神聖ローマ皇帝Dietmar II世
年老いた天才元帥Ermengau
神聖ローマ皇帝Dietmar II世はブリテン島の攻略を進めていた。
――1397年、シュトゥットガルト。
ついにこの日を迎えたのですね。
ああ。感慨深いな。西欧のほぼ全てが帝国の旗の下に入ったのだ。
民衆は陛下を『大帝』と呼び讃えています。
なぁに。長い間、玉座に座っていただけに過ぎないよ。
歴代の帝国の皇帝のなかでも陛下ほどの足跡を残した者はいません。
すべて、Ermengau元帥の尽力の賜物だ。なにせ帝位に就いた頃はまだあまりに幼かった。
私は、助力をしているにすぎませんよ。
いずれにせよ、今日は目出度い日だ。
ええ。
昔を振り返ることは好きではないが、今日ばかりは許されるだろう。
勿論ですとも。
神聖ローマ皇帝Dietmar II世はイングランドを攻略する傍ら、西欧の“統一”を目指す壮大な事業を進めていた。
それは、実際のところ、1359年に13歳で戴冠したその日から始まっていたのだった。
アキテーヌ王国はプロヴァンス公Ruprechtが1247年にカペー朝の血を引くJosselin公正王を王位に据えたことを契機にカペー朝が復権していたが、Josselinの長男はボソン家の皇帝Adalbertの娘のもとに婿入りしていた。このためJosselin公正王の孫にあたるOda Bosonidは、アキテーヌ王国の王位継承権を保持していた。
1365年、Dietmar II世は当時すでに70歳を迎えていたOdaの請求権を主張して、アキテーヌ王国に攻め込んだ。
これによりOdaはアキテーヌ女王として即位し、アキテーヌの王家はボソン家に移行した。
なお、Oda女王は即位から1年の後に死去し、王領は長男のOsmondに譲られた。
ボルドーはついに神聖ローマ帝国領となった。
カスティーリャ、レオン、ガリシアの王位を兼ね、レコンキスタを完遂させた大女王Mayorにはふたりの息子がいた。
このうち、長男のPelayoがは大帝Dietmar II世の姉、Romildaのもとに婿入りしていた。1382年にアンダルシア王領を与えられたPelayoは翌1383年にはポルトガル王国に侵攻した。
1288年、大女王Mayorは薨去すると、彼女の遺領は分割されることなく、長子のPelayoに一括して継承された。
Pelayoはアンダルシア、ポルトガル、カスティーリャ、レオン、ガリシアの5つの王位を兼ねることとなり、イベリア半島の全体に跨る領国を支配する神聖ローマ帝国中で最有力の諸侯のひとりとなった。
イベリア半島は東部のデンマーク=アラゴン領、西部のカスティーリャ領、南部の帝国直轄領に大きく分けられる。 半島内でも最も繁栄しているマラガやグラナダを帝国は直轄地化している。 なお、西部にスウェーデン領があるのは、スウェーデン王位獲得を狙った皇帝が請求権を有した臣下を封じたためである。 また、一部の所領は婚姻を通じてザクセンやチロルに受け継がれている。
実は、Dietmar大帝が最初に手をつけたのはフランス王国領であった。
もともと、フランスに対しては叛乱に乗じる形で1313年にマコンを攻略、
また、1330年代には独立したランス伯を上ロレーヌ公が攻撃したことからフランス王国東部は徐々に帝国に侵食されていた。
独立した小国の維持はきわめて困難である。
1360年、帝国領内に身を寄せていたブルゴーニュ公の次男Amalric de Bloisの請求権を主張し、Dietmar大帝はフランスに宣戦を布告した。
当時皇帝はまだ14歳であり、実際の軍略はすべてErmengau de Commingesが執っていた。
神聖ローマ帝国はブルゴーニュ公領を獲得したが、この微妙なバランスはその後、数十年間に渡り変化の無いままで経過していた。
事態に動きがでたのは、1397年を迎えてからだった。
前オルレアン公の甥にあたるBarthelemi de Sensはオルレアン公位の請求権を保持したままアキテーヌ王国領北部に司教領を獲得していた。
この時代、フランス王国領内は、オルレアン公領とノルマンディー公領に大きく二分されるようになっていた。
Barthelemiのオルレアン公位への請求権を主張してフランス王国に攻め込んだ神聖ローマ帝国は結果として、
フランス王国の法的な領域の大部分を支配することとなった。
Dietmar II世がフランス王位を簒奪すると、フランス王の支配下にあった各公爵は、それぞれ一時的な独立を得た。
彼らのうち前フランス王のヴァロワ公Mathieu II世以外の諸侯たちは1398年には神聖ローマ帝国への臣従を誓った。
Dietmar II世の治世に神聖ローマ帝国は西方への拡大を鮮明とし、現在でいうスペイン、ポルトガル、フランス、イギリス、アイルランドといった地域を次々と支配下に収めていった。とくに、フランス、アキテーヌ、スペイン(カスティーリャ=レオン=ガリシア)を確保した方法はそれぞれ対照的なものであった。
フランスは、長年に渡る複数回の戦争で、公領ごとに領地を削り、de jureの過半数のプロビンスを確保することにより王権を簒奪、残る諸侯にはフランス王位への臣従を誓わせて支配下に収めました。アキテーヌは、血族の持つ王位への請求権を主張した戦争により、より直接的に獲得しています。最後に、スペインは後継者を女系結婚により帝国宮廷に招き、母から王位の継承を受ける前に帝国の臣下としてのアンダルシア王位を与え、相続によって神聖ローマ帝国の版図に加わりました。