カスティーリャ女王エスロンサが幼くして病死した後、 王位を継いだのはその妹のエルビラであった。 カスティーリャ王国ではムスリム諸勢力との終わりの見えない戦いを女王、 それも幼君では乗り切ることはできないとの主張が半ば公然となされた。
ムスリム勢力との最前線であるポルトカーレでもその論調は根強く… アフタス朝との戦いによる国土の荒廃もあって より強固な軍事指導者を据えるべきであると言えば誰しもが頷いた。 こうした声を受け、ペドロ公はカスティーリャ貴族らとひそかに連絡を取り合う。
すなわち、カスティーリャ女王エルビラを廃し、 主君であるガリシア王ガルシア2世をカスティーリャの王座に据えるという陰謀である。 幼君であるエルビラにはもちろん子はなく、他に妹もいないため、 彼女が「不慮の事故」でもし死ぬことがあれば…その王冠はガリシア王に相続される。 ガリシア王は治世数十年を超え、統治者としての力量は申し分ない。 また、ガリシア王がカスティーリャ王となった場合にも、 カスティーリャ貴族にはカスティーリャ王国の法が適用されるという約束がなされたから、 「国家存亡の危機」にあって多くのカスティーリャ貴族がこの陰謀に加担、ないし黙認した。 かくして、種は蒔かれた。
1085年12月、女王エルビラは貴族の集う狩りの場において流れ矢にあたり死んだ。 流れ矢を放ったのが誰であったのかは判然としない。 貴族たちにとっては犯人捜しよりも、ムスリムとの戦いの方が重要であった。 したがって、権力の移譲は速やかに行われた。 カスティーリャおよびレオンの王冠と、王の財産はガリシア王が相続した。 ここにレオン・カスティーリャ・ガリシア三王国の同君連合が成立する。
この相続により最も直接的な利益を受けたのは言うまでもなくガリシア王であった。 ペドロ公は王に見返りを求めた。 配下の領主たちや王と仲の悪いサモラ女伯を味方につけ、王領サラマンカを要求したのである。 王はカスティーリャ王位とともにブルゴスやソリア、レオンといった領地を新たに得ており 広大な所領の一部を、汚れ役を買って出たペドロ公に引き渡すべきことは当然…と彼らは考えた。 とはいえ王にとっては臣下の傲慢な要求を聞き入れる必要性はなかったとみえ、 また要求を拒否したところで一介の公ごときが大胆な行動に出られるはずもないと考えたため、 サラマンカ譲渡の要求はすげなく拒絶される。 しかし、周囲の大方の予想に反し、ペドロ公は軍を起こして王へ反旗を翻した。
この諍いに対して他の貴族は中立を表明したため、王は独力での戦いを強いられた。 貴族たちは王国統合の立役者が誰であるかを理解していたからだ。 ペドロ公はサラマンカを占領下に置き、実効支配を固めた。 王はナバラ王を味方につけるものの、思うように兵力が集まらず、 その軍団もペドロ公の軍によって破られる。 ペドロ公は戦いにより得た捕虜の身代金を費やして傭兵を集め、 王の軍勢をサラマンカに寄せ付けなかった。
結局戦いは4年間続き… 王が屈服した。サラマンカはペドロ公のものとなる。 王の権威は著しく損なわれ、連合王国内において王の権力は弱まることとなった。 この戦いの最中、ペドロ公は片腕を負傷し、以後障害が残ったとされる。 サラマンカはムスリム勢力との戦いにおける最前線として、 重要な軍事拠点に位置付けられる都市であるため、これを獲得したことで ペドロ公の王国内での地位は無視できないものになっていく。
カタルーニャではバルセロナ公ペレがアラゴン王を名乗り、 各国の承認を受けてバルセロナ朝が成立した。 ヒメノ家のアラゴン王は王位を主張し続けたが、 威信の低下は避けられず、高アラゴン地域の一領主としての扱いを受けることとなった。
その後ペドロ公の王への反抗が成功したのを見て、同様に王へ反旗を翻す者が続出した。 アストゥリアス公をはじめ、サモラ伯やサンティリャーナ伯といった有力諸侯が 王に対して反乱したが、これらの動きに対しペドロ公は積極的に王を支援し鎮圧を助けた。 自らの王に対する発言権が大きくなった今、他の諸侯の伸長はむしろ邪魔である…
アストゥリアス公は反乱の咎で投獄され、公位を剥奪された。 アストゥリアスの公位は「反乱鎮圧に功のあった」ペドロ公に与えられた。 ペドロ公の権勢を怖れた王が懐柔を図ったものとみられるが、 この結果、今やペドロ公はポルトカーレとアストゥリアスの二つの公位を保持し、 名実ともに連合王国内において王にも勝る筆頭貴族の座に躍り出る。
アストゥリアス公領における宗主権を獲得したペドロ公は、 かつてポルトカーレにおいてしたのと同様のこと――伯の権力剥奪――を行い、 アストルガおよびオビエドの伯となる。 うちオビエドは嫡子ジョアンに与え、統治を許した。
1096年、王はさらにオビエド伯ジョアンをカスティーリャ公として叙した。 これによりジョアンはペドロ公の封臣ではなく王の直臣となるが、 あらたにサンティリャーナ伯およびバリャドリド伯への宗主権を行使しうる立場に上り、 連合王国内においてポルト家門の勢力が全領邦の過半を占めるに至った。 異例の抜擢は王のペドロ公に対する怖れとして受け取られ、 民衆に揶揄されるほどであった。
1098年の夏、そんな民衆の笑いも吹き飛ぶ。 代替わりによる内紛を制したアフタス朝のアミールがポルトカーレへの聖戦を宣言したためである。 トレドのズンヌーン朝もこれに参戦した。兵力は5千を超える規模であった。 国王とペドロ公はここに連帯して異教徒と戦うことを確約し、 キリスト教連合軍にはナバラ王、アラゴン王も加わった。 ペドロ公は自費により傭兵を集め、敵軍が集結する前に各個撃破する戦法をとる。
この作戦が功を奏し、敵の侵攻作戦は瓦解。 キリスト教国連合軍は逆に国境を越えてリスボン、エヴォラの城塞を占領下に置き、 一時テージョ川を越えてアルカセル・ド・サルまで勢力を伸ばした。 このとき傭兵に支払う給金に窮したペドロ公は傭兵団の首領に街の略奪を許可したとされる。
キリスト教国連合にとって有利だった戦況は1100年に突如急転する。 アフタス朝、ズンヌーン朝に続いてセビーリャのアッバード朝がポルトカーレへの聖戦を宣言したのだ。 その兵力はおよそ5千。軍団はベージャを越えてコインブラに迫り、同地を陥落せしめた。 キリスト教国陣営に緊張が走ったが、ペドロ公は決戦を主張した。 さらに多くの傭兵が集められ、アッバード朝の軍をアヴェイロ近郊で迎え討つ手はずとなった。
コインブラ包囲によりアッバード朝の軍団が消耗した隙をつく形で総攻撃が行われた。 キリスト教連合軍はまず左翼が突破され崩壊することとなったが 中央の重歩兵が踏みとどまりさらに敵陣中央の突破に成功したため、一気に戦いの流れが変わった。 この勝利の前日に、キリスト教軍の陣営に聖ヤコブが現れて勝利を予言したとの伝説まで生まれた。 アッバード朝の軍団は崩壊して敗走し、カステロ・ブランコまで逃れたが 追走するキリス教国連合軍に捕捉されて壊滅、アッバード朝アミールを捕縛する戦果を上げる。 アミールは停戦と莫大な賠償金の支払いの要求を呑まされた。
こうして、アッバード朝が戦線から脱落したあと、程なくしてアフタス朝およびズンヌーン朝の アミールもポルトカーレの戦いから撤退することとなった。 この一連の戦いはレコンキスタにおけるキリスト教陣営の初の快勝といえるもので、 戦勝の報に連合王国は大いに沸いたのである。
ところが、異教徒との戦いにおいて負った傷が元で、国王ガルシア2世が死んでしまう。 本来王位を継ぐべき第一王子もまた、ムスリムとの戦いにおいて戦死してしまっていたため、 後を継いで即位したのは王の孫で6歳のガルシアであった。 彼はガルシア3世として即位したが、幼君を国王不適格とみなす勢力からは嫌われた。
次期国王に相応しい者としてペドロ公を推す声は無視できるものではなかったという。 特に彼の本拠地であるポルトカーレのポルトガル人領主たちは彼の王位を熱望した。 ペドロ公の王位請求権は民衆による支持とブラガ大司教のお墨付きさえ加わって、 ただの戯言と片づけることができない合法的なものとしてみなされるに至ったのである。 ペドロ公はいまやポルトカーレの王とさえ称されるようになった。 出自不詳の怪人物が、名門のヒメノ家を差し置いて王として振舞えるのであるから、 実におそろしいことである。彼の傲慢さに神が罰をお与えにならんことを!
続く