1122年のスペイン
アンリ2世は後世「スペイン狂い」と呼ばれた。 それは彼が、後にスペインと呼ばれることになる土地に執拗にこだわり続けた事からくる渾名である。 1113年にリイェダ伯領を奪った事を皮切りに、機会ある度に領地を侵食していった。 後世8年戦争と呼ばれる長い戦いも、彼のスペイン狂いからきたものだ。 8年戦争といっても1つの戦争が8年続いたわけではなく、8年の間に互いに無関係な4つの戦争が並行して行われていたことからそう呼ばれている。 きっかけはあるイベリア貴族がパリにやって来たことであった。 彼の名はロドリゴ。アストゥリアス女公コレクシアの叔父にあたり、公領への請求権者である。
1122年12月13日 アンリは彼にアスパレン男爵領を与え封建主従関係を結ぶと、公位獲得の軍を発した。 敵はアストゥリアス公の主君、レオン王ガルシアである。
アスパレン男爵ロドリゴ 彼の野心が8年戦争を招く
これだけならここまで長い戦にはならなかったであろう。 しかし1123年1月7日。アンリはセビリア首長国に聖戦を布告。 国中の諸侯に動員をかけた他、騎士団にも助力を仰ぎ南北からイベリアに侵攻した。 レコンキスタは順調に推移しており、手をこまねいていてはイベリアは統一されてしまう。 そうなる前にアンダルシアを確保しておこうという腹づもりだった。 しかしそこには誤算があった。
1023年7月22日 北アフリカ奪取を目論むファーティマ朝がジハードを宣言。
廷臣たちは蒼白になった。 王は軍を率いてアンダルシアにいる。 大臣キナートは王不在のまま緊急顧問会議を召集。 案の定、全ての顧問がアフリカの放棄を提案した。 アフリカはフランス領になってまだ1年と経っておらず現地の兵などほとんどいない。 本国の兵力の大半はイベリアにありアフリカ防衛にまわす余裕などない。 それにアフリカはアンリの気まぐれで征服した土地であって、王国にとっても王家にとってもさして重要な場所ではない。
「降伏やむなし。それが顧問団の総意であると陛下にお伝えする」
「陛下はお認めになりますまい」
「その時は所領を返上して修道院にでも入るさ」
大臣が降伏を選択しようとしたそのとき、意外な知らせが舞い込んできた。 神聖ローマ帝国がアフリカ防衛に参戦を表明したのだ。
「これで戦える!」
会議の空気は一変した。 降伏論は吹き飛び戦争継続の為に傭兵の雇用が決定された。 ただ1人、密偵長スヴェインだけが不満を抱いていた。
「皇帝め余計な事をしてくれる…無駄に戦が長引くだけではないか」
その後もナバラ王、イングランド王が相次いで参戦を表明。 アンリはイベリアに専念できるようになった。
国王直属の常備軍、封建召集軍、そして騎士団とアンリが動員した兵の大半がアンダルシアに集結していた。 『十をもって一を攻める』という孫子の言葉をアンリが知っていたとも思えないが、兵力の集中投下は用兵の基本である。 まずはセビリアの土侯どもを降し、しかる後に北上してレオン王と雌雄を決する。 これがアンリと顧問団の描いた戦略であった。
「セビリアを皮切りにアンダルシアを征服する」
フランス王軍は破竹の勢いでセビリアを蹂躙。数の力で都城を1つ1つ陥落させていった。 北ではレオン王の軍勢が南仏を荒らしまわっているが今は好きにさせておけばいい…
1124年7月28日。思いもよらぬ情報がアンリの陣営にもたらされた。 旧バルセロナ公家の末裔ラモン・ベレンガーが私兵団を率いてグラナダを征服したというのだ。
グラナダ公ラモン・ベレンガー 流転の末に家名再興を成し遂げた英傑
アンリは使者を送り祝意を伝えたが、胸の内は不満であった。 いずれ聖戦で奪い取る算段だったのだ。
1124年8月5日 セビリア首長アフマドは降伏。セビリアはフランスに併合された。
だがこれで終わりではない。 時を同じくして教皇ランド2世はアンダルシア十字軍を布告。 アンダルシアに駐留するアンリは即座に参戦を表明。 余勢を駆ってコルドバへ侵攻した。
絶好のタイミング
十字軍は最大の勲功を上げたものが征服地を総取りする。 兵力の大半をアンダルシアに置いていたアンリは絶対優位にあった。 またたくまにコルドバを降し、十字軍勝利の最大功労者となった。
圧倒的な勝利
1125年7月9日 十字軍はキリスト勢の勝利に終わった。 同日、アンリはアンダルシア王国を創設し王位に就いた。
1125年7月11日 アンリはイングランドから呼び戻していた妹ブランシュの夫ウルタルをセビリア公に封じた。 アンリの始めた戦争は順調に推移するかのように見えた。
1125年7月20日 イングランド王エドガー2世が75歳で崩御。 長男は早世していたため次男エドゥアルトが王位を継承した。
ノルマンディー家とゴドウィン家を退けウェセックス王朝を再興した英主であった。
イングランド王エドゥアルト3世
一方そのころ、イベリアとアフリカの戦況は膠着状態に陥りつつあった。 アンリがアンダルシア征服に没入している間に南仏諸州はレオン王国の占領下に置かれていた。 その上、1124年のシャロレー司教反乱を皮切りに王国各地で伯の反乱が発生するようになっていたのだ。 アンリは兵力を南仏奪還と反乱鎮圧に向けざるおえず、そうすると今度は手薄になったアンダルシアが襲われる。 諸侯だけではない。農民反乱もコルドバやパレスチナで頻発していた。 また、アフリカ方面も一進一退の状況が続いておりアンリはその対応にも追われていた。
そんな中1126年1月26日。アンリはアンジュー公ジョフロワの逮捕に踏み切った。 妹婿フルクの子ジョフロワは成長して権力を求める謀略家になっていた。 王位を望む陰謀を目論むことも一度ならずあったが、父王に愛された婿の遺児と言う事でずっと大目に見てきたのだ。 しかし反乱が頻発する情勢がアンリを強権的な君主に変えていった。 王は密偵長に潜在的脅威の排除を命じ、政治的陰謀を目論む輩を一斉摘発していった。 また反乱を起こした諸侯や農民も容赦なく投獄。 牢獄に収容される政治犯は年を追うごとに増え続け、王の晩年には41人が収容されていたという。
1126年10月29日 王太子フィリップとイングランド王女セスリスの婚約が成立した。
この縁組が歴史を大きく変えることになる
1127年4月7日。元トゥールーズ公ギョームがひっそりとこの世を去った。80歳であった。 ギョームは七大公の最後の生存者であり、これでラウル摂政期からの諸侯は全て鬼籍に入ったことになる。
1127年11月2日 レオン王ガルシアがカスティーリャ王位を継承。 カスティーリャ・レオン・アラゴン・ガリシアの4王国が1人の王の元に統合された。
カスティーリャ王ガルシア2世 第一称号がカスティーリャに変わっている
8年戦争後半の情勢 なかなか厳しい情勢にある
アフリカは一進一退の状況にあったが、1128年6月に聖ヨハネ騎士団が、8月にはテンプル騎士団が参戦を表明するに及び事態は急展開していった。
1129年3月29日 長きに渡る戦いに疲弊したカリフは休戦を提案。アフリカ防衛戦は痛み分けに終わった。
キリスト教諸国や騎士団の援軍が無ければ負けていた
1129年11月。アンリは将来の王国経営を見据えて下の息子たちの縁談を進め、次男ジェローとサヴォイア公女ベノワト。三男ロベールとヌヴェール伯女オードの婚約を成立させた。 これはアンリの王国再編計画に基いている。 長男フィリップには王位を、次男ジェローには王妃の治めるプロヴァンスを、三男ロベールにはブルゴーニュを、四男マナセスにはアキテーヌを与え王家の藩屏とする。 結婚相手もそれを考慮して政治的に有利な相手を選ばねばならない。 アンリが息子たちの縁談に取り組むことが出来たのは、戦況が好転して余裕が生まれてきた事の現れでもあった。
1130年7月24日 ヒメノ家の支配に不満を募らせていたアラゴン諸侯は連合王国からの独立を宣言。 カディス家のポンセがアラゴン王として即位した。
アラゴン王ポンセ 何故かケルト顔
短期間で拡大したカスティーリャ連合王国は国内に多くの矛盾を抱えており、戦争遂行能力を失っていた。
1130年8月3日 カスティーリャ王カルシア2世は降伏。 ロドリゴはフランスの封臣としてアストゥリアス公位に就き8年戦争は終結した。
戦後のフランス領 8年も戦い続けるだけの価値はあったのだろうか?
1131年7月11日 三男ロベールが急逝した。
親より先に逝くとは…
ロベールの死によってアンリの王国再編計画は再考を余儀なくされた。
翌月にはリイェダとダロンでほぼ同時に農民反乱が発生。 王は諸侯の兵を動員しこれを鎮圧、反乱者を極刑に処した。
1132年3月31日 王太子フィリップはイングランド王女セスリスと結婚。 ここに仏英同盟が成立した。 イングランド王エドゥアルトはかねてよりヨーク公の反乱に悩まされておりアンリに参戦を要請。 アンリはこれを請け直轄領の兵をブリテン島に差し向けた。 そしてヨーク公の乱が鎮圧された翌1133年4月。アンリはアルト・アラゴン伯領の領有権を主張してアラゴンに宣戦布告した。 戦争は1年で終わりアルト・アラゴンはフランスに併合され、旧ブルゴーニュ公家の末裔アンリがアルト・アラゴン伯に叙された。
1134年10月3日 アンリは王弟ガスコーニュ公ジェローを家老に任じた。 今は亡き叔父ユーグのように一族の調停者の役割を期待してのものだった。 しかしその僅か2週間後。ユーグの子、ノルマンディー公ヴァルランの王位転覆の陰謀が発覚。 捕縛を逃れたヴァルランは公然と反旗を翻した。
従兄弟と争うのは気が引けるが致し方ない
反乱は短期間で鎮圧されヴァルランは牢獄送りとなった。 ただし、父ユーグの勲功に免じて爵位の剥奪は免除され、ヴァルランはノルマンディー公位を保持したまま長い幽閉生活を送ることになる。
1134年12月18日 王妃アルジェンダが死去。 長男フィリップがプロヴァンスを継承し領国へ赴任していった。 プロヴァンスは帝国領であるが、王位継承後はフランスに編入され次男ジェローに与えられるはずである。
プロヴァンス公フィリップ 外交と軍事が両極端すぎる
王妃を亡くしたアンリはめっきり老け込み宮廷の私室に籠る日が多くなっていた。 そんな王の側にいて身辺の世話をしていたのが王妃の侍女ブランシュである。 彼女はやがて王に愛されるようになり翌年には再婚する。
王妃ブランシュ 管理能力で選びました
またこのころの王は大々的な夏市や狩猟を頻繁に行うようになっていた。 その中でも特筆すべきものは1134年の武芸大会である。 多数の王侯が見守る中、優勝の栄冠を手にしたのは元帥アンドレの嫡子エチエンヌだった。 王は次代を担う若武者の活躍にご満悦であったという。
同名の祖父は大臣だった
1135年1月2日 プロヴァンス公フィリップに長男ルイが誕生。 アンリはこの初孫を溺愛した。 ルイという名前もフランク族の始祖クローヴィスからとったものだ。 その愛情がある悲劇を生むことになる。
1136年8月18日 イングランド王太子シゲリクが肺炎で夭折した。 代わって次男オスウルフが王太子となったが、ウェセックス家には他に男子がなかった。
王子オスウルフ ウェセックス家最後の男系子孫
翌日、密偵長スヴェインは王の私室を訪れた。 アンリは自分と同い年のこのノルウェー人が嫌いだった。
「シゲリク王子が亡くなったそうで」
「可哀想な話だが、これも神のご意思なのであろう」
「次男のオスウルフ王子は12歳。他に男子はおりませぬ」
スヴェインに云われるまでもない。 つまり、オスウルフに万一のことがあれば長男の嫁セスリスがイングランドの女王となるのだ。
「それがどうした。オスウルフの死を神に祈れとでも?」
「不幸な事故は起きるものです」
「余に人殺しをさせるつもりか!」
「陛下がアフリカやイベリアで流された血をお忘れか」
「戦場で闘うのは兵士だ。しかしオスウルフはまだ子供だぞ」
戦争で死ぬのは兵士だけではないのだが… スヴェインはアンリのこういうところが嫌いだった。
「たった1人の犠牲で仏英に平和が訪れるのです」
「神が決めることだ」
「この世は人の領分。神がお救いになるのはオスウルフの魂でございましょう」
「冒涜だ」
「セスリス妃殿下が王位を継がれた場合、次の継承者はルイ殿下です」
「ルイがイングランドの王になるのか」
「フランスとイングランドの王です。ああ、それにエルサレムとアンダルシアもありましたな」
「…悪魔め」
アンリはスヴェインを下がらせたが、計画の中止を命じることもなかった。 アンリが悪魔に屈した瞬間だった。
悪魔に協力する背教者ども
1137年7月16日 カスティーリャ王ガルシアはアラゴンを再併合。 連合王国が復活した。
1138年10月21日 長女サラジーヌと神聖ローマ帝国王子ジークフリートの結婚が成立。 ここに帝国との同盟が成立した。
これで東の国境は安泰だ
そのころイベリアでは征服者ラモン・ベレンガーの興したグラナダがタイファ諸国から攻勢を受け危機に瀕していた。 翌年にはラモン・ベレンガーが戦死し、娘のエスクララムンダが公位を継承している。
グラナダは劣勢にある
1138年11月15日 アンリはバレンシア首長国に対し聖戦を宣言。 フランスが外征を行うのは6年ぶりのことだった。 そしてこれが、アンリの最後の戦いになる。
1139年10月22日 イングランド王子オスウルフが死んだ。 成人した直後に起きた不幸であった。
死因は転落死。下手人は判明していない。
アンリがその知らせを受けたのは戦場で傷を負い手当を受けている時であった。 これでイングランドのフランス編入はほぼ確定した。 ルイは偉大な王者として両国に君臨することになるだろう。 アンリは傷の痛みなど忘れ、再び陣頭指揮をとるべく馬にのった。 しかし…
アンリ発病
1139年11月28日 アンリは病床についた。 近臣たちはオスウルフの呪いと噂した。 なにせ、不幸な事故からまだ1ヶ月なのだ。 王自身も己の所業を悔い、ひたすら神に赦しを乞い続けた。 そんなアンリに追い打ちを掛けるように…
王弟ジュリアンの野望
兄王の先が長くないと見たのか、ブルターニュ公ジュリアンが王位への野心を露わにした。 アンリの脳裏には29年前のスヴェインの言葉が蘇っていたに違いない。
「畜生!」
これが、アンリの最後の言葉であった。
1140年1月26日 アンリ2世は後悔と絶望の中で崩御。 享年58 その覇業は長子フィリップ2世に引き継がれることになる。
アンリ2世は次代以降の王朝の外交方針を決定づけた王として評価される。 彼の「スペイン狂い」はアンダルシアをもたらし、結果として以後数世紀のフランス外交を決定づける事になった。 すなわちスペイン併合への道である。 また、イングランドのフランス編入に道筋をつけたことも評価されてよいであろう。 アフリカ征服の意図は本人にしかわからないが、ある史家によれば地中海帝国を夢見ていたのだという。 しかしそれは実現不可能な夢であった。 少なくともこの時代においては。 内政面では親王領制度の創設が特筆される。 ただし、城塞や都市のインフラ整備はほとんどなされなかった。 これは父王の時代とは対照的であるが、収入のほとんどが戦費に費やされ設備投資にまわす余裕がなかった事が原因であろう。
今回は行き当たりばったりです。 方向性としてはスペイン→イタリアと進出してゆくゆくは西ローマ帝国を再興するつもりですが、まあ、そこは臨機応変ですね。 長男の結婚ですが、最初からイングランド乗っ取りを考えて決めたわけではなく、気付いてみたら嫁の継承順位が上がっていたので突発的に思いついたものです。 自分はプロット以外の暗殺はしない主義なので結構時間がかかりましたが、ギリギリ間に合ってくれてホッとしております。 まあ、まだ継承が確定したわけではないですが。 続きはこれからプレイするので更新に時間がかかると思いますが気長にお待ち頂ければ幸いです。 よろしくお願いします。