名をゲールの古い言葉でアルバと改める。 天から与えられた役目をようやく果たしたとでも言うべきか、キャスニオはこの年に75歳で大往生を遂げる。 2つの王位は宰相として力を振るい続けた次男のマトゥダンが継ぐこととなった。
マトゥダンはフィンゴラの死後、イングランド王女と結婚することでイングランドとの友好関係を保っていた。 スコットランドへの度重なる出兵は、イングランドが背後から攻めてこないという保証あってこその挑戦だった。
だが、イングランドは叙任権を握り続けていることから教皇と対立。 イングランド王が破門を宣告され、神聖ローマ帝国によるイングランド討伐を招く。 ブリテン諸島にくすぶる炎は未だ収まる気配はない。
相続や王権、租税などを定める法律は王国単位で統一されているため、新たに直轄地として得た男爵位や伯爵位、公爵位の法律は通常、既に自分が主要称号で定めていた法律で上書きされます。 ただし、別の王国内の称号を獲得した場合は別で、この時新たに得た称号の法律は自分が決めた法律で上書きされず、NPCが運用していた法律のまま変わりません。 そのため、政体としてはプレイヤーが1つの勢力を操るのですが、継承法や王権が領地によって異なる、という状況になる可能性が大きいです。 特に継承法が異なる場合は注意が必要で、実際今回はアイルランド王位は末子相続、スコットランド王位は選挙制、という互い違いの相続となりました。 継承法を変えるために必要な王権も、簒奪した時点では満たしていないかもしれません。 今回は幸運にもマトゥダンが選挙で諸侯の支持を集めて当選しましたが、場合によっては王国単位で継承先が分裂、プレイヤーが操作できる所領が大きく減ることにも繋がりかねません。