1182年の王位継承時既に、Erik Iは妻のMeissen女公Odaとの間に3女1男の子をもうけていた。 また、1082年のデンマーク王国は、15プロヴィンス50demesneに拡大していた。 新領の殆どは蛮族の地を平定したものだが、その多くは家臣、王族に下賜された。 同時に王領は7プロヴィンスに拡大している。これは不幸な事故、事件により跡継ぎを失いお家断絶となった伯爵家が相次いだ為である。
Skane伯などやっと生まれた跡継ぎが賊の手により惨殺され、失意のうちに昨年逝去してしまった…なんと痛ましい…
エッ、アッ、ハイッ…ソウッスネ
余の治世においてはこのような賊の跋扈は決して許さぬ!
(やだこの子天然だわ…)
後にErik Iは、別け隔てのない親切さとその積極的な社交性
から、"the Merry"(陽気王)として広く親しまれるようになったとかならなかったとか
Beneveto公からSicily聖戦への援軍を要請されました。どうなさいますか?陛下
Beneveto公…誰だっけ?
兄君Werle伯Svend殿下の奥方のご実家のようです。de Hauteville一門の
あー、イタリア半島のNorman人の一族だな。まあ、断って信仰ペナルティ受けるのもイヤだから形だけ受けといてくれ
畏まりました、陛下
2年後
法王猊下がJerusarem奪回の十字軍を募っておいでです
よし、猊下に参加するとお伝えしろ。
意外です。こういうイベントはお嫌いかと思っていました
十字軍を学校行事みたいに言うなよ。司祭叙任権を巡って猊下との関係が悪化している。猊下の歓心を買って破門を回避する為の参戦だ
戴冠からずっと平和だったからカネ剰りだ。傭兵も用意して、ついでにSicily聖戦のカタもつけちまおう
Sicily島
デンマーク軍総勢1万5千、参陣!
ヒエー
Assault! Assault! Assault! Assault!
ヤラレター
デンマーク軍の介入により、Beneveto公はSicily聖戦に勝利しPalermoを獲得した。
聖地へ!
聖地Jerusalem
異教徒Fatimid朝の軍3万2千が集結しつつあります。
十字軍本隊と合流し会戦に臨むのだ
デンマーク軍が合流した十字軍4万と異教徒軍3万2千は、Jerusalem南西の沿岸Asqalanで衝突し大会戦を繰り広げた。 異教徒軍に2万8千の大損害を与え緒戦の勝利を手にした。 わきたつ戦友を尻目にデンマーク軍はそそくさと帰り支度を始める。
ちゃんと聖戦士のtrait
も得たな…よし、帰るぞ。よろしいですな、猊下?
ぐう聖
十字軍の布告が出されるすこし前、バルト海に面したSamogitiaの正統な統治者がデンマーク王家であることを示す文書が(創造的)に発見されていた。 この文書をもとにSamogitiaを支配する蛮族に宣戦を布告する。 1091年9月、勝利。Samogitiaを獲得。
この地を足がかりに周辺の蛮族を平定するぞ
1092年1月勝利、Riga獲得
陛下、十字軍遠征が成功裏に終結し、HREが聖地守護の任につかれました
HREならダマスカスあたりまで拡張しかねないな
1093年6月、Viliniusを制圧した時点で蛮族が宗旨替えし、Lithuania酋長改めLithuania公となり、聖戦中断。
またか…
1年後
陛下、Lithuania公が蛮族に戻りました。すぐに反乱を起こされRomuva蛮族に乗っ取られたようです
なんとまあ…忙しない
すぐさま聖戦を再宣告。そしてVilinius再制圧し戦勝点が99%に達したとき
…陛下、またしても蛮族が宗旨替えし、Lithuania酋長改めLithuania公となりしました。聖戦は中断されます…
僕もう疲れたよ、パトラッシュ…
ハッ、そういえば先王の代の元蛮族Pomerania公も今回の2人の元蛮族Lithuania公も皆
持ちでした
持ちの臣下は改宗要求を受け入れやすいことが知られています。宗教戦争においもてそうなのかもしれません
もっと早く言って欲しかったです…ん、このLithuania公の跡継ぎは遠縁のRomuva蛮族のようだな。おい
はっ、心得ております
半年後
Lithuania公が事故死されました
デンマーク王国は三度の聖戦を宣告。 1095年5月、勝利。Viliniusを獲得。
最後のLithuania酋長は
持ちでありませんでしたね。やはりそういうことでしょうか
そう言われてみると蛮族首領は
持ちが多い気がするな。蛮族には
持ちになるイベントがあるのか?
休戦期間と周辺蛮族の改宗により、聖戦CBを使える相手がいなくなる。 王国領からすこし離れた地域ではまだNorse,Suomenenko蛮族が健在だが、離れすぎていて聖戦CBが使えない。 蛮族の多い地域に外交顧問を派遣し請求権の創造的発見を狙う。
蛮族首領が代替わりし休戦明けとなる。聖戦を宣告。 1096年12月勝利。Samogitia南西のMemelを獲得。
いい加減Pagan Homelandでの損耗がしんどい。勝てなくは無いが、強襲で1プロヴィンスを制圧するともう強襲できるだけの戦力は残らない。 そのあとは包囲戦をするしかなく、かなり時間がかかる。足掛け2年包囲して改宗されたりした日には…
England王位はNorman人征服者からAnglo-Saxon人のGodwin家に奪取され、 今再びNorman人諸侯が征服王Williamの息子Richardを旗印にした王位争いの最中だった。 さらに機に乗じて独立を求める一部諸侯も反乱を起こしていた。
そこに先王Svend IIからEngland Claimを受け継いだErikが加わる。
そろそろまぜろよ(バ ン
1098年1月 England王位を求めて宣戦
偵察にはなった軍船の報告によれば、England軍はNorman貴族鎮圧のため各地に分散しているようです
敵軍が集結する前に各個撃破だ
1098年2月、Richardを旗印にしていたNorman人諸侯がEngland王Godwineに降伏
1098年3月、ブリテン島Suffolkに上陸して緒戦
以後も、分散した敵軍を追い散らす。
1099年1月、独立を求めて反乱していたYork公一派がEngland王Godwineに降伏
1099年5月勝利。England王位を得る
Svend Iで10年、Knud大王ですら3年かかったといわれるEnglandの国奪りが2年足らずとは…
England勢に潰し合って貰うため、GodwineがNorman貴族相手に勝利するギリギリ(戦勝点80%)まで待っての宣戦だったからな。順当だろう
隣国の元蛮族Pomerania公が放浪者(Adventurers)の攻撃を受けているようです
放浪者ってなんだ?浮浪者みたいなもんか?
The Old Godsで追加された要素です。詳しくはこちらの開発日記訳を御覧ください
ふーむ、つまり領地を貰えそうにない次男三男どもが土地を求めて襲ってくるのだな
そう考えてよいでしょう。陛下もお気をつけください
なお、放浪者を目にするのはこれが初めてではない。 これより前にPomeraniaのお隣Prussiaの蛮族がFlankish人の放浪者に襲われ全領地を乗っ取られていた。 ちなみに今回のPomerania公の相手もFlankish人である。
1066年12月スタートのWilliam the Conquerorシナリオでは、
スウェーデン王国は昔ながらにNorseを奉じるUppland公Erik一派の北部と先代からカトリックに改宗したスウェーデン王Erikの南部に分かれて王位を争っている。(War of two Eriks)
1.10のこのシナリオは何故か、それが内乱ではなく独立勢力同士の争いとなっている。(独立勢力だから、Uppland公ではなくUppland小王(petty king)になっている)
その為か、スウェーデン王が勝利してもUppland小王を幽閉するだけで分裂したままになる。
今回も分裂したまま、Uppland小王が勢力を伸ばしていた。
いまのところ主にフィンランド界隈でSuomenesko蛮族をお得意様に海賊業に励んでいるようだが、このままフィンランドを掌握したらデンマーク王国に食指を伸ばすのは明らかだった。
降りかかる火の粉は払わねばなりますまい
陛下、Uppland小王は
持ちですが…
土壇場で改宗されてもNorseの族長たちの反乱による分裂が期待できる。問題ない
1101年2月、Uppland小王にUppland聖戦を宣告
DenmarkとEnglandから総勢2万8千を動員。無慈悲な大軍がUppland小王国を蹂躙する。
2王国の覇者ともなると動員兵力がちがうな
1101年7月
陛下、あらたな敵です!
周辺のNorse蛮族が参戦してきたか
違います、弟君のBjorn殿下です。England王位を求めて宣戦布告されました!
兄より優れた弟など存在しないことを証明してやろう
陛下、それ七男のセリフじゃないです
ん、なんでアイツ公爵みたいな格好してんだ?Bjornは父王から領地を貰えず女領主に婿入りしたはずだぞ
殿下は領地をお持ちではありません。所有称号のとこにある公爵位ぽいのはHostというもので、放浪者が土地を求めて宣戦すると一時的に得る公爵位相当の名誉称号です
Bjornの軍勢が到着しないので、Uppland小王国の制圧をすすめる。
1101年8月
はわわ、陛下、あたらしい敵が来ちゃいました!
こんどはどこだ?あとキモい
Godwin家傍流の放浪者EastmundがやはりEngland王位を求めて挙兵しました
領地も無いのに3万の兵を集めるだと…
王者ならずともその簒奪を唱える者ですら万の兵を集められる。王権とはそういうものなのかもしれません
弟も同規模の兵力を集めているとしたら危いな
現時点で衝突するのは得策ではありません。攻城戦での損耗を待ちましょう
Eastmundの宣戦ポップアップと同時にもう一つ別のポップアップが出ていた
Erikは陪臣のEastmundを激励して送り出していたのだ
なにカッコつけて敵にgood luckとか言っちゃってんすか…
いや俺も何か話が変だな変だなとは思ってたけど、まさか信じて送り出した臣下が3万の兵で俺の王位を奪りにくるなんて…思わないじゃない?
1101年11月、Uppland聖戦に勝利。Uppland公領を獲得
1101年12月、Bjorn軍の先遣隊1万5千がNorthumberland伯領に上陸
弟の軍勢も兵3万と150の軍船ぽいな。残りの1万5千が来る前に蹴散らすぞ
NorthumberlandでBjorn軍を撃破
1102年2月、追撃してScotland領内でBjorn軍の先遣隊を殲滅
1102年4月、York改めJorvikでEastmund軍を撃破
あとは消化試合ですな
1102年9月、Bjornを降伏させる 1102年11月、Eastmundを降伏させる
投獄した両者ともカネを多く持っていた(軍資金?)ので追放して没収する。
1000gold超の臨時収入おいしいです
BjornもEastmundもEngland王位へのweak claimを持っていた。(敗戦で失ったが) claim持ちかつ領地なしが放浪者イベントでclaim warを仕掛けてくるのなら、claimをばら撒くような婚姻政策のリスクは以前のverより上がったと言えるだろう。 小規模な王国、特に公爵de jure=王国de jureのNavarra王国やGalicia王国などで発生したら、単独では3万の敵の撃退はまず不可能だろう。 だがそれを簡単に跳ね返せる程度まで勢力が育ってしまえば、放浪者イベントは戦闘による軍事技術点と軍資金の没収による臨時収入で、脅威というよりボーナスイベントになってしまう。
1104年10月 Poland王国で跡目争いが勃発。母系結婚でDenmark臣下となった娘婿のPoland王子Kazimierzのweak claimで介入参戦。 動員ついでに周辺蛮族8勢力に聖戦を宣告。動員兵力は3万5千。
1105年5月、ポーランド戦勝利。KazimierzがPoland王となる。 Kazimierzが王になってDenmark王国から去る前に、Kazimierzの子OlufにSamogitia伯領を与えて臣下にしてOlufは国内に残らせ、Polish文化に染まることを避ける。
あとは孫のOlufを後継者に指名してDenmark王位を継承させておけば、いずれPoland王国も我がEstrid家の版図に加わる…ハズだ
そうなさいますと、次代でDenmark-England同君連合は解消されてしまいます。England王位は分割相続で世継ぎは指名できませんので、ご嫡男のGotfred殿下が第一継承者です
殿下を指名して両王国を継がせるべきではありませんか?
それは無理に両方継がせようとするからだ。逆に考えるんだ。「いっそEngland王位なんかいらない」と考えるんだ
この年50歳になるErik Iは将来の王国分裂を危惧しEngland王位を廃した。 威信値-400、England諸侯に-50 opinion
1105年11月、Estonia蛮族を平定。Estonia公領全域を獲得。 Gotlandが滅亡しており、北欧に商業共和国が無いのも寂しいので、Esotonia公爵位を使って商業共和国を復活させる。
1106年10月、一部のEngland諸侯が独立を求めて反乱 1108年12月、反乱を鎮圧。他の臣下のopinionが悪化しない程度に叛徒から称号を剥奪する
1111年2月、Finlandの蛮族を降しついでで宣戦したハズの蛮族相手の聖戦が全て終結する
どうしてこうなった…
調子ぶっこきすぎましたね。長期の動員で臣下のopinionが軒並み-20から-30悪化しています。これでEngland王位廃位に怒れる諸侯を抑えられるのですか?AARもスカスカじゃないですか!
だが待ってほしい。その甲斐あって版図は大きく拡大し、我々はScandinavia帝国の成立に向けて大きな前進を果たしたのだ!
<-1104年 1111年->
これが最善の選択だったのですか?7年かけて王国をガタガタにして辺境のど田舎を収集するのが?
NorwayとSwedenの王位獲得を優先させて、辺境の蛮族どもの相手はPagan Homelandが無効化されるMilitary Org技術が4に達するのを待つべきではなかったのですか?
それは…結果論にすぎない
1.092以前と同じ感覚で同時多発聖戦で一気に領土拡大を狙いましたが、 対蛮族の緒戦は順調だったもののPagan Homeland Attritionで消耗して迅速に勝利できない状況に陥り、 そこに長期動員や王位廃位で反乱が起こってその鎮圧にさらに兵力を消耗し、 聖戦の勝利に必要な兵力の回復がさらに遅れ…という次第です。 端的に申しますとPagan Homeland Attritionを見くびっていたということです。 また、Erik Iの弁護をするなら、
といった点が挙げられると思います。 だがそれでもやはり、この7年も続いた同時多発聖戦は無理筋で 「たかがウサギを追わんがために疲れた馬を鞭打ち懸崖に踏み込むが如き行い」だったかもしれない。
1111年4月、Oxford伯を中心とした外国人諸侯(非Danish)が独立を求めて反乱 反乱軍の総兵力はおよそ1万3千。2万6千を動員して鎮圧にあたる
1112年3月、叛徒に対して戦勝点74%を得たところで弟BjornがDenmark王位を求めて再び挑んでくる
Bjorn殿下は情勢を見る目がおありですな
確かに時機を得た宣戦だ。だが彼我の力量を見誤っているな
彼の者に真の王者の力がどれ程であるかを知らしめるのだ
1112年6月、王国の首都Sjaelandに上陸したBjorn軍先遣の1万5千を撃破
1113年7月、弟Bjornを降伏させる。これでBjornはEnglandに続きDenmarkのclaimも失う
claimを全て失っては、さしもの弟でも放浪者イベントはもう無いだろう
1113年9月、Oxford伯らの反乱を鎮圧。他の臣下のopinionが悪化しない程度に叛徒から称号を剥奪する
1114年3月、Poland王KazimierzがRurikovichのVitebsk大公にDaugava伯領を求めて宣戦していたが苦戦しており、 同盟参戦して支援に乗り出す。ついでに周辺蛮族に聖戦を宣告
こ、こいつわかってねェ~ッ
今度は大丈夫だ。宣戦した蛮族はたったの3勢力だ
1114年8月、Poland王KazimierzがVitebsk大公に勝利、Daugavaを獲得
1114年11月、Denmarkは蛮族3勢力に勝利
その後も断続的に蛮族を平定する。 Estonia商業共和国の成長が遅いので他にも商業共和国をつくることにする。 WalesのDeheubarth商業共和国、ArchangelskのBjarmia商業共和国を成立させる。
1122年4月、妻のMeissen女公Odaが事故死。息子のMecklenburg公Gotfredが領地を継承し、HREに飛び地を持つ
Flanders女公Aliken(17)を後妻に迎える。
Sweden王国de jureの公爵位を確保したことにより、Sweden王位継承者の封建選挙にて孫のOlufを一位につける。
問題はSweden王Torkelが30代とまだ若いことだが…Torkelの陰謀値は0のようだな
暗殺ですね、わかります。早速トウゴウ公爵に連絡を取ります
それでも成功率は30%台だ。暗殺者を何度も放つほどの金はない。今回は別の手でいく
暗殺plotですか?Sweden国内でplotの協力者になりそうなのは殆どいませんが…
ならば、女を集めろ
はぁ、カリフのハーレムごっこでもするのですか?
違うそうじゃない。だいたい俺は新婚ホヤホヤなんだぞ。陰謀値のいい女を集めろということだ
??
フランスから、イタリアから、アイルランドから、世界中から陰謀値の高い未婚の女達がErikの宮廷に招聘された
陛下が何をお考えなのか、なんとなく分かって来ましたよ
ならあとは任せる。俺はAlikenちゃんと南仏でハネムーンだ。邪魔するなよ
集められた女達はSweden王国廷臣との婚姻がすすめられ、次々に嫁入りしていった。
そして
世界中から集めた陰謀値の高い女を暗殺対象の宮廷へ婚姻で送り込む。嫁入り先は大抵異文化で、short reign補正もつくから、嫁入り先の君主に高いopinionを持つこともなく金で暗殺に協力してくれる…
俺はこれを毒婦の計と名付けたぜ!
お戻りでしたか、陛下
Torkelは死んだか?
いいえ。ですが近いうちに訃報がもたらされるのは明らかです
9年後、1131年
死にませんねぇ…あれから協力者を増やしてplot power241%まで積み上げたのに…
…もういい
1132年 Sweden王国を侵食していたNorwayから公爵de jureで領地を分捕り、Sweden王国de jureの51%超を獲得し、Sweden王位を剥奪(usurp)した。
1137年5月、加齢による虚弱から82歳で死去 55年にわたる治世でDenmarkを大国へと成長させた。 性急とも言える対外拡張の中で旧支配層の反乱に何度も遭うがすべて斥け、その度に粛清の嵐が吹き荒れた。 Estonia商業共和国の成立を支援し、後にはWalesのDeheubarth商業共和国、北方のBjarmia商業共和国の成立にも関与した。
1137年の王国領
指名により孫のOlufが王位を継承した。