1260年に宣言されたファーティマ朝のアナトリアのジハードにおいて、 最序盤に当たる1261年の緒戦はアルマクディス帝国以下キリスト教連合の優勢で展開していく。
これまでの西地中海での戦いすべてにおいて陣頭指揮を旨としていたJohnny D帝はこのころになると、帝国内でも屈指の名将として知られるようになっていた。 ファーティマ朝の第一陣は1261年の間にJohnny D帝の卓越した指揮の元撃破された。
Johnny D帝には「負けられない」という一種の強迫観念に近いものがあり、1961年の一年だけで彼の体重は10kgも落ちたといわれている。
実際、ここで負ければ帝国はその東部領域をほぼすべて失うことになり、聖地の奪還の望みは絶たれるといっても過言ではなかった。
この頃Johnny D帝は、過剰なプレッシャーに晒されていた。 また、過去数度にわたるファーティマ朝の攻撃の恐怖の記憶も、彼のことを追い詰めていた。
そして1262年、Johnny D帝はストレス症状に苦しめられてきた帝は ついに倒れ、6月24日に亡くなってしまう。
後継帝のJamilはアヴェルサで行われた即位式にて、高らかに演説した。 ”先帝以来の領土は堅持する。アナトリアからの撤退はあり得ない。 そして無礼なイスラム教徒が、神が造りしアルマクディスの土を踏み、その形を変えることすら許すつもりはない。 しかし余は寛大にも彼らにプレゼントを用意している。現世での行いを悔い、来世で主の寵愛のもとキリスト教徒になるための死だ。”
しかしそのような威勢のいい演説も、父のように慕った皇帝を失った軍の士気を立て直すには至らなかった。
Johnny D帝という支柱を失ったアルマクディス軍は
続く1263年1月にはイスラム教徒の攻勢を抑えきれず退却を開始、大突破を許してしまう。
"我が国の威信と個人的な名誉、そして父帝の名にかけて領土を失うことはありえない。” Jamil帝の言葉はむしろ、不吉な未来を暗喩しているかのようにすら響いた。
1263年9月、ファーティマ朝軍がアナトリア北端に到達。
Jamil帝は完全に追い詰められてしまう。
しかし、Jamil帝は不敵に笑っていた。 "余は追い詰められてなどいない。むしろこれがチャンスの時だ。 さあ、運試しをしよう。余は命と、帝国の未来、そして神の威信を賭けるぞ。 そうすれば、神は彼の威信のため、助けてくれるはずであろう。"
山がちなアナトリア半島で大軍を維持することは難しい。
侵攻する側にとってはより困難だった。
ゆえにファーティマ朝軍はカリフ直属の軍以外の規模を10000人以下に制限し、アナトリア王領全域に展開した。
これを好機ととらえたJamil帝は、敵小部隊を、カリフ軍到達前に迅速に撃破するという戦略を取ることにした。
彼は残余の兵を率いて反攻を開始する。
Jamil帝は自ら先頭に立って奮戦し、兵力を回復させるために小休止を挟みながら徐々にファーティマ朝軍を駆逐していく。
そして1264年にはアルマクディス軍は勢力を盛り返し、ファーティマ朝軍の大部分が撤退した。
しかしながら翌1965年、今度はJamil帝が馬上で矢を受け、落馬。戦死してしまう。
最期の言葉は
"余に続け!"
であったとされている。
(Jamil帝の死、長子相続出なかったタイトルの多くが失われている。)
父を失い、幼くして帝位についた女帝Kamalaは、当時の帝都マラケシュで慌ただしく即位式を終えると、周囲の反対を押し切り戦場の兵たちを慰問し、士気を大いに向上させた。
1266年から69年にかけて、ファーティマ朝は最終攻勢を仕掛けるが
到着した神聖ローマ帝国軍や帝国史上最強の司教、Murad神父などの力を借りてこれを撃退する。
(神の教え(物理))
そして1270年、足掛け11年にもわたる長いアナトリア戦争が終結する。
帝国の旗は、未だアナトリアに翻っていた。
つづく