AAR/異端の国——オクシタニア——

 
 
 
 
完徳者.jpg
 
 
 

帰依者 (膝を折りつつ)「祝福を」 完徳者「神が汝を祝福してくださるように」

(この応答を三度繰り返す)

帰依者 「哀れな罪人たる私に代わって、神にお祈り下さい。神が私を良きキリスト者にしてくださるように、神が私を良き死に導いてくださるように、お祈り下さい」

完徳者 「汝を良きキリスト者になさり、汝を良き死に導いてくださるよう、神への祈りがなされましょう」

 
 
 

帰依者(カタリ派の一般信徒)と完徳者(司祭に当たる出家者)の儀礼より

 
 
 
 

第一節 前史

Raymond_IV_of_Toulouse.jpg
 
 
 
sagrajas.gif
 
 
 

伯位を受け継ぐまでのレーモン四世の事跡は、 イベリア半島でのイスラームとの戦いにおいて知られる。

サグラハスの戦い ムラービト朝他の連合軍がカスティリアに圧勝

1086年のサグラハスの戦いにて大敗したカスティリアを助けるべく1087年にイベリア半島に渡り、 その後の南方への攻勢再開に貢献した。

ここで高い指揮能力と、その深い信仰とで人望を集めた彼は カスティリア王アルフォンソ六世に姫を与えられ、後妻とする。

エルビラ.jpg
カスティリア王女エルビラ
宮廷にてサロンを形成し、トルバドゥールに代表される
オック文化圏の宮廷文化を花開かせた。

だが、このレコンキスタでの戦闘こそが 彼に聖職者の語る信仰への疑念を抱かせる切っ掛けとなった。

ムスリムの戦士としての高い能力、敬虔さ、建築物等の高度な文化、 どれをとっても敵ながら尊敬の念を抱かせるものであり、

振り返って見た自らの背の、醜く肥え太った キリスト教聖職者達の堕落しきった様とは雲泥の差であったのである。

最たるものとしては、信徒の長たる教皇本人までもが 祈りを置き去りに権力闘争に没頭して、

高圧的に奉仕を求め、それを断ると 事もあろうに破門で脅しを掛けるなどということもあった。

*1

その彼の元に、近年東方から伝来し、その清貧な生活態度で信奉者を集めているカタリ派教団、 自らを「良きキリスト者」と名乗る者たちが現れた時、それに深く帰依することとなったのは無理からぬことであったろう。

catharcentres.gif
カタリ派の伝播の様子。マニ教に影響を受けて、小パウロ派(図中 LES PAULICIEN)、
ボゴミル派(LES BOGOMILES)といった各地の他の異端に影響されながら
オクシタニアまでたどり着いている。
 
 
 
 
 
 

第二節 統治

Toulouse-450x420.jpg
中世のトゥールーズの風景画。多くの建築物が立ち並んでいる。
また画中左側に描かれている河川を利用した交通も盛んであった。
 
 
 
 
 
 
trait.jpg

1094年、聖地巡礼の旅の中途で兄ギョーム四世が世を去り、 レーモン四世としてトゥールーズ伯位を継いだ。

学識に優れ、軍才も豊かな君主を得て、 トゥールーズ伯領は空前の繁栄を謳歌する。

ScholarにしてSkilled Tactician

当代のトゥールーズ司教ラオルフが宗教的熱意に欠ける人物で、 蓄財に精を出すことの他何らの関心もなかったこともあり、

結果としてレーモン四世に庇護された 「良きキリスト者」ことカタリ派は大いに隆盛した。

トゥールーズの改宗.jpg
トゥールーズの改宗。この時代のカタリ派の繁栄は、
都市で普通に生活しているなら、全く関わりなく生きることは不可能な程であった。
 
 
 

第三節 国政


*1 1074年、カノッサの屈辱で有名なグレゴリウス7世は、皇帝とその同盟者のノルマン君主ロベール・ギスカールに対抗すべくレーモンにロベールと戦うことを求め、断ると1076年と1078年、二度に渡って近親婚を理由にして破門している。仏語wikipediaより。機械翻訳及び推定が混ざっているので、誤読の可能性があることをお詫びしておきます。

トップ   新規 一覧 検索 最終更新   ヘルプ   最終更新のRSS