現在Schwaben伯爵であるFriedrichはSwabia公爵の封臣であり、Swabia公爵は神聖ローマ 帝国の封臣、つまりFriedrich は神聖ローマ帝国の陪臣であるので非常に戦略の自由度が 低い。まずは公爵位を目指したい。
まずは当主が独身であるので嫁をもらうことにする。 ザクセン公爵家からIdaを迎えるほか他の一族からは適当に選んで嫁を与える。
あとは内閣に仕事をまかせて時間を進めるとする。 1068年4月25日男子誕生、Friedrichと名づける。自分で子供に名付けをできるのがかなり うれしいポイントだったりする。
1070年1月25日Swabia公爵死亡。まぁ自分にはあまり影響ないが。 1074年7月 ようやくSchwyzのClaim獲得。傭兵雇えるくらいの金がたまったら攻め込む予 定。
1075年3月Schwyz伯が他国との戦争に参加している隙にこちらから宣戦。
短期戦に終わると思ったが、包囲兵力が足りないという初歩的なミスにより長期戦へ、やっぱり金貯めて傭兵前提の戦略をとったほうがよかった。
1077年12月 ようやく勝利をおさめる。と同時にDemesneが2になったことで継承法を Electiveに変更。これは継承による領土の分割を防ぐためである。また封臣のopinionが 高ければ自分が指名した後継者にほぼ確実に継承できるからである。
1081年3月 次男Albrect誕生 1082年3月 BernのClaimを獲得、即宣戦。・・・と思ったのだけれど、どうやらSwabia公爵領内でしか 戦争できないらしい。Upper Burgundy公爵を狙っていたのだだ方針転換すべきだろう。
1084年11月 世継ぎであるFriedrichがおなじくSwabia公爵の封臣であるBaden女伯爵と結婚する。
特に書くこともないまま1090年を迎えてしまったので若干国際情勢でも書いてみるこする。HRE皇帝位はZaheingen家に移動。
England王位はウィリアムが得たもののNormandy公爵位をフランスに奪われた模様。 (スクショが見難いがご容赦を)
母Hidegardeが1090年に亡くなっていたらしいこれによりSwabia公爵のClaimを獲得して いた。傭兵雇うだけの金の貯まっていたので1093年8月、主君Swabia公爵に宣戦すること にする。 1095年9月、神聖ローマ帝国がMediam Ceown Lowを採用する。私戦禁止になるのは痛い。 1097年3月 Swabia公爵との戦争が終結。Swabia公爵位を手に入れる。
1099年9月 Cyrenicaが戦争中ということで、これはチャンスかもしれないということで Capuaを狙ってCyrenicaに宣戦。 1102年9月 Cyrenicaとの戦争に勝利、Capua伯爵領を手に入れる。
1093年1月Napoli伯爵領を手に入れたことにより、Capua公爵を簒奪、同時にCapua伯爵領 の宗主国であるGonoa共和国に対して宣戦。 戦争中嫡子であるFriedrichが死亡。継承権はその子で同名のFriedrichに移る。
1098年3月 5年にわたる戦争を制し、Capua伯爵領に対する宗主権を獲得。
1110年7月 Bizerte伯がなぜか独立伯であることを見つけHoly War宣告。
1112年11月 勝利Bizerte伯領を手に入れる。
1118年1月 Friedrich も70歳となる。 死ぬまでにはAfrica王国とGabes当たりはとれそうなのでここの獲得をFriedrich最後の事業にしようと思う。
といわけで1118年3月 Sherikh of Gabes に宣戦
1120年10月 勝利し、Gabesを手に入れる。 1121年1月 年が明けたところでSultan of Africaへ宣戦。ちょうど他国の戦争に巻き込まれているのでこの機をとらえたいところ
1123年8月18日 Sultan of Africaへの勝利目前にして当主Friedrich死去、後継にはす でにBaden公爵になっている孫のFriedrichが指名された。