1155年8月4日 ヘント防衛戦争終結から約1月後、皇帝ヘルマンが同盟者であるフィリップに援軍を要請してきた。 昨年来続いていた帝国の内乱、特に独立を求めるロンバルディア諸侯の反乱鎮圧に協力してほしいというのだ。 同盟を破って侵略してきた皇帝が同盟者としての義務を要求してくる。 フィリップはヘルマンの破廉恥さに呆れながらも要請を受諾した。 黙殺してもよかったのだが戦況は皇帝側が優勢であり、形の上だけでも参戦表明しておいて損はないと判断したのだ。
神聖ローマ皇帝ヘルマン 面の皮が厚いとはコイツの為にある言葉だ
1156年5月18日 反乱を鎮圧した皇帝ヘルマンは王権法を改正。 帝国諸侯の対外戦争を禁じ平和を実現する事が名目であったが、皇帝の真の意図は別にあった。
帝国が強力な王権を採択
神聖ローマ帝国は当時のカトリック世界の最強国であったが、そのの実態は封建諸侯の連合体であり皇帝も諸侯の第一人者にすぎない。 その最大の原因は前述した選挙王制にある。 歴代の皇帝は帝位に就くために選挙権を持つ諸侯たちの歓心を得る必要があるからだ。
1156年9月1日 皇帝ヘルマンは勅書を発布して諸侯の国王選挙権を剥奪。 皇帝の資格を有する者は神に選ばれた皇帝の血統のみにあるとし、ツェーリンゲン家による世襲制を宣言した。 しかしこれはドイツの実態と乖離したものであり、一方的に特権を奪われた諸侯たちの敵意を招くものであった。
1154年2月10日 長女ドゥースが誕生した。
1156年4月3日 成人した末弟ジャフルをバレンシア公に封じた。 王子は全て公爵にするのがカペーの伝統である。
バレンシア公ジャフル アンリ2世の死後に誕生した末っ子
1156年8月29日 ギネス伯コナンが死去。57歳であった。 コナンはフィリップ1世に征服されたブルターニュ小王国の最後の王であった。 4歳で国を失い親族のいるコーンウォールで亡命生活をしていたのだが、アンリ2世に招かれギネス伯として余生を送っていた。 その葬儀は王に対する礼遇をもって盛大に挙行された。
1157年4月10日 ライナウと名乗るオック人が宮廷に現れた。 元はナルボンヌ伯の密偵長であったのだが、伯とはそりが合わず出奔してきたのだ。 オクシタニアはフランスとは異なる言語・文化をもった地域である。 ライナウの故郷ナルボンヌも反仏感情が強くフランス王権からの独立を目論む勢力も少なくない。 しかしライナウは違う考えをもっていた。 アキテーヌ王国が消滅してすでに300年になるのだ。 そのような幻想は捨ててフランス王権に協力していくことで、オック人の社会的地位を上昇させうると考えていた。 フィリップはライナウの能力を評価し密偵長に任じた。
密偵長ライナウ ヒゲの形がフィリップと同じ
1159年4月23日 フィリップは大臣ワルテールをブルタイユ男爵に、密偵長ライナウをジャンヴィル男爵に叙した。
当時、モーリタニアはムラービト朝の統治下にあった。 ムラービトゥーンとよばれる神秘的なイスラム武装集団に起源をもつこの王朝は、一時はアンダルシアにまで勢力を拡大し強勢を誇っていたのだが、 12世紀に入ってからは衰退に向かい、しかも王位を巡る内乱状態にあった。 ムラービト朝の混乱を好機と見たシーア派《カリフ》ケマラッディーンは宗教的統一を掲げ大遠征を敢行。 モーリタニアの土侯たちは雪崩をうって軍門に下りムラービト朝はあっけなく瓦解した。
モーリタニアを征服したファーティマ朝
ファーティマ朝が版図を拡大した同じころ、イスラム世界のもう一方の雄セルジューク朝は崩壊の時を迎えていた。 退廃したセルジューク家に見切りをつけたトルコの君侯たちは自立の動きを示していたが、若きスルタンにはそれを防ぐだけの力など残っていない。 終わりは突然やってきた。 1158年、族長ザグルに率いられた辺境の部族ヴェイズラ族が王朝打倒を掲げ挙兵。 尚武の気風を失って久しいセルジューク軍は連敗を重ね王都アムラーは陥落した。 スルタンを廃位したザグルはアッバース朝のカリフに接近し、自らを新しいスルタンとして認めさせ新王朝を樹立した。
ヴェイズラ王朝の創始者ザグル イスラム世界は栄枯盛衰が激しすぎる
1160年4月23日 神聖ローマ皇帝ヘルマンが崩御。14歳の長男のアドルフ2世が帝位を継承した。 帝国は4年前に選挙制を廃しツェーリンゲン家による世襲制へと移行していたが、諸侯の多くはこれに納得しておらず、 アドルフの帝位を認めない一部の諸侯の反乱は想定の範囲内ではあった。 しかし事はヘルマンの想定を超える方向へと向かっていく。 ヘルマンは帝位の資格は皇帝の血統にあるとした。 しかし皇帝の血を引くのはツェーリンゲン家だけではない。 ドイツ諸侯の多くは程度の差はあれ過去の皇帝の血が流れているのだ。 特にトスカナ公は前王朝ザーリアー家の男系であり、血統を主張するのならその正統性は簒奪者ツェーリンゲン家とは比較にならない。 かくて諸侯たちが互いに帝位を主張する内乱時代が到来することになった。
帝国の大乱
反乱の動機は帝位の主張だけではない。 帝国からの独立、王権の低下、継承法の変更、さらにはツェーリンゲン家内部の帝位争いまで含まれる同時多発的なものだった。
隣国の弱体化は勢力伸長の好機である。 父アンリ2世がスペインにご執心だったのに対し、フィリップ2世はイタリアに強い関心を抱いていた。 王太子ルイの妃にトスカナ公女を選んだのも将来の北イタリア領有を目論んでの事である。 しかしトスカナはフランス本土と離れている。安定的な支配を築くにはピエモンテとロンバルディアの領有が不可欠であった。 丁度ピエモンテのスーザ女公イーゼントルーデは皇帝に反旗を翻しており領内は手薄である。 フィリップは女系でスーザ公の血を引くヴィエンヌ伯アルヌルフを擁し、イーゼントルーデに宣戦布告した。
ヴィエンヌ伯アルヌルフ こういう時の為に周辺諸国の請求権者を片っ端から宮廷に招いていた
突然のフランスの侵攻に対し帝国は有効な対応をとることが出来ず、戦争は一方的な展開となる。 それでも山国スーザは1年以上持ちこたえたが、数の差は如何ともならない。
1162年2月4日 イーゼントルーデは降伏しアルヌルフがフランス主権下でスーザ公に即位した。
イタリア進出の第一歩
1162年11月9日 アドルフ2世は廃位され、叔父のジークフリートが皇帝に即位した。
神聖ローマ皇帝ジークフリート フィリップの妹婿でもある
ジークフリートは帝位に就く為に一族や諸侯に大幅な譲歩を余儀なくされた。 王権は低下し継承法もツェーリンゲン家による分割相続に改められた。 長子相続による強力な帝権を目指したヘルマンの野望は分割相続の導入という全く逆の結末を迎えることになったのだ。 しかもこれで帝国に平和が訪れたわけではない。 翌年にはジークフリートの弟オットーを擁する諸侯たちの大反乱が発生した。
フィリップが目をつけたのはジェノヴァである。 ジェノヴァ共和国はすでに皇帝ヘルマンによって廃絶させられ、今は伯領となっている。 フィリップはあらかじめ捏造していた要求権を行使してジェノヴァを征服。 更にはニース司教をも臣従させジェノヴァ公を称した。
イタリア進出の第二歩
フィリップは父アンリ2世以来のイベリア政策も継続していた。 1163年にはイベリア半島最後のイスラム国ムルシアに聖戦を布告。 翌年8月4日にはこれを併合している。
タイファの黄昏
これによりイベリア半島のムスリム勢力はほぼ消滅した。 厳密にはまだマヨルカ島が残ってはいたが、これも消滅は時間の問題である。 これ以降、イベリアにおける覇権はキリスト教徒の間で争われることになる。
1162年3月17日 大臣ワルテールが急逝した。36歳の若さだった。 後任の大臣にはサンリ男爵ギラナナームが任命された。 ギラナナームは大臣キナートの嫡子であり、祖父ライアンから三代続けての入閣となった。
大臣サンリ男爵ギラナナーム まさかの三世顧問
1163年2月1日 野心的な叔父ブルターニュ公ジュリアンが死去。長男のゴドフロワが公領を継承した。 フィリップにとって最大の懸案事項が消えた事になるわけだが、そのわずか2日後・・・
1163年2月3日 ノルマンディー公ヴァルランが死去。同名の長男ヴァルラン2世が公領を継承した。 ヴァルランは父アンリ2世に反逆し投獄されていたのだが、フィリップの即位に伴う恩赦で解放されてからは家令として王を支えてきた。 死因は苛烈な徴税に激昂したパリ市民の暴動による負傷であった。 後任の家令にはティロン男爵ジャンが選ばれたが、彼もまた苛烈な徴税によって市民の怨嗟の対象になる。
1164年3月12日 ポワトゥ女公エルマンガルドが死去。長男ゴドフロワが公領を継承した。 彼はブルターニュ公ゴドフロワの長男でもあり、いずれはブルターニュをも継承する立場である。
1164年9月15日 アンジュー公ジョフロワが死去。長男フルク5世が公領を継承した。 フルクはまだ幼年であったため、パリの宮廷においてフィリップの手で養育されることになった。 かつてフィリップ2世の祖父フィリップ1世も、フルクの同名の祖父フルク4世を宮廷で養育していた。 その故事に習ったものなのかどうかは定かではないが、これは不吉な予感をはらむものであった。 フルク4世は夭折しているからだ。
1164年1月12日 王太子ルイとトスカナ公女アデリンデの婚儀が成立した。 訃報が続いた王国にとって久しぶりの慶事にパリの市民たちも沸き立ち、市街はご成婚を祝う市民の群れで埋め尽くされたという。 しかし翌年、夫妻はフランスから去って行くことになる。
1165年4月3日 イングランド女王セスリスが49歳で崩御した。
ウェセックス王朝の終焉
同日、イングランド王位を継承した長男ルイはロンドンに旅立っていった。
イングランド王ルイ1世 後にルイ6世としてフランス王位も継承する
これによって、近い将来フランスとイングランドが統合される事が確実となった。
1165年5月1日 フィリップは再婚した。 相手は名もない庶民の娘ベアトリクスである。
後妻ベアトリクス 後妻は能力本位(主に管理)で選びます
ささやかな結婚式が行われていたまさにその日、カステリョンで農民反乱が発生した。 フィリップ2世の治世後半は頻発する農民反乱に悩まされる事になるが、ただの農民反乱ならさほど危険なものではない。 この反乱も現地諸侯の手であっけなく鎮圧されている。 しかし同年8月1日にジェノヴァで発生した反乱はただの農民反乱ではなかった。
1165年8月1日 下級貴族マッシモはイタリア解放を掲げ挙兵。 目的はイタリア王国の再興である。
ただの百姓一揆ではない
反乱軍を甘く見ていたフィリップはプロヴァンス公など近隣の諸侯に鎮圧を任せるが、マッシモは諸侯が軍をまとめる前にこれを撃退。 南仏諸州を蹂躙して回った。 反乱軍が北上しパリまで迫るにいたり、事態の重大さに気付いたフィリップは常備軍を中心とする追討軍を編成し、元帥アンドレに討伐を命じた。
ヴァンドームの戦い 反乱軍は虫の息
1166年8月7日 1年にわたって続いた反乱は鎮圧されマッシモは処刑された。 フィリップはかつてトルコ人クテイを許し家臣としたが、今回はそのような寛大な処置をとる気にはなれなかった。
1166年12月1日 オック人ダヴィに率いられた農民たちがアキテーヌ王国再興を掲げ挙兵した。 密偵長ライナウの危惧は現実となったのだ。
出自不明の愛国者
時あたかも国王主催の饗宴のただ中である。 楽しいはずの饗宴の場は一瞬にして政争の場と成り果てた。
「一介の騎士がこれ程の兵力を集められるわけがない。どこかに協力者がいるのではないですかな?」
辛辣な言葉で南仏諸侯を口撃したのは王弟ブルゴーニュ公マナセスである。 オクシタニアの5つの公領のうち、アキテーヌ、トゥールーズ、オーヴェルニュは王が兼任しており、残るポワトゥとガスコーニュもカペー王族が領有する親王領である。 マナセスの口撃の対象はオック人の伯たち、具体的にはフォワ伯ベネモット、カルカソンヌ女伯マリア、オーヴェルニュ伯ロベール、ナルボンヌ伯ジョルジの4人を指す。 オクシタニアには他にも多くの伯領があるが、いずれもフィリップ1世時代の大粛清で改易され、司教領になるかフランク人領主に置き換えられている。
「馬鹿な!我らの王家に対する忠誠を疑っておられるのか!?」
フォワ伯ベネモットは激昂するが、マナセスは意に介さない。
「はて、私は誰ともいっておりませぬが。それとも思い当たる節でも?」
「断じて無い!我々とて貴族だ。馬賊の如き叛徒に協力するほど落ちぶれてはおらぬ!」
「協力者はむしろ宮中におられるのではないですかな?」
ナルボンヌ伯ジョルジの言葉に密偵長ライナウの顔色が変わった。 伯はライナウの旧主にあたる。
「確かに…イタリアの騒乱と歩調を合わせたかの如き此度の反乱。偶然にしては出来過ぎている」
同調したのはポワトゥ公ゴドフロワである。 フィリップ1世以来フランスの国政は王と数人の顧問によって独占され、王族や大貴族は政権中枢からは締め出されてきた。 顧問団(その多くは低い身分の出身)に対する反感は多くの諸侯が共有していたのだ。
「余はこの中に裏切り者がおるなどとは考えておらん」
フィリップはうんざりした口調で一同を制した。
「速やかに追討軍を編成し逆徒どもを討伐する。皆も領国に戻り鎮圧の任にあたるように」
半ば強引に諸侯たちを追い出し自室に戻ったフィリップの下に、大臣ギラナナームがやってきた。
「アキテーヌ王に即位されるべきです」
ギラナナームは単刀直入に切り出した。 オクシタニアの貴族たちには今なおアキテーヌ王国への追慕の念が残っている。 フィリップが王位に就くことで彼らの支持を得ることが期待できるのではないか。 しかしフィリップは消極的だった。 フィリップにとってはオクシタニアもフランスの一部なのだ。 フィリップはライナウを自室に呼んだ。
「亡霊を呼び寄せることになりましょうな」
オック人ライナウは断固として反対した。
オクシタニアがフランス王権に服してすでに100年を越え、民の多くはアキテーヌ王国の事など忘れかけている。 このまま何もしなければオック人とフランク人の垣根はなくなっていき、いずれは『フランス人』と呼ばれるようになるであろう。 過去の亡霊を蘇らせても野心家に口実を与え無益な戦乱を招くだけではないか。 フィリップはライナウの意見を取り入れアキテーヌ王位を封印した。
1167年9月14日 アキテーヌ解放反乱は鎮圧され指導者ダヴィは処刑された。
1066年3月15日 次男アンリとアングレーム伯女シェシリアの婚約が成立。 翌年10月10日にはフィリップと後妻ベアトリクスの間に娘エロディが誕生した。 14年ぶりに生まれた娘をフィリップは溺愛した。 エロディには相応しい婿を探してやらねばならぬ。 久しぶりに家庭的な幸福に浸っていたある日、その報告はもたらされた。
「イングランド王ルイには隠し子がいる」
ルイは宮廷の女官との間にフランチェサという娘をもうけており、しかも認知もせず女官に育てさせているという。 フィリップは激怒した。 男子たるもの浮気の1つや2つはするだろう。 しかし生まれた以上責任をもって育てるのが父親としての義務ではないか!
そう、男子たるもの浮気くらいは・・・
一戦交えてきました
1168年11月5日 フィリップに三男クロテールが誕生した。 母親はアルモディスという宮廷の女官である。 フィリップはクロテールを認知し王子として育てる事を宣言した。
1170年12月31日 次女エロディとビザンティン帝国皇太子ダニエルの婚約が成立した。 エロディは3歳、ダニエルは1歳の幼児である。 エロディには誰よりも立派な家に嫁がせたい。ならば相手は皇帝しかあるまい。
1171年3月8日 長女ドゥースと旧ブルゴーニュ公家の嫡子ウンベールが結婚した。 ブルゴーニュ家はフランス王ロベール2世の次男ロベールに発するカペー家の分枝である。 1086年に反逆罪でフィリップ1世によって公位を剥奪されてからはディジョン伯として存続するが、1140年には伯領も剥奪されていた。 新たにディジョン伯となった王弟マナセスがブルゴーニュ公に叙任されたことにより、ブルゴーニュ家は再興の道を閉ざされることになる。 ただし1134年に傍流のアンリが戦功によってアルト・アラゴン伯に叙任されており、現当主ボードゥアン伯は本家没落後は己が惣領であるかのごとく振舞っている。 ウンベールは没落したディジョン伯の嫡子である。 ボードゥアン伯はこの結婚に不満をもった。 王の娘婿となれば当然所領を与えられる。ましてや相手は嫡流であり自分の立場が危うくなると感じたのだ。 フィリップはボードゥアンの主張を受け入れウンベールを婿養子とした。 この決定以降、ブルゴーニュ家はアラゴン系が嫡流とみなされるようになる。 婿養子となったウンベールは財務の才に優れていたため、ディロン男爵ジャンに替わり家令の任に就くことになった。
家令ウンベール フィリップ2世の婿養子
ウンベールは王族に準ずる立場となり、いずれは公爵位を授けられる事になるであろう。
1172年6月10日 元帥アンドレが71歳で亡くなり、嫡子エチエンヌが後任の元帥に選ばれた。 大臣ギラナナームに続いての三世顧問である。
元帥ジャルゴー男爵エチエンヌ 武芸大会で優勝したかつての若武者も老境にはいっている
訃報はなおも続く。
1172年7月1日 ガスコーニュ女公マオーが死去。長男ロウボーが公領を継承した。
1173年1月6日 フィリップ2世に養育されていたアンジュー公フルク5世が夭折。 妹のアリックスが公領を継承した。 かつて同名の祖父フルク4世もフィリップ1世に養育され夭折した。 もちろん偶然以外の何物でもないが、人々は無責任なうわさ話を好むものである。 パリやアンジェの市中にはカペー陰謀論を唱える落書も現れるほどであった。
かつてガルシア2世によって統合されていたイベリア北中部は、相次ぐ分割相続によって分断され慢性的な騒乱状態にあった。 対してフランス王が統治するアンダルシアとアラゴンは秩序が行き届いており、イベリアにおける優劣は決定的になりつつある。 その原因はいうまでもない。 ヒメノ家の分割相続制度にあった。
1173年のスペイン ヒメノ家の諸王国は国土が入り乱れてカオスな状態になっている
そんなある日、大臣ギラナナームが参内し恭しく古文書を提示した。
「ナヴァラとナヘラがカペー家の正統な領土であることが判明しました」
ナヴァラはバスク人の土地であり歴史上異民族に服属したことは無い。 カペー家は勿論歴代のフランク王もこの地を支配したことなど無いのだ。 古文書が捏造であることは明白であった。 しかしフィリップはこれを採用し最大限に活用した。
1173年12月14日 フィリップはナヴァラ王マンリケに宣戦を布告。ピレネーを越えバスクの土地を蹂躙した。
ピレネーを越えたフランス軍
同族のレオン王やガリシア王も参陣するが強勢を誇るフランス王軍の前に敗退を重ねる。
1175年6月5日 ナヴァラ王マンリコは降伏。 ナヴァラ・ナヘラの両伯領はフランス王に帰する事になった。
でも文化条件があるナヴァラ王位は奪えない…
フィリップはナヴァラの王位も欲したがフランク人の即位はバスクの民が納得しなかった。 マンリコは本貫地を失いながらもトレドでナヴァラ王位を保持し続ける。
1175年6月10日 フィリップはヒメノ家傍流でフランスの食客となっていたエルメネヒルドをナヴァラ公に封じた。 また同時にアルト・アラゴン伯ボードゥアン(前述のブルゴーニュ家傍流)をアラゴン公としピレネー以南の抑えとした。
1174年5月1日 イングランド王ルイと王妃アデリンデに長男ルイが誕生した。 フィリップは会いたがったがイングランドで生まれ育った孫の顔を拝むことは生涯なかった。
1175年5月1日 ネーデルラント王国再興を掲げる解放反乱が発生。 1176年にはブルボンで、1177年にはデニアで、1178年にはティルスで、毎年のように発生する農民反乱にフィリップは強いストレスを抱くようになっていた。
1178年3月18日 王弟ブルゴーニュ公マナセスが死去。長男ウンベールが公領を継承した。 弟の死に気落ちしたフィリップは体調を崩し病床につくことが多くなっていく。
1180年1月24日 ビザンティン皇帝フィリッポスが崩御。 次女エロディの婚約者ダニエルが帝位を継承した。
ビザンティン帝国皇帝ダニエル 名君になりそうな予感
将来の娘婿の即位をフィリップは喜んだが、娘の結婚をこの目で見ることは叶わなかった。
1181年3月16日 フィリップ2世は崩御した。 享年70 イングランド王ルイがフランス・アンダルシア・アラゴン・エルサレムの王位を継承し、ここに仏英は1人の王のもとに統合された。
フィリップ2世の治世は41年の長きに及ぶが諸侯の反乱は一例も無い。 祖父フィリップ1世や父アンリ2世の治世が諸侯の反乱に悩まされてきたのとは対照的である。 その一方で農民や独立派による反乱が、とくに治世後半に頻発したことは特筆されてよいであろう。 フィリップ2世の時代はフランス経済の発展期でフランドル地方を中心に多くの都市が建設されている。 頻発する農民反乱の背景には急激な経済成長であらわになった社会的矛盾があったのであろう。 フィリップ2世の時代は神聖ローマ帝国の内乱期にほぼ重なっており、これがフランスがイタリアに進出する好条件を生み出す結果となった。 外交面で最大の出来事は王太子ルイのイングランド継承であり、これによりルイ6世の仏英統合が準備されることになった。 なお今日一部の史家はフィリップは無神論者だったと論じているが、もとより推測の域を出るものではない。
怖いくらい順調に進んでいます。 今回のプレイではHREがグダグダなのでそれに救われている面も大きいのでしょう。 ヘルマン帝が長子相続を導入したのが転機だと思います。 次のルイ6世からはイングランドも領土に加わってかなりの大所帯になります。 まだプレイ中なので少し時間がかかりますが気長にお付き合いください。