1087年、先王から5年にも及んだ独立戦争の結果ウルビノ・アンコナ・ピサ州などが独立を果たすが、トスカナ公マチルダの独立は阻止され白紙講和に終わってしまう。 父親の無意味な死を目の当たりにしたオベルトは、この頃からマチルダ公からの独立を模索するようになったと言われる。 だがトスカナ公は反乱に失敗したとはいえ依然強大で、周辺国も複数領土を持つ強力な公爵ばかり。 そこでオベルトは先の反乱で独立したばかりの一州国家に廷臣を派遣し、侵略の大義名分を探させることにした。
またこの頃トリポリ公がシチリア王国に対して聖戦を宣言。 シチリアは敗北し、南イタリアにゾグバディッド朝シチリアが成立。 帝国と国境を接したことで、以降南イタリアは数十年に及ぶ皇帝とスルタンの戦争の舞台となる。
1093年、帝国領への再編入を大義名分として先の反乱で独立したアンコナに戦争を吹っかける。 1100年には、同様にウルビノへ宣戦。両国は傭兵による包囲の前に目立った抵抗も無く降伏し、パルマ伯の所領として神聖ローマ皇帝領に復帰する。
次いで1108年、かねてからコルシカ島の所有を巡って揉めていた独立国であるジェノバがスペインのイスラム勢力と戦争を始める。 そこでオベルトはスペインへの遠征で守備兵のみとなったジェノバ公国に宣戦。 聖戦を行っている国へ侵攻するという蛮行によって周辺国から白い目で見られるが、トスカナからの独立という野望の前には些細なことであった。
1110年、旧ジェノバ共和国の一部であったニース司教領に対し、ニースは過去カール大帝に統治され歴史的に神聖ローマ帝国に属するとして宣戦、併合する。
一方主君のマチルダ公はというと、懲りずに反乱を繰り返しては失敗し、次々とその領土を皇帝に奪われていた。 96年にはブレシカ州、99年にはフェラーラ州を失陥し、所領は5州に減少。 即位以来絶え間なく戦争を続けてきた皇帝ハインリヒ5世とマチルダの関係は、お互いに-100といういつ投獄されてもおかしくない状況にあった。 所領を急速に拡大し今や6州の所領を持つに至ったオベルトの圧力を背景に、マチルダの一人息子とオベルトの妹との女系結婚を認めさせた。 妹には無事息子も生まれ、トスカナ公爵位がパルマ家に転がり込むのは時間の問題であった。
華々しく領土を拡大する一方で、オベルトの私生活は余りよいものとは言えなかった。 1101年に妻が死別すると後妻を娶ったが、結婚してすぐさま後妻の浮気が発覚し、浮気相手と別れるよう迫るも妻はこれを拒否。 浮気が堪えたのかオベルトはホモ、パラノイアや憤怒の特質を怒涛のように獲得し、落馬からの大怪我が元で1111年の春、57歳で息を引き取った。
オベルトは先妻との間に4人、後妻との間に1人の子を残した。 また継承は長男ではなく、天才traitを持つ成人したばかりの次男に行われた。 この能力主義による選挙制継承は以後パルマ家の伝統となる。
地中海ではモロッコ・エジプトが拡大、東ローマ帝国はエジプトとペルシャに侵攻され風前の灯。 南イタリア、スペインでイスラム化が進行。 また十字軍が成功し、一度はエルサレム王国が成立したものの、その後すぐに行われたジハードによって消滅している。 北ではポーランドがデンマークを婚姻により継承。 フランスでは王位継承戦争が勃発し大混乱に陥っている。